ヴィッター家の平日の夜はその後何事もなく過ぎていき、翌朝、少尉はいつものようにかりそめの仕事に出かけ私はその背中を見送った。
朝刊では男の妻の死が数日前の夫の記事よりほんのちょっぴり大きく取り上げられていたが、やはりアパートの住民の話題に出ることはなかった。
日課の散歩の帰り道に付近を通ってみても、綺麗に洗い清められた歩道の石畳にはすでに自殺の痕跡はなく、ただ街灯の根元に置かれた小さな花束だけが失われた命を悼んでいる。
妻の自殺原因が明白なせいだろう。
その後、夕刊にも翌日の朝刊にもそれ以上の続報が載ることはなく、夫婦の相次ぐ死に過去の出来事を結びつけるものは誰もいないようだった。
むろん私たちの日常にも変化はなかった。少尉の言ったとおり、男とコールド・ヴィッターの遭遇は本当にただの不幸な偶然だったのかもしれない。列車爆破に子供たちが巻き込まれた時と同じように(最もそれは彼にとっての話で、上官や上層部については知る由もないが)。
そう思いつつ、ここニ、三日少尉の表向きの仕事が急に忙しくなり、残業続きでゆっくり顔を合わせる機会がないことを私は喜んでいた。週末の夜も仕事を持ち帰ったとかで居間にこもってしまい、おかげでいつもより広いベッドで例の任務抜きにぐっすりと眠れた。
不器用な上官殿と違ってハニートラップの適性あり、と判断されたからこそこの任務についているのに……などと少し反省しつつ日曜日のすがすがしい朝を迎えたが、居間でソファをベッド代わりに服を着たまま眠りこんでいる夫を発見しても、扉をそっと閉めそのまま起こすことなくやり過ごしてしまった。
大丈夫、時間が立てばまだ心の中に居座っている甘ったるい“感傷”もやがて上官と同じく戦争中のありふれた出来事の一つに過ぎなくなる。銃後ではわからなかった戦争の一面を知って、ちょっと戸惑っているだけ……。
火曜日の朝、玄関先で少尉に
『今日は取引先の食事会に呼ばれていて遅くなるから夕食はいらない』
と言われてつい笑顔を浮べてしまったとき、私はそんなことを考えながら素早く言いつくろった。
「それじゃ晩ごはんは屋台のピロシキにするわ。あの駅前の、ずっとお腹いっぱい食べたいと思ってたの。かじりながら帰りを待ってます」
「いや待たなくていい。先に眠っていてくれ」
少尉はハンチング帽を目深に被りながらもうドアの方を向いている。
「一人で寝るなんてさみしい」
言葉とは裏腹に予想通りの答えに満足しながら私は背伸びをして、ドアを開けようと立ち止まった上官の冷たい唇に口づけた。
軽く触れるだけのキス。この人とはこんなキスしかしたことがない。それ以上は別に彼も求めてこないし。
「ティラミスがいるだろう」
無表情のまま、すげない口調とともに夫は出ていった。
「いってらっしゃい」
聞いていない背中に声だけは明るく送り出す。そそくさと顔を引っ込めたがどうせ見えていないのだからかまいやしない。隣人には甘えた新妻の声だけ聞かせておけばいいのだし。
石のような唇、と頭の中で悪態をつきつつドアを閉めてから、私はふと違和感を覚えた。
唇の感触なんて……そういえば昨日もその前も、あの人は口づけから逃げていない。
まるで二十四時間コールド・ヴィッターみたい、と無意識に笑みがこぼれたがすぐ真顔になった。二十四時間もなにも我が上官殿は元々コールド・ヴィッターではないか。きっと四六時中、私といることでだんだん女性に慣れてきたのだろう。
情に流されず規則・規律に徹し、その上女にも動じないエリート諜報部員。夫婦潜入の素晴らしい成果。もう心配する事はなにもない……。
「これで我が上官殿はますます安心ね」
足元に寄ってきたティラミスに話しかけると、つぶらな瞳がきょとんと見上げてきた。今までお気に入りの暖炉の側に寝そべっていたのだろう。この子はヴィッター家の主人の存在にはまるで無頓着で、見送りも出迎えもすすんでやるのを見たことがない。むろん犬も人もお互い様なのだが。
研修期間も含めると私たちが一緒に暮らしはじめて数ヶ月は立っていたが、ティラミスはちっとも少尉になつかなかった。姿を見ると逃げてしまうとか歯を剥き出すということはないが、そっけないというかなんだろう……仕方ないから一緒にいるだけという感じ。
もちろん少尉になんらかの危害が及べばこの子は全力で助けるだろうが、それは軍用犬としての訓練によるもので、それ以上ではない……。
ティラミスの黒い目は真っ直ぐに見つめ返してくる。その素直な眼差しを見ていると朝の味気ないやりとりなどどうでもよくなってきた。私は伍長であの人は少尉。部下と上官。ただそれだけの関係。
私は普段の笑顔を取り戻し、愛犬を足元にまとわりつかせながら居間へ戻った。
5章(1)