昼間はヴィッター夫人を周囲にアピールしなければならないのでいつもと変わらない一日だったが、夜は同居人がいないのをいいことにソファでお行儀悪くくつろぎ、久しぶりの独身気分を満喫した。ほんの数ヶ月前のことなのに女子寮暮らしが懐かしい。ティラミスも久々に私の隣に座らせてもらって喜んでいる。普段はズボンに抜け毛がつくと少尉がうるさいのだ。
こうしてペットとともにソファに寝転がり、普段は聴けない低俗なラジオ番組に笑いながらピロシキをかじっているうちに一人の夜は更けていった。
日付が変わる時刻が近づいてくる。いつもならどんなに遅くてもお茶目な新妻らしく寝たフリをして夫の帰宅を待つところだが、今朝方の少尉を思い出し、暗がりで抱きついたところでどうせつまらない反応しか返ってこないだろうとさっさと寝ることにする。
本音はもっと夜更かしをしたかったのだけど平日の夜だから仕方がない。シャワーを浴び着古したワンピース型のゆったりしたナイトウェアに着替え、欠伸をかみ殺しながらベッドに入る。こっそりいただいたお客様用のブランデーが意外にまわっていたらしく、ほどなくして眠りについた。
どれくらい時間が過ぎた頃だろう。
暗闇の中、玄関の物音に私は目覚めた。侵入者の気配。少し引きずった重たい足取り。靴音は単独。
しかしティラミスは騒がないし、訓練で鍛えた感覚も酔った同居人が戻ってきただけだと伝えていたので起き上がることなく再び眠りに落ちた。
しばらくしてまた目が覚めた。何か硬質な、グラスか何かの触れ合う音が微かにキッチンから聞こえる。
お酒を飲んでるのかな、と私は半ば眠りながら思った。そういえばこの音……昨日の夜……その前も聞いた、かも……そうか少尉は最近……眠れ……な……い……。
しかし睡魔が強すぎてそれ以上何も考えられなくなり、キッチンの物音を締め出すべく毛布を引きかぶると再び眠りに落ちた。
それからかなり過ぎたか、それともほどない頃だったか。
不意にベッドの上で身体がぐらりと傾いたので、私は驚いて目を開いた。鼻腔に広がる酒の強いにおい。どこか力の抜けたような重たい男の体がのしかかってくる。
「少尉!」
答えはない。ただしゃにむに身体を押し付けてきた。
「あ、あの、今日は週末じゃないですよ?」
我ながらバカな反応だと思ったが、こんなに強引な少尉は初めてだったのですっかり気が動転していた。重たい体の下で逃れようともがくと、力強い男の指が引き止めるようにゆったりした室内着の襟の辺りをつかむ。なおも闇雲に動き回るうちに布地のどこかが裂けた甲高い音が闇に響いた。
「少尉っ」
やはり返事はなく、暗がりの中で酔っ払い特有の乱れた息遣いだけが耳元で聞える。
私は恐怖に駆られた。理性はいつもの任務だと割り切ろうとしていたが怯える感情をとめられない。服がますます裂け脱げ落ちるのもかまわず、重たい体の下からなんとかすべり出たのも束の間、少尉が再びのしかかってきて……。
『え?』
私の胸元に顔を埋めると、彼はそのまま動かなくなった。ボタンが外れた男物のシャツから直接触れる素肌は汗ばむこともなく、鼓動も早鐘を打つようなのとは違う。欲情の熱狂とは程遠い身体。
しばらく様子を伺ってからそっと広い背中に手を回してみた。呼吸は酒臭く相変わらず荒かったが、そのまま手のひらを当てているとだんだん落ち着いてくるような気がする。
やがて重さに息苦しくなったのでゆっくり身体をずらしたが、少尉はされるがまま私の胸元に額をあてじっとしている。まるで最初からそうしたかったみたいに。
『この人は私を抱きにきたんじゃない』
もう恐怖は感じなかった。闇の中に浮ぶ白い前髪に手を触れ優しく撫でてみる。
少尉は私を抱きにきたんじゃない。抱かれにきたんだ。でも不器用だから、男だから……こんなやり方でしか、抱かれ方を知らない……。
しばらくすると呼吸が静かになり、彼は眠ったようだった。
そっと起き上がり毛布を引き寄せる。傍らの寝顔が眼に入った。
目蓋を伏せた少尉はなんだか弱々しく無防備に感じられ、普段の取り澄ました帝国エリート諜報員の面影はない。それは時たま見せるあの……妻にいきなり甘えられてどきまぎしたり困ったりしている時の彼を思わせた。
不意に、この人はコールド・ヴィッターを演じているだけなのだ、と痛切に感じた。
もともと規則・規律に徹する生真面目な人なんだろうけど、不器用なだけで決して感情を排した人なんかじゃない。きっとラインベルカ少佐はそれがわかっていて少尉にこの役割を命じたのだ。苦手な役どころを悩みながら懸命に演じている役者の演技のほうが、本物よりもリアルに見えるものだと。それはたぶん“フランシア伍長の娘”も同じ……。
彼が寝返りを打ち私に触れた。細長い骨ばった手だったけれど温かだった。
いつもの夜ならば――週末の夜だってシャワーの後は――私たちは、互いの邪魔にならぬよう心持ち背中を相手に向けてダブルベッドの両端に離れて眠りにつくのだけど。
私は微笑むと少尉の隣に寄り添い、そのまま二人ともくるむように毛布を引き上げた。
(2)