目蓋の向こうが明るい。朝がきたらしい。
　でももう少しこのままあたたかい毛布にくるまっていたい。なのに……。真横でぴったり寄り添っていた物体が身動きしたとたん、なんだか急に無粋な肌寒さを感じて私は目覚めた。
　薄く開けた目蓋の向こうのぼんやりした視界の中で、少尉が私を見下ろしている。
　頭が痛いみたいに広すぎる額に手を当て……驚いたハトみたいに口をポカンと開けて……こんな顔つきじゃコールド･ヴィッターも形無しね。
　ちょっと寒いじゃないの、と私が毛布を胸元まで引き上げたのが合図のように、少尉がぽつりとつぶやいた。
「今日は水曜日のはずだ」
「はい……ええ……そうです」
なんとか答えたものの再び目を閉じてしまった。眠ったのが遅かったせいでまだ頭がはっきりしない。
「では何故？」
「何故って……。昨夜のこと、何も覚えてないんですか？」
やっと完全に眼が覚めて、私は毛布を引き寄せたままベッドに起き上がった。
　少尉はこちらに視線をむけたが、毛布をかき抱いた裸の胸元にぎくりとしたように慌てて目を逸らす。代わりに何に気づいたのか自分を覆う上掛けの中をチラッとのぞきこんでから、再び混乱した表情で視線を戻した。寝ているうちに窮屈になって無意識に脱ぎ捨てたのだろう、彼もいつの間にか私と同じぐらいしどけない恰好になっている。
「私は……」
彼は視線を泳がせ昨夜の記憶を必死になって探っているようだがどうやら何も思い出せないらしい。やがて断念したらしくこちら向き、今まで見たこともないほど真剣な表情で尋ねた。
「私はきちんと、避妊をしたか？」
笑いが発作のようにこみ上げてくる。この人はホントになんてムードがないんだろう。そりゃ大事なことだけど何も真っ先に聞かなくたって。まさにハニートラップに関してはまったくの無能。女を軽くあしらうには生真面目すぎる……誠実すぎる人。
　しかし少尉は相変わらず凍りついた表情のまま、体を二つ折りにしてクスクス笑う私を、判決を待つ罪人みたいな顔で見つめている。その様子があんまりおかしくて、つい意地悪をしたくなった。
「いいえ、何もしてません」
そりゃ眠ってしまったもの。
　私の引っ掛けにまるで気付いていないらしく、少尉の額に当てていた手がバタッとベッドに落ち、目がさらに不安げに見開かれた。そのまま頭をガクリと垂れるとあえぐように言葉が漏れる。
「伍長すまん！　私は取り返しのつかないことを……」
あまりの取り乱し様にちょっとかわいそうになったので慌てて付け加える。
「だ、大丈夫です、昨夜は少々お酒が過ぎたようですから」
「しかしキミが大丈夫と思っていても万が一ということが」
何にもわかってなさそうなセリフ。もう、皆まで言わせないでよニブイなぁ。
「万が一もなにも絶対大丈夫なんです！　昨夜の少尉は飲みすぎておられたので」私はコホンと咳払いをした。「何もできずにそのまま寝てしまわれました」
「……なんだそういうことか！　それはよかった。本当によかった。いや……とにかくよかった何よりだ」
しかし少尉のホッとした笑顔はすぐにしかめ面に変わり、再び額に手を当てた。どうやら二日酔いらしい。
「お仕事休まれます？」
「何を言う、このようなことで休むわけには……ん、今何時だ？　いかん、大変だ」
後は……ヴィッター家の朝には珍しい修羅場になってしまった。昨夜のピロシキの残りを口にほおばりモグモグやりながら服を着替える夫の寝癖を、妻はアイロンの霧吹き片手に整える。見上げているティラミスはなんだか愉快そうだ。
　しかし少尉は見事であった。玄関を出る頃には、いつもの非の打ち所のない完璧なコールド･ヴィッターが何事もなかったような顔つきで悠然とハンチング帽を被っている。
　私が近寄ると彼はドアのほうを向いてしまったが、背中越しにはっきりした口調が聞えた。
「昨夜は色々と迷惑をかけたようですまなかった。だが二度とこんなことはない」
感情のこもらない角々した口調。ドアを向いた顔はきっと仮面のような無表情だろう。
　でも私はもう不愉快になることはなかった。
「あの、少尉」
「ん？　なんだ伍長」
振り返った彼の口に、唇を押し当てる。
　少尉は溶けた鉛にでも触れたかのように飛びのき、重たい金属製のドアが背中に当たりドスンと大きな音を立てた。
「な……にを……と、とにかく行ってくる！」
「行ってらっしゃい、アナタ」
乱暴に扉を開け、少尉は逃げるように出て行った。でもエレベーターの前にきた頃には動揺も収まったらしい。閉じる扉の向こうに後ろ姿が静かに消えた。
　エレベーターが下りるのを見届けてから、ゆっくりと玄関のドアを閉める。
　あの慌てっぷりったら。よかった少尉が……コールドではない、ただのヴィッター少尉が帰ってきた。
　安心できる上官に不安材料が戻ってきてしまったというのに。
　私は一日中、自然と笑みが浮かんでくるのを止めることができなかった。