列車は切り替えポイントを通過したらしい。揺れが一段とひどくなる。
膝の上のバスケットが大きく揺れ、中から微かにクゥーンと唸り声がした。
「待ってねティラミス。もうすぐ国境を越えるから」
隣から夫が冷たい視線を注いでくる。ペットの犬など現地調達しろ、という不機嫌な声を思い出しながら、私はやり返すようにバスケットを優しく撫でた。ラインベルカ少佐には了解済みだ。文句を言われる筋合いはない。
二人がけの席に夫婦並んで座っているというのに、この人と来たら棒を呑んだようにかしこまってて、まるで寄り添うという言葉を知らないみたいだ。
国境を越えた後、列車はネビュロ(西方諸国連盟)には所属していない小さな都市国家に入る。底からフロスト共和国に入ればいよいよ本番……今までも国境沿いの街で中継ぎ員として活動したことがあるが、共和国に乗り込むのは私には初めての経験だ。
陸軍情報部二課・ヴィッター少尉とその直属の部下である私、フラウス・フランシア伍長は、夫婦潜入のテストケースとしてこれからの数ヶ月間をフロスト共和国で活動する。
それまで単独潜入が主体だった帝国諜報部としては、今までの常識を覆す思い切った試みだ。
成果があればしばらく夫婦単位で“華々しく”活動することになるかもしれない……本来の目的である(夫婦と限定しない)複数潜入を導入するための、眼くらましとなるために。
コールド・ヴィッターとして“敵国にも知られる”エリート諜報部員と、共和国兵の下劣さと情け知らずの象徴と戦時中さんざん宣伝された“フランシア伍長”の娘。
この組み合わせをあちらの諜報部はどう分析するのだろう? 停戦になっても相変わらず派手な演出好きの、実より名を取る帝国陸軍とでも? ……ラインベルカ少佐でなくともなんだか楽しくなってくる。
それにしても数年前、ショックのあまり棺に取りすがって泣くことさえできなかった小娘が諜報部員になったなんて父が知ったら……おまけにこの年齢で自分と同じ“伍長”級だと知ったら、天国でさぞや驚くことだろう。
「そんな小さな鞄に詰め込んで車内に連れ込むほうが、よほど哀れだと思うが」
列車のガタゴト揺れる音に混じって、ちっともかわいそうと思っていない硬い調子の声が聞こえてきた。
「数時間ちょっと我慢するのと何ヶ月も知らない人と慣れない家で過ごすのだったら、少し我慢させるほうがいいと思うわ。それにこの子はかしこいからちゃんとわかってるのよ」
小型軍用犬の導入は中止になったからと人間側の勝手な理由で廃棄されそうになったこの子を、またこちらの勝手な理由で置き去りになどできるものか。
もっと強い調子で反論したかったけど、新妻らしく甘えた調子で答える。国境を越えるまでは本番ではないかもしれないけど、任務はもうはじまっているのだから仕方がない。
「犬の気持ちが読めるとは。なんとも優しい女だ」
嫌味なのか褒めているのか、冷たい口調からは何にもわからなかった。
共和国につけば少しは普通の夫らしくなるだろうか。とてもそうは思えない。
列車が空いていて向かいに人がいないからいいものの、傍から見たら新婚というより倦怠期の夫婦と思われるのではないかと半ば呆れながら、私は列車に揺られるニコリともしない横顔を眺めた。
面長の輪郭にこけた頬と高い鼻、尖った顎がかもし出す鋭角なシルエット。両端の抜け上がった理知的な広い額。こめかみの辺りから白くなった髪のせいで、さらに冷たい印象になる。
優しいダンナさまという雰囲気はまるでない。まったくコールド・ヴィッターが夫だなんて……。
『ねぇフラウス、コールド・ヴィッターってどんなダンナさま?』
列車の音が遠くなる。代わりにルームメイトのイタズラっぽくクスクス笑う声と、陸軍情報部・女子独身寮の二人部屋が脳裏に浮かんだ。
1章(1)