(2)
 ……私が明日の任務に備えスーツケースの最終点検を終えたとき、彼女は自分のベッドに肘をついて腹ばいになっていたのだっけ。

「少尉じゃなくて?」
「え?」
同僚のキョトンとした様子に私もなんで自分がこんなことを言ったのだろうと不思議な気がした。二課でそんな渾名で呼ばれている諜報部員は、我が上官ヴィッター少尉しかいないのに。
「ごめん、普段コールド・ヴィッターなんて呼ばないから」
そういえば一度だけそんなふうに呼んだことがあったなと、スーツケースを膝で押さえつけ留め金をかけながら、彼と初めて出会った日の事を思い出した。
 確か研修の打ち合わせでティラミスも一緒だった……あんまりエラソーで高圧的だからついからかってみたくなって……あの子に言ったフリして頭が薄いとかよく見ると脚が短いとか言っちゃったけど、少尉、私の当てこすりに気づいていたのかな? あれでいて結構かわいいところのある人なんだけど。
「そりゃそうね。じゃあ普段はなんて呼んでるの、ダーリン? それともハニー?」
「あはは、普通に“少尉”よ」
「あのねぇ、例の任務中だってば」
ルームメイトとは陸軍情報学校時代からの同期で気心の知れた仲だ。ついでに我々は一期生……彼女によれば入学当初、同期たちは私にかなり遠慮していたらしい。なぜなら級友フラウスこそはかの有名な“フランシア伍長”の娘であり、彼らの大半は下劣な共和国を倒すべく遺児の少女が入学したという新聞記事に大いに愛国心を刺激され、それまで卑屈な任務だとまったく人気のなかった諜報部を敢えて志した若者たちだったから。
 しかしそんな遠慮も、卒業とともに伍長級で二課に配属され数年が過ぎた今となってはすっかり笑い話だ。
「普通に“アナタ”」
「なーんだつまんない。ファーストネームを呼び捨てにしてやればよかったのに」
彼女はゴロンと仰向けになり、荷造りの終わった私は部屋の隅のゲージにうずくまるティラミスの寝顔を確かめてから自分のベッドに戻る。毛並みの色艶も鼻の湿り具合もいつもと変わらない。明日は長時間狭いところで我慢する事になるけどきっと大丈夫。
「帝国陸軍諜報部員は保守的だから戦後の風習には染まらないわ。だいたいウンと年上のダンナさまなのよ」
「保守的って二課の象徴コールド・ヴィッターは、でしょ。私たちまで一緒にしないでよ。ところであの人、ハニートラップに関してはまったくの無能って噂だけどさ、……そこんとこ夫としてはどうよ?」
「こんな話、部内で広めてもいいのかなぁ。どうせ他部署や共和国にも流すんでしょう」
「大丈夫、きっとそれもラインベルカ少佐の意向だから。だいたい帝国諜報部員は恋愛ベタって噂、男子限定じゃない」
二人してクスクス笑った後で、私は質問に答えた。
「えーっとコールド・ヴィッターはねぇ、ものすごく無愛想だけど……まぁ、あれは真面目で誠実ということにしておくか。冷淡でうんざりするけど浮気もギャンブルもやりそうにないし、家具だと思えば苦にはならないから夫を同居人とするならカツカツ及第、てとこかな」
「家具! 私の母さんも父さんにそんなこと言ってた!! でもそれって夫を恋人とするなら駄目駄目ってこと……」
白い歯をむき出しにして笑っていた彼女が急に黙りこんだ。ややあって少し悩ましげに続ける。
「ごめん、ちょっと込み入ったこと聞いちゃうけどさ……夫婦潜入って噂ではその……本当の夫婦にならなきゃいけないの? あ、嫌なら答えなくていいよ」
私は思わず微苦笑をもらした。
 きっとみんなの好奇心は限界にまで達していたことだろう。今まで誰も聞いてこなかったけど、よく持ったものだと褒めたいぐらいだ。
「おやまぁ何をいまさら。情報学校の授業で大真面目な講座名ついてたけど、明らかにハニートラップとしか思えないのあったじゃない。あれ教室の雰囲気が愉快だったね、特に男子が」
「うん面白かった、真っ赤になって下向いてるヤツとか、やたらと鼻ばっか触ってるヤツとかさぁ。……そっか。ホントなんだ」
私が黙ってうなずくと彼女は顔をゆがめ、口調がやりきれない感じに変わった。
「でもさ、敵や情報収集相手なら任務と割り切れるけど、味方にまでそんなのって必要あるの?」
「大丈夫、あなたは何も心配しなくていいって。導入予定の複数潜入は基本的に普段は単独で、定時は規則的に中継員を介して連絡を取り合うぐらいの関係らしいよ……私や少尉のとは違うから。こっちのは、そんなことまで命令どおりのガチガチで融通のきかない非人間的な帝国諜報部員、っていう共和国に向けての宣伝工作だもん。相手がそこまで探ってくるかはかなり疑問なんだけどね。ま、体裁が大事な帝国情報部、ということで」
「あのね、私は自分の心配じゃなくてフラウスの」
彼女は怒った様子で起き上がろうとしたが、不意にハッとした顔つきになって再び枕に頭を沈めた。
 わびるように額に手をあて、天井に向かってぽつりとつぶやく。
「……ごめん。アンタはお父さんの仇をやっつけるためにずっと頑張ってきたんだよね。だのに、こんな下衆の勘ぐりな心配しちゃって本当にごめんなさい」
見知らぬ“フランシア伍長”の亡霊が私と同僚の間に立ちはだかるのを感じた。この哀れな兵隊は未だに“娘”の周りを彷徨っていて、時折こんなふうにフラリと現れる。
 私は自分のベッドにもぐりこむのをやめて立ち上がると、ルームメイトの傍らに座った。
 マットに寝転がる友人の顔を覗き込むふりをしながら亡霊を追い払い、同性だけの研修の最後の夜みたいに親密な雰囲気を作る。
 お堅い仇討ち話なんかより女の子はラブロマンスがいいに決まってる。私もあなたと同じありふれたごく普通の娘よ。
「うふふ、心配はご無用。安全性にかけては、そういうお相手としてのコールドヴィッターはまことに申し分ない人物だってラインベルカ少佐のおすみ付きなんだから。確かに甘い言葉も雰囲気もアレだけど、病気と望まぬ妊娠の心配だけは限りなくゼロ……。ホントご清潔だし、特にあの抑制力および用心深さときたら……」
同僚が額から手をはずし、ポカンとした顔で私を見上げる。
「え? あのーフラウスさん」
「何のために研修期間が一ヵ月もあったと思ってるの?」
「ちょ……ちょいアンタ。人がずぅっとずぅぅっとずぅぅぅっと乙女の小さな胸を痛めて心配していたのに、この私に何にも打ち明けず澄ました顔してさっさとロストって何よそれ!!!!」
いきなり枕が飛んできた。第ニ打を避けようとして、笑い転げながらベッドから転落した私の目にティラミスの耳がピクリと動くのが見える。ごめんね起こしちゃった……。

「ひゃっ!!」
突然、列車が減速した。
 車体が大きく揺れつんのめりかけた私の膝の上からバスケットが飛び出しそうになる。
 だが背筋に冷たいものが走った瞬間、筋張った細長い手が横から素早く伸びてきて籠をしっかりと受け止めた。
 中からヒャン、と驚いたような甲高い鳴き声がしたけれどすぐに静かになり、バスケットの中で座りなおす気配がする。ティラミスには何事もなかったようだ。
 籠を抱えなおす私の視界の中で、筋張った手は役目を終えたように離れていく。ホッとして思わず傍らを見上げるとヴィッター少尉はまだバスケットを見つめていた。優しい、と勘違いしそうになる安堵の表情を浮べて。
 この子を連れて行くことをあんなに嫌がっていたのに。
 しかし視線が合うととたんに元の無表情に戻ってしまい、いつものコールド・ヴィッターが抑揚のない乾いた口調で言った。
「国境を越えたぞ。支度しろ、次の駅で降りる」

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