2章(1)
 私たちの新居は停戦直後に建てられた、共和国ではよくあるタイプの小規模なアパートメントの一室だった。
 手狭なせいか住人の大半は単身者か年金生活の年寄り夫婦で、新婚世帯には子供が生まれるまでの繋ぎの場らしく、現に我々が入居してほどなく似たような境遇の若夫婦が引っ越していった(つまり突然慌しく転居しても誰も怪しまない環境というわけ)。
 こうして思いがけず年貢を納めることになってしまったらしい中年の夫と、年の離れた無邪気な若妻からなる新婚のヴィッター夫妻としての生活はつつましく始まり……敵地での暮らしに当初こそ緊張した私だったが、今では初々しい新妻役もすっかり板につき隣人たちとも仲良くやっている。
 廊下やエントランスで和やかに世間話などしながら、ひょっとするとこの人たちの中に共和国のスパイがいるかも、などと冗談を考えられるくらい任務にもすっかり馴染んできていた。
 それに任務と言っても我々の諜報活動はいわばおとりで敵に観察されるのが本来の目的であり、だからこそ重要度の低いものを数多くこなしているわけで、テストケースということもあってか私の場合、本国から送られてくる仕事の内容自体は中継員の頃とほとんど変わらないように思う。
 正直拍子抜けした気分だが、きっと“コールド・ヴィッターの妻“の存在を周囲の見えない敵に向かってアピールすることほうが、私にとっては重要な勤めということなのだろう。
 実を言うとこれはなかなか楽しい任務だったりする。研修時、少尉は自分から大真面目に
『共和国潜入の際は常時、夫婦であることを相手に印象づける行動を取るように。これは義務だ』
とか言っていたくせに、私が“らしく”ふるまうとひどくうろたえるのだ。さすがハニートラップ落第生だけのことはある。
 当初、この人は陰で私のことを嫌ってるんじゃないかと思ったほどだが、アパートの隣人に
『ヴィッターさんとこのご夫婦は本当に仲睦まじいですね』
と言われてからは気にしないことにしている。
 ドアの前で私の『いってらっしゃい』のキスを少尉が文字通り身をよじってかわしたところを目撃されたのだけど、彼が行ってしまった後で住人がこっそり耳打ちするには
『旦那さんはあんまり嬉しすぎて逃げ出した』
ということだから、それからは『おかえり』のキスも欠かさない。もっとも少尉からお返しをもらったことはまだ一度もないけど……。

 ……そうして今日もいつもと変わらぬ朝であった、と私は唇を尖らせながらアパートの薄緑色に塗られた、重いスチール製の玄関ドアに鍵をかけた。ハニートラップが少しでも上達するよう部下がせっかく協力してあげてるのに、これじゃあ絶望的ね。
 足元ではティラミスが尻尾を千切れんばかりに振っている。早く散歩に出かけたくてうずうずしているのだ。これは大雨や雪でなければ欠かすことのない、いつもの大切な日課である。
 隣室の前を通り過ぎぎわ、ドアの向こうから聞きなれぬ話し声がしたので思わず耳を済ませてしまったが、どうやらラジオの音らしい。きっと昼のドラマに夢中なのだろう、どうも諜報部員は疑り深くていけない。退役軍人のおじいさんが一人で暮らしているのだけど、私が敵国のスパイでペットが元軍用犬だと知ったら驚くだろうなぁ。
 ちょうどエレベーターが来ていたのでティラミスを抱き上げて乗り込み、IFのボタンを押す。
 時間帯のせいか途中で乗り込んでくる住人は誰もいず、私は思わず深呼吸をした。緊張が伝わったのだろう、腕の中の小さな体が身を強張らせる。ごめんね、お散歩をカムフラージュに使ったりして。お前は何も心配しないで普段通りにしていればいいのよ……。
「あらヴィッターさん、これからお散歩?」
エレベーターから降り、エントランスを出ようとしたところで管理人室から声がかかった。アパートの一階には住み込みの管理人夫婦の部屋がある。愛想良く尻尾を振るティラミスに管理人の奥さんは目を細めた。短い足や吠え声が面白いと、この子はアパートの住人の人気者になりつつある。
「はい、今日は暖かいんで助かります」
「でも天気予報が夕方から冷えるって言ってから、早く帰ったほうがいいよ」
「そうなんですか? 気をつけるわ、ありがとう。では行ってきます」
「行ってらっしゃいティラミスちゃん」
ペットへの笑顔のお相伴にあずかりながら、私はアパートを出て公園へ向かった。

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