(3)
 それからさらに数日が過ぎ、やがて共和国での最後の夜が来た。
 明日の朝には出発……いかに観察されている身とはいえ、生半可な気分で敵国の国境を越えることはできない。万が一という事がないとは言えないと思うと一分一秒がとても貴重に感じる。
 だのに少尉は最後の夕食の席でもなぜかソワソワと落ち着きがなかった。何を言っても上の空のような感じ。コールド・ヴィッターとしては明日が気になるのだろうが、ちょっと腹がたった。
 少尉の上の空は夕食の後も続いた。ベッドの中でも、出し抜けに起き上がるとそそくさとシャワーを浴びに行ってしまう。まるで週末の夜と決めていた頃に戻ってしまったみたいに。
 一体何をしていたのか、かなりたってからやっと彼は寝室に戻ってきたが、別に寒くもないのに洗い立てのパジャマをしっかり着込んでいて私をさらにがっかりさせた。
 少尉は目が合うのが嫌みたいに入ってくるなりうつむいてしばらくつっ立っていたが、突然、忌々しげに大きな咳払いをしてからやっと正面を向いた。服の着こなしになにやら違和感がある。パジャマなのにワイシャツを着るみたいに、きっちり喉もとのボタンまで留めているせいだろう。やがて仏頂面のまま不機嫌な態度を崩そうともせず大股でずんずんベッドに近づいてきたので、私は何事かと毛布で胸元を隠しながら慌てて起き上がった。
 ベッドの前までくると彼は眉一つ動かさずコールド・ヴィッターそのものの完璧な無表情で裸の部下を尊大に見下ろし……ギクシャクと機械仕掛けめいた動きで私の前に座った。 
「伍長、」
しかし口は開いたものの後が続かず、言葉にするのをあきらめたみたいに下を向くと、いきなりパジャマのポケットから何かを取り出した。深い紺色のビロード張りの小箱……突き出すように勢いよく差し出し、蓋を開けた。
「受け取って欲しい」
内側の白いサテンの上で銀色の小さな指輪が誇らしげに輝いていた。中央にダイヤモンドが一粒収まっている。明らかにエンゲージリングだった。
 私はぼんやりと視線を目の前のダイヤから少尉に移した。コールド・ヴィッターが眉間に皺を寄せたまま、生真面目に私を見つめている。
 裸の女を前に、パジャマ姿で大真面目にプロポーズする男。
 笑い飛ばすべきか感激すべきなのか判断がつかず、私はただ混乱するばかりだった。少尉の女性に対する誠実な態度を考えればいつかはこんな日が来ると予想できたはずなのに、とも思う。
 もう一度視線を指輪に戻した。
 ヴィッター夫人になったら私の何が変わるだろう。ラインベルカ少佐は、周囲はこの結婚をどう受け止めるのか。
 指輪をはめた自分を想像してみる。
 フランシア伍長の娘がコールド・ヴィッターの妻になる。情けしらずな共和国の象徴として有名な父親を持った娘に、帝国のエリート諜報部員として名を知られた男の妻という肩書きが加わるだけの話だ……何も変わりはしない。家庭に入っても、このまま軍で仕事を続けても、そしていつの日か子供を産んで母親になっても……おそらく何も、変わらないだろう。
 不意に背筋が寒くなる。フランシア伍長の亡霊に肩を抱かれたような気がした。この見知らぬ兵士の亡霊はいつまでも“娘”の周りを漂っていて、決して離れようとしない……。
 ぞっとして指輪から目を逸らし、救いを求めるように少尉に視線を移す。
 だがそこにはコールド・ヴィッターの取り付く島もない冷たい無表情があるだけで、仕方なくうつむいた私は思わず口走っていた。
「私たちは……上官と部下です」
コールド・ヴィッターと結婚したら、かつて父の思い出を無視され見知らぬ“フランシア伍長”を受け入れさせられたように、いつか少尉の真実の姿もないがしろにされ、それを受け入れなければならない日がくるだろう。……こんな思いはもうたくさん。
 私が好きなのは冷淡な諜報部員になりきれずいつも頑張っているヴィッター少尉だ。民間人を撃てなかった父のように帝国の理想からは外れた軍人なのかもしれないけれど、でも私は大好き。
 彼は仮面のような無表情のまま指輪の向こうにいる。私は亡霊を追い払うように顔を上げ、大好きな上官に優しく微笑かけた。
「あなたは少尉で……わたしは伍長で……」
それがとても幸せなんです、わざわざ結婚しなくてもこのままずうっと上官と部下でいいじゃないですか……と続けようとした矢先に、彼の無表情が大きく歪んだ。何か言いたいのではと私は口をつぐんだが少尉は黙ったまま目を伏せ、代わりにビロードの小箱がパタンと音を立てて閉じた。
「すまな……かった」詫びるようにうつむきながら箱をパジャマのポケットにしまい、彼はふらふらとベッドから立ち上がる。「今まで色々と……本当に申し訳ないことをした。……今日は最後の夜だ、ゆっくり休むといい」
最初こそ搾り出すような感じだったが、最後は見事にいつもの角々しい調子に戻っている。立ち上がった時の顔つきは、もうすでに完璧なコールド・ヴィッターだった。
「あの、少尉」
「おやすみ伍長」
「でもあの」
彼はこちらを見ようともせず、もう部屋から出て行こうとしている。
「今夜は居間のソファで寝る事にする。最後の夜くらいゆっくり休みたまえ、明日は早いぞ。……今までありがとう、本当にすまなかった」
思わず手を伸ばしかけた時にはドアは閉まり、私はひとり寝室に取り残された。

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