やがて獲物をぞんぶんに味わい尽くしたのか、ラインベルカ少佐は傍らの副官に視線を移す。
「加害者がセクハラを否定する事例には事欠かんが、逆パターンの報告はあるか? 被害者側が頑なに否定するような」
「私の記憶にはありません。そもそも今回のように、加害者側からの申告というケース自体が存在しません」
「となると初めての事例か」
「事例もなにもセクハラの事実など、」
少佐の鋭い視線に射すくめられ、私は蛇に睨まれた小鳥のように声を飲み込んだ。少尉はすでに夫婦潜入の任を解かれ、別の任務地に赴いている。コールド・ヴィッターが立場を利用して部下に関係を強要したという出来事は、典型的な帝国諜報部員の素行の一つとして宣伝するために、もう事実として一人歩きを始めているに違いなかった。たぶんそのような理由で複数潜入の試みは失敗に終わったと敵に思わせるほうが、導入を前向きに考えている二課にとっては何かと都合がよいのだろう。
私が黙り込むとラインベルカ少佐は満足げに微笑んだ。
「まぁ事実を確認できぬと言うことは、降格左遷その他の懲罰人事もできぬということだ。ヴィッターめ、命拾いをしおって」
少尉の仕事の妨げにならなかった。ホッとして思わず私の口元が緩んだのに気付いたのか、ラインベルカ少佐は不思議そうな顔をした。
彼女は再び顔の前に手を組みしばらく眉間に皺をよせてから、おもむろに顔を上げる。それが合図のように副官がかがみこみ上官に顔を寄せ、二人は何事かしばらくささやきあってから同時にこちらを向いた。
「ということでこの件は落着だ。……ところで貴様の新たな任務のことだが」もう面白がるような視線はなく、事務報告といった感じだ。「カルッセルへ向かえ」
「カルッセル、ですか」
「何、聞いたことがなくても恥かしがることはない。かつては軍事的意味もあった場所だが、今となっては辺境の、皇帝陛下に忘れられた玩具の捨て場所よ」
「はぁ」
「戦時中、無敵を誇った装甲列車がそこにあるのですよ」黒髪の副官が少佐の後をついだ。「もっとも今は地元の国境警備隊に払い下げられて整備運用はそちらが担っていますが。この辺りは戦後、共和国と不可侵地帯の協定が結ばれて表向きは軍が入れなくなったのでね。そんなわけで終戦直後より監視その他は二課が担うことになって」ここで彼女は部下が理解できているか確かめるようにいったん言葉を切った、「現在はヴィッター少尉の直属の上司にあたるブランドン中尉という人物が駐在しています。そこであなたに補佐として現地に行ってもらいたい。まぁ軍の介入できない地域での補佐と言っても武装した民間の国境警備隊もいることだし、本当はあなたのように敵地経験もある若くて優秀な人に相応しい任務ではないのですが」
カルッセル。共和国国境沿いにあるという聞きなれぬ辺境の街。
副官の話はまだ続いていたが、私の頭の半分は別のことを考えていた。
少尉は国外へ、私は国境沿いの田舎町へ。
なるほど、疑惑の人物はみな体よく本部から追っ払おうと言うわけか。
おそらく事実を曖昧にしたまま当事者不在を利用してうわさを広めようという魂胆なのだろう。本部にもぐりこんでいるかもしれない他国のスパイたちにも聞かせるために。確かに核心は曖昧であるほど人々は喜んで話題にする。上手いやり方だ、反対するいわれなどない。
やがて副官の話が終了し、私の頭の半分も物思いを打ち切った。
「了解しました」
敬礼してから執務室を後にする。任務の詳細は追って指示するとのことだった。
ドアを出て廊下を行くとなぜだか人々の視線が気になる。顔見知りの挨拶がなんだかぎこちないところをみるに、残念ながらただの気のせいではないようだ。
コールド・ヴィッターとその部下の女性のスキャンダラスなうわさは、すでに情報部を駆け巡りはじめているのだと悟る。
もう私たちが上官と部下として共に同じ任務につくことは、二度と再びないだろう。
二人の関係は、完全に終わってしまった。
(5)