「俺、少尉のこと尊敬していました」
男は相変わらずフチの赤い目で宙を見やりながら、自分のことを褒められたみたいに嬉しそうだった。
私を慰めるつもりで来たのではなかったのか……アリスは苦笑しながら、傍らの酔っ払いを眺める。
実際、孤独からは救われたし、彼の話は指揮官としてまだまだ未熟な自分にとって、考えさせられるものであった。
だが。
「少尉どのは、良い上官だったのだな」
なんなのだろう、過去の上官に対するこの重たい気持ちは。……彼女はわだかまる思いに押しつぶされそうになった。
カルッセル行きの列車の中で、伍長が私ではなくヴィッター少尉を“少尉”と呼んだ時に似ている。いや郵便局事件の際、ハンクス大尉と分かり合っているように感じた時か……それとも『Georg&Regina』でアイツが女将と楽しそうにしていた時……。
いや、小料理店での時は違うな、とアリスは思った。
あの時はアイツの普段見せたことのない笑顔に驚いて……なぜか申し訳ない気分になり、自分の力不足を悟ったが、ある意味それだけだった。
そう、女将と比べた際の自分の力のなさへの気持ちは、ハンクス大尉の時に感じたような絶望的なものとは違う。もっと前向きなものだ。
もっとも大尉と伍長との関係に感じた絶望感も、その後の出来事であの時は消えたかに思えたのだが……。
「いえ、良いというよりは随分な上官でした」
かつての上司を褒められたのが嬉しいのか、伍長がまた楽しそうに別のエピソードを披露した。
アリスは、男だらけの部隊特有の出来事がおかしくて笑っている自分と、嬉しそうな伍長に喜んでいる自分と……彼の心の重要な地位を占めている、見知らぬ“少尉”に暗い気持ちを抱く自分を感じていた。
その暗さは愛するものをより深く知りえたという喜びよりも大きく、見ず知らずの異性の上官に対する暗い嫉妬を、彼女はどうすることもできなかった。
「あはは、私は戦争を知らないがそんな楽しいこともあったのだな。……いや、笑いも部隊には大切だと思うぞ。しかし、その少尉どのに比べると、……私はまだまだ未熟だ」
言ってしまってからアリスは唇を噛んだ。肯定されても否定されても、どちらにせよいい気分ではない。
いつか伍長も私をあの“少尉”のように、他人に話す日がくるだろうか。伍長の、かつての“少尉”みたいな、随分な上官に私がなれる日がくるのか。
……いや、そんな日はこない。なぜなら私たちは。私たちは、もう。
またうつむいてしまったアリスに、伍長は酔っ払い特有の無神経な笑顔を向けた。
「そんな、少尉は少尉に比べたらずっと年下ですし……」
二人の少尉を区別することなく同じ文脈に並べても、ぜんぜん違和感を持ってないところを見ると、彼は見た目よりもかなり酔っているのかもしれなかった。「それに少尉は少尉とぜんぜん違う」
フチの赤くなった目がとろんとアリスを見下ろす。無遠慮な視線は彼女の全身をくまなく眺めまわした後、胸の辺りでいつまでも留まった。暑かったしくつろぎたかったので上半身は体の線のはっきりわかるアンダーセーターのみの軽装だったのが、妙に気になる。
「……比べたりなんか……できません……」
アリスはついさっきより赤くなった伍長の顔を見つめ返した。なんとなく焦点の合ってない黒い瞳には、白い女の姿が映っている。その女はとても小さく見えた。
もし私がお前の昔の上官のように男だったら、と言いかけて彼女はやめた。答えはわかっているような気がした。伍長はきっと、わけがわからない、といった顔をするに決まってる。……アリスはやっと、こう言うだけだった。
「伍長。私はお前が伍長でなくても……そうだな、ステッキンみたいなかわいい曹長でも、ハンクス大尉みたいな頭の少々薄いご年配でも、ウェブナー中尉みたいな女丈夫でも、マーチスみたいにメガネをかけててもオレルドみたいなけしからんヤツでも……そのなんだ、お前が、そのつまり今みたいな大きな大きな男でなくったって、その……好きだぞ、うん」
「は?」
「そのつまり……お前が男だろうが女だろうが年寄りだろうが関係ない、ということだ。いやその、ヘンな意味ではなくてな、背が高いからとかそんな理由でなしに」
あいかわらず伍長はポカンとしている。
「わからぬのか? その……なにがどうであっても私にとってのお前は“伍長”ということだ……いやそのなんだ……つまり、お前が大好きだ、ということだ!」
自分でも何が言いたいのかわからなくなり結局へんな告白をしてしまい、恥かしくなったアリスは顔を赤らめる。
だからお前もそんなふうに私を、と言おうとしたとき、不意に大きな腕の中に抱きすくめられた。
(2)