キャビアにイクラにスモーク・サーモン、ロースト・ビーフに豚肉のゼリー寄せ、ピロシキ……。
帝国内だったら、貴族のパーティーでもなければ見ることもできないようなものを食べられるのは諜報部員の役得だが、さすがにもう一口も入らない。
それでなくてもシャンパンで腹が膨れているのに……さらに不快なことに、共和国のニューイヤーソングが頭の中にまでガンガン響いてくる。酔っ払ったコーラスは調子っぱずれでひどく耳障りだ。
もう食べ物も酒も共和国語も勘弁してくれ、と叫びたくなった頃、どこからかさわやかな紅茶の香りが漂ってきて……ヴィッター少尉は目が覚めた。
カーテン越しの陽射しが明るい。日はすでに高いようだ。いつの間にか頭の中の歌声も止んでいる。
昨夜の……いや、今日か。とにかく夜中のご馳走攻めとシャンパンでどうにも胃が重い。
年明けの朝はどこの家でも寝坊を決め込んでいるはずだと、ヴィッターは生ぬるいベッドの中でなかなか居間に出て行けない言い訳をしてみる。
ドアの向こうからかすかに聞える、若い娘の鼻歌と磁器の触れ合う澄んだ音。
酒が強いのも諜報部員には欠かせない資質というわけで、別に二日酔いなわけではないのだが(そもそも今も任務中だ)、若い娘に目覚めの先を越されるとは。体力の衰えは否めない。
彼女はもうプレゼントを開けたろうか。
ヴィッターは重たいみぞおちを気にしながら、ベッドから体を起こすと立ち上がった。
「新年おめでとう!」
フランシア伍長の明るい声が、ベッドルームから出てきた彼を迎える。ついさっきまで、大家の家で幾度と無く繰り返した挨拶だった。
「おめでとう」
天井に届くもみの木を避けながら、ヴィッターはテーブルについた。明るい午前の陽射しの中だと、クマの怖い顔も……やはり恨みを呑んだままだ。
「そろそろ起こしにいこうかと思っていたところよ。カーシャ(お粥)は召し上がる?」
「……いらない」
共和国特有の、バターたっぷりのへヴィな穀物粥を想像してヴィッターはげんなりした。
「そう言うだろうと思った、実は作ってないのでした。お腹が空いたらピロシキがあるわよ。大家さんからパーティーの残り物いっぱい頂いたの。晩ご飯もまかなえそう」
暖炉から紅茶のトレーを抱えた伍長が笑顔で近づいてきた。足元ではティラミスがチョコマカしている。
「はい、香り高い淹れたてのミルクティですよ」
「異国風のだな。ありがとう」
濃く煮出した共和国のよりも、こんな朝は普通のモーニングティーのほうがありがたい。
フランシアもテーブルにつき、カップに口をつけた。しばし、沈黙が流れる。
やがてヴィッターは正面を向いたまま、どうでもいいような口調で言った。
「プレゼントは……。まだ開けてないのか?」
「ティラミスのは開けたわ。よく似合ってるでしょ?」
カップを下に置き、おいでと呼びかけると彼女は犬を抱き上げた。真新しい首輪をつけたティラミスはなんだか誇らしげに見える。
「ふむ、少しは見栄えがよくなった。……しかし、お前が私たちにくれるプレゼントは何だろうな?」
この首輪を買うのに伍長とちょっとした悶着があったのを思い出しながらヴィッターは犬の頭を撫でる。つぶらな瞳はきょとんと見上げるばかりだった。
「もうネズミやモグラは嫌だぞ」
フランシアが手を離すと、犬はなぜかもみの木の収まるバケツの側へ駆け寄った。
「あら、プレゼントが見たいの?」
彼女は椅子から立ち上がり、プレゼントの置かれているツリーの根元へ移動した。床のラグに座り込み、楕円形の包みに手を伸ばす。
ガサガサと紙をかき分ける音がして青い物体が姿をあらわした。
「マトリョーシカね。私が買ったのよりずっと大きい……とても綺麗だわ、ありがとう」
包みの形で見当はついていたのだろう。彼女は驚かなかったが、彩色の美しさに見とれているらしい。
「冬の空みたいな深いブルー……服のお花が繊細で素敵。顔もとっても美人さん。私のとは比べ物にならないわ。マトリョーシカって、こんなに綺麗なものだったのね」
ケチな国営工場製ではないからな、と見ほれている横顔を眺めながらヴィッターはこっそり唇の端を上げた。伊達に長く共和国で諜報活動をしているのではない。驚くのはこれからだぞ、伍長。
フランシアは表面の模様からようやく目を離し、上部を外し始めた。
「一番目の子はでぶでぶさん……」
床には姉妹たちが次々と立ち並ぶ。
「……三番目はおでぶさん、四番目は太っちょさん」
ここで、彼女は嬉しそうにヴィッターを見上げ、すぐに下を向くと次の人形を取り出した。
「五番目はぽっちゃりさん……六番目はぽちゃぽちゃさん、七番目はおチビさん、最後の……最後じゃない!」
八番目、九番目。
「十番目? うわ、まだ入ってる!」
十一番、十二番、十三番……。
「二十番……。うそうそぉ!」
フランシアを中心に、青い人形たちはだんだん小さくなりながらどんどん床に広がっていった。
「二十九、三十……三十番目でまだ終わらないの? すごぉい! こんなに小さくなったのに」
人形は当初の半分以下の大きさになった。謎の青い集団に、不思議そうに鼻面を押し付けようとするティラミスを払いのけながら、彼女の手からは次から次へと人形が生まれてくる。
「三十三、三十四、三十五、」
息を弾ませながらフランシアは数えている。人形はついに手のひらサイズになった。
「三十六、三十七!」指で挟むと鈴のように振って見せた。「中で揺れてる! まだ入ってるんだわ! こんなにちっちゃいのに」
細い指先で器用に上部をつまむと、壊れ物のようにゆっくりと外した。
現れる小さな青い人形。
「三十八! 三十九! 四十! ……これが最後の子! 凄い凄い、四十人姉妹なんて!! ねぇ見て、この子ソラマメぐらい……最後の子はお豆さん!」
無邪気に微笑む彼女の顔は小さな女の子を思い起こさせた。きっと幼い日、絵本の最後のページを指さしながら、同じ台詞を父親に言ったに違いない。何度も繰り返し、おぼえてしまうぐらい読み聞かせてもらって。
「これが本物のマトリョーシカなのね!!」
幼い彼女は本物の入れ子人形を父親にねだったことだろう。いつか買ってあげるよと言われた頃は……その後、戦争が十年近くも続き、やがて父親が命を落すことになるとは誰も夢にも思いはしなかった……。
「本当に凄い……こんなに小さいのに、ちゃんとお花も描いてあるし睫毛もあるのよ!」
手のひらの人形をしげしげと眺め、フランシアは職人の手わざに感動している。青い姉妹たちは皆そっくり同じ微笑みを浮かべ、彼女を取り囲むようにぐるりと整列していた。
笑顔の後ろに、壁にかかった男物のコートが見える。ヴィッターはポケットのフラシ天の小箱を思い浮かべながら、これでよかったんだと心の中でつぶやいた。
伍長なら指輪よりも、ソラマメみたいなマトリョーシカを喜ぶだろう。
あれはそういう女だ。
……ヴィッターは若い娘から目をそらしティーカップを手に取ると、冷めた紅茶に口をつけた。面白い娘だが甘ったるいロマンスに容易く酔うような女よりも、実は手ごわい相手なのかもしれない、などと甘苦い気分に囚われていると、不意に抱きつかれカップの中身がこぼれそうになる。
「ありがとう、アナタ!!」
慌てる彼を尻目に、いかにも甘ったれな若妻らしく、首の後ろに手を回し唇を耳元に寄せ……。しかし口を開く前にわずかに体を離すと、改まった口調でささやいた。可愛い新妻とはちょっと違う、もう少し落ち着いた調子で。
「少尉、ありがとうございます。……本当に嬉しいです」
「気に入ってもらえて何よりだ、伍長」
テーブルにカップを置き背中に片手を回しても、彼女は体を離そうとしないので、ヴィッターは両腕で抱きしめた。
任務中に不謹慎かもしれないが。今なら新妻ではない、伍長を抱きしめられる。目を閉じて彼女の匂いとやわらかな体のぬくもりに没頭する……。
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