12


「はぁ〜〜……」
 僕は、その日何度目かのため息をついた。
「おい、篠木ぃ〜。どうしちゃったのデカイため息なんかついちゃってさ」
 いきなりすぐ側でそう囁いかれ、僕は思わずビクリと竦み上がった。見ると、二期上の田村さんがニヤニヤ笑っている。
「朝からずっとそんな調子じゃん」
「は、はあ……」
 僕は曖昧に頷き、誤摩化すように頭をかいた。
 いつもと変わらない月曜日のオフィスの風景───
 昨日の別れを引きずっている僕だけが、この風景から浮いている異分子のような気がする。
 僕は、とある鞄メーカーの営業部で働いている。さっきから僕のパソコンは、取引先に提出する書類を作る作業の途中でずっと止まっていた。
「今夜の飲み会、来るよな?」
「いえ、今夜はちょっと……すみません」
「またかよ。この前もそんなこと言ってたよな。女か?」
 僕は無言のまま、小さく笑った。
 田村さんは、「今度顔出せよ!」と言いおいて自分のデスクに戻っていった。僕はホッと息をつき、画面をぼんやりと見つめた。


 実は昨日、新幹線の中でユウヤに連絡するいい方法を思いついた。僕がネットカフェで取得したフリーメールから連絡する───というものだ。
 どうしてそんな単純な方法を忘れていたのかと、笑い出しそうな気分になった。でも、ユウヤは自分から連絡先を告げなかったんだという事実を思い出すと、一瞬感じた高揚感がみるみる萎んでいった。

───ユウヤはもう僕と連絡を取る気などなかったから、連絡先を告げなかったんだ。そんな人間に、今さらメールしてどうしようっていうんだ?

 でも、せめてスタンドのお礼くらい言っても……

───いや、もう彼はそれさえ必要としていないんだよ。僕とのことは、その場限りの恋人ごっこのはずだったから……。今さらメールなんかしたら、『遊び慣れていないヤツはこれだから』と笑われるのがオチだ。

 いや、ユウヤはそんなヤツじゃないはずだ。

 僕は東京に着くまで、そんな自問自答を繰り返した。そしてとにかくお礼メールだけでも送ろうという結論に落ち着き、自宅に帰り着くなり、着替えもせずにパソコンを立ち上げてフリーメールサイトにアクセスした。しかし、IDとパスワードを入れる段になって、思いもしない落とし穴が待っていた。
「あれ…?え?」
 メール画面に入れない。注意書きを見ると“パスワードが正しくありません”と赤字で書いてあった。
「パスワード…え?」
 何度入力しても弾かれる。そんなわけはないのだ。パスワードは“akira”だ。どうせ一日限りの使い捨てのアドレスだからと、何の捻りもない自分の名前にしたんだから忘れるはずがない。
 しかし実際間違っているんだから仕方ない。僕は“パスワード再発行”というところに行き、再発行の手続きをとろうとした。
 その画面には本人確認という欄があり、生年月日や郵便番号を入力しなければならない仕組みになっていた。
「あっ!」
 あの時は、面倒だったから嘘の情報を適当に打ち込んでしまったことを思い出して、僕は呆然となった。試しに何度か適当に入力してみたけれど、もちろんそれで通るはずがなかった。
───もう……ダメだ…………
 これでユウヤに連絡する手段は断たれた。もちろん、ユウヤからこのフリーメール宛に連絡があっても、僕は受け取ることもできない。
 なんてあっけない幕切れ。
「はは……あはは……間抜けすぎ………」
 僕は流れ落ちる涙を拭いもせずに、力なく笑った。


 会社でも、ユウヤのことが気になって仕事に集中できない。パソコンに触れるたび、ユウヤのことが思い出された。パスワード───“akira”───じゃなけりゃ何だったんだ?
───いい加減にしろよ。もう全部終わったことなんだから。
 思考が脱線しそうになる度に、僕はそう自分に言い聞かせた。
 結局その日は、必要最低限のノルマだけこなしてそそくさと定時で退出した。
 いつもの帰り道、駅を降りると昨日ユウヤと立ち寄ったカフェの見慣れたマークが目に入った。これからしばらくは、全国展開しているこの店を見るたびに、ユウヤのことを思い出すんだろうと思うと、それだけで憂鬱になった。
 バニララテを飲む僕の横で、幸せそうに微笑んでいたユウヤの姿が鮮明に浮かび上がる。この一夜の恋人の残像が色褪せるのには、とてつもなく時間がかかりそうだ。
 自宅に戻り、食事をする元気もなかったので、冷蔵庫にあった残り物で適当におかずを作ってテーブルに並べる。
「いただきます」
 僕は誰に言うでもなくそう呟いて、味噌汁の入ったお椀を口に運ぶ。
 味はよくわからなかった。僕は機械的に食事を終え、風呂に入った。浴室の鏡に映った自分の裸を見てドキリとした。そこには、身体中にキスマークを付けた僕が映っていた。今朝シャワーを浴びた時は、鏡を見る余裕すらなかったから気付かなかった。
 僕はその赤い痕を指で辿りながら、それを付けた男のことを思い出した。
 泣くかな───と思ったけれど、涙は出なかった。ただただ、心にぽっかりと開いた深い穴を感じるだけだった。
 疎まれてもいいじゃないか、笑われてもいいじゃないか、なぜ僕は彼の連絡先を聞かなかったんだろう。聞くチャンスなんて、山ほどあったはずなのに……。
 僕は馬鹿だ。正真正銘の大馬鹿野郎だ。
 僕は熱いシャワーに打たれながら、ズルズルと崩れ落ちた。傷つくのが恐くて言いたいことも言えず、後悔ばかりしている、いつまで経ってもちっとも前に進めない弱い男───
「サイテーだよ、僕は……」

 涙は出なかった。今の僕には、泣く元気すらなかった。


 翌日も、僕はいつもの時間に起き、いつもの電車で会社に向かった。いやになるほど、いつも通りの一日。まだ火曜日だ。今週はあと四日も働かなくてはならない。
「おはよ、篠木」
「おはようございます」
 デスクに座った途端、田村さんがコーヒー片手に近づいてきた。何かと僕のことを気にかけてくれる優しい先輩だけれど、正直こういう気分のときはちょっと距離を置いておきたかった。
「お前、昨日の飲み会来ればよかったのに〜。総務の女の子達、お前が来ないってわかってがっかりしてたぞ」
「そうですか。今度は顔を出しますよ」
 僕はそう言ってその話を無理矢理切り上げ、「Y社の見積もりの件なんですが……」と仕事の話にすり替えた。
「お前、大丈夫か?」
 話をする僕の横顔を見ながら、田村さんがそっとそう尋ねた。
「は?何がですか?」
 僕は内心ドキリとしながらも、表面上は努めて何でもない振りを装いながら微笑んだ。この人は、おちゃらけているようで、時々いやに鋭いから困る。
「なんか顔色悪いぞ」
「大丈夫ですよ。ちょっと寝不足が続いてるだけです」
「だったらいいけど」
 田村さんはあまり納得していない様子だったけれど、有り難いことにそれ以上立ち入ってはこなかった。


 その日は取引先のデパートとの商談を二件終えた後社に戻った。家に帰っても、ユウヤのことを考えるて落ち込むだけだ。こんな時は仕事でもしていた方が気が紛れていい。
 僕は退社していく同僚達を見送り、オフィスに残って社内プレゼンの資料をまとめた。ネットで情報収集をしようとパソコンに向かう。無意識のうちにあのフリーメールサイトにアクセスしていて、ハッとする。
 僕は周囲に誰もいないのを確認して、IDを打ち、パスワードを打ち込んだ。

───akira───
───akira───
───akira───

 何度やっても無駄だった。他にも、タイプミスしていた時のことを考えて色々打ち込んでみたが全て無駄に終わった。
 僕は深いため息と共にブラウザを閉じ、冷めたコーヒーを飲み干した。


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