13


 東京に帰ってきて、十日以上が過ぎた。相変わらずの、会社と家を往復するだけの毎日。時間が経てば、ユウヤとの思い出も薄れていくだろうと思ったけれど、実際はそう簡単にはいかなかった。ユウヤに貰ったスタンド、ユウヤと知り合う切っ掛けを与えてくれたパソコンなんかがある部屋にいるかぎり、忘れることなどできるはずがなかった。

「さっき、課長…なんだって?」
 休み時間、食堂で一緒に昼食を食べているとき、不意に田村さんがそう尋ねてきた。
「はあ、もっとしっかりしろと注意されました」
 午前中、課長に最近たるんでるんじゃないかとお小言を食らったのだ。
「随分嫌味ったらしくネチネチとやられてたな」
 僕は力なく笑って味噌汁を飲んだ。
 田村さんは、何も言わずにご飯をかき込んでいる。
「そう言えば、娘さんの名前、決まりましたか?」
 田村さんには、あと一ヶ月で子供が誕生する。もう女の子だということもわかっているらしい。
「んー、まだ。一応候補はいくつかあったんだけどさ、姓名判断の本買って調べてみたら、どれもイマイチ運勢良くないみたいで。元々俺、そういうの信じてるわけじゃなかったけど、なんかそれ知っちまうとなぁ……」
「いろいろ考えてるんですね。しかし、田村さんがお父さんかぁ……」
 田村さんは、「生まれてみないことには実感なんて湧かないけどな」と首を竦めた。
 結婚して、子供を作って、育てていく───僕は、おそらくそんな経験をすることは一生ないだろう。これからも恋人を作ることはあるかもしれないけれど、一生誰かと一緒に生きていくなんて、奇跡に近い。望むだけ無駄だということが、ようやく僕にもわかってきた。
「今晩、飲みにでも行きませんか?」
 僕がそう誘うと、田村さんは顔をしかめて頭を掻いた。
「悪い、今日はダメなんだ。女房の実家に行かなくちゃならなくてさ」
「そうですか」
 僕は淡々と頷いた。別にそれほど飲みたいって気分でもなかったんだ。せっかくの金曜日にただこのまま家に帰って、一人の部屋で過ごすのが淋しいと思っただけ。
「だれか女の子でも誘ってやればどうだ?お前なら喜んで付いてくるだろ」
「嫌ですよ」
「お前、んなことばっかり言ってっと、今におっさんになってモテなくなっちまうぞ」
「好きでもない人からモテなくてもいいです」
 僕が仏頂面でそう答えると、田村さんは「言うねえ〜」と言って笑った。


 早く帰りたくない日に限って、仕事が早く終わってしまった。時計を見ると、まだ六時半だ。
「篠木さんはまだ残業ですか?」
「え、ああ、まあ……」
 帰り支度を済ませた女子社員に声を掛けられ、やることもないのに取りあえず頷いた。
「そっかぁ、残念。これからみんなでご飯食べに行くんで、篠木さんももしよかったら……と思ったんですけどぉ」
「また今度誘ってよ」
 僕はにっこり笑って手を振った。若い女の子に囲まれてお食事会なんて、想像しただけで胸焼けしそうだ。
 結局その日はだらだらと七時頃まで資料の整理をして退社した。三十分ほど電車に揺られ、駅に降り立ってコンビニにでも寄ろうかと歩き始めた時、あの日ユウヤと立ち寄ったカフェの見慣れたマークが目に入った。そう言えば、以前は毎日のように通っていたのに、あれ以来一度も足を運んでいなかった。
「久々に行こうかな」
 僕はコンビニの手前の角を曲がり、そのままカフェに入った。店内はこの時間帯にしては珍しく空いていた。
「いらっしゃいませ」
 店員の声に出迎えられ、カウンターに向かう。
「えっと……」
 僕はカウンターの上に置かれたメニューをじっと眺めた。
「お決まりですか?」
 カウンターで悩んだところで、結局はいつものバニララテにするんだ。僕が俯いたまま口を開こうとした時、不意に店員の笑みを含んだ声が頭上から降ってきた。
「僕のお薦めはバニララテです、お客様」
「え?」
 驚いて顔を上げると、目の前で背の高い店員がにっこり笑いながら僕を見下ろしていた。
「ユウ……ヤ………?」
「なんや?幽霊に会ったみたいな顔して」
「え?ええ──!?なんでっ、うそっ!」
 僕は驚きのあまり大声を出してしまい、慌てて口を押さえた。ユウヤがいる。目の前に、別れの瞬間に見せたあの笑顔のままで!
「びっくりした?」
「び、びっ……くり…………した」
 これでびっくりしないわけがない。目の前に、大阪で別れたはずのあのユウヤがいるんだから。どうして東京に、しかも僕が住んでいる街にいるのか、どうして僕の行きつけの店の店員なのか……聞きたいことは山ほどあるけど、ありすぎて僕はほとんど口もきけない状態だった。
「もしかしてその人が例の命の恩人か!?」
 僕よりも一つ二つ年上に見える男の人がユウヤの後ろから出てきて、いきなり僕の方に顔を突き出した。
「は?」
───命の恩人?いったいどういう……
「そうなんですよ!待ってた甲斐がありましたよ!」
 ユウヤがパアッと顔を輝かせて答える。
「積もる話もあるだろう。特別に早退してもいいぞ」
「ありがとうございますっ!」
 ユウヤは弾けんばかりの笑顔でそう言うと、エプロンを手早く外した。
「五分で着替えてくるから、コーヒー飲みながら待ってて!」
「え、ちょっと、あのっ…」
 呆然としたまま、カウンターの奥に消えたユウヤを見送っていると、さっきの男性が僕の前にバニララテを置いた。
「あ、お幾らですか?」
 慌てて財布を出そうとした僕を制し、「店の奢りです。あいつの命の恩人に金出させるわけにはいかないですから」と真顔で言われ、僕は呆然としたまま紙コップを受け取ってしまった。
───“命の恩人”って一体なんだ!?
「あ…りがとうございます」
 僕が近くの席に着いて受け取ったコーヒーを恐る恐る飲んでいると、カウンターの向こうから店員さんが三人出てきた。そして俺を見つけると、目を輝かせて僕の周りを取り囲む。
「この人がユウヤ君の命の恩人?」
「そうだ!粗相のないようにな」
 さっきの男の店員さんが、重々しく頷く。
「いやぁ〜、しかし凄いですよねえ。道頓堀川で溺れてたユウヤ君を助けたんだって?」
「は?」
 道頓堀川って……そんなに深かったっけ?
「え?倒れてきた“くいだおれ人形”からかばってくれたんでしょ?」
 いや、実物の“くいだおれ人形”自体見たことないけど…………?
「俺は、阪神が負けてヤケクソで暴徒と化した虎○チの群れから救ってくれたってって聞いたぞ」
「ええ〜〜!?」
 僕はブンブンと首を振った。
「じゃ、どういう状況でユウヤ君の命を救ったんですか?」
「え、いや……あの……別に命を救ったとか、そういうんじゃ……」
「全部違うわ!この人はなぁ、落ちてきたカニ道楽の看板の下敷きになったところを救ってくれたんや。こう、カニを持ち上げて」
「ユウヤ!」
 いつの間にか、私服に着替えたユウヤが笑顔で僕の後ろに立っていた。
「カニの看板って……人間に持ち上げれる?」
 周囲の人が首を傾げている横で、ユウヤは強引に僕の手を取って立たせた。そして「じゃ、そういうことなんで、お先に!」と言って扉を開けてズンズン歩き出す。僕は何が何だかわからないまま、あっけにとられている人達を残してユウヤに引きずられるようにしてその後に続く。
「お、おい!ちょっ…どういうことだよ!」
「ん?」
 キラキラした超笑顔で振り返られ、僕は一瞬言葉に詰まる。
「……い、命の恩人とかなんとか……それにっ、ユウヤがなんで東京に……僕……僕はずっと………ッ!」
 頭の中がグチャグチャで、何から喋っていいかわからない。
「あー、ちょっと黙ってて。じゃないとこのまま抱きしめてまいそうや」
「なっ、なに言って……」
 ユウヤは、不意に立ち止まって僕の腕を離した。
「大阪で別れたのに東京で再会するなんて、運命感じへん?」
 ぼやけた雑踏の中、僕の目を見てそう言うユウヤの存在だけが鮮烈な光を放って目の前にあった。周囲の声は何の意味をなさない雑音で、ただユウヤの言葉だけが僕の心の奥底まで届く。
「感じるなら、俺の手を取って欲しい」
 ユウヤがそっと手を差し出す。大きな手の平、ほっそりした指……僕はこの手の温かさを知っている。僕は震える手でその手を掴んだ。周囲の人の視線も声も、今の僕には届かない。僕の全ては、ただまっすぐユウヤだけを感じていた。
「行こう」
 ユウヤが僕を促して歩き出す。僕も一歩を踏み出した。


「どうぞ」
 僕は鍵を開け、部屋の明かりを付けながら後ろのユウヤを振り返った。
「お邪魔します」
 ユウヤが僕に続き部屋に入ってくる。
「あ、使ってくれてるんや、このスタンド。これやんな?アキラがあの晩熱心に見てたの」
 ベッド脇のテーブルの上にあるスタンドを見つけ、ユウヤが嬉しそうな声を出す。
「うん、お礼……まだちゃんと言ってなかったね。ありがとう。凄く気に入って……」
 お礼を言いかけた時、いきなり腕を引っ張られて荒々しく抱きしめられる。突然のことに、僕はただ驚いて硬直した。
「ほんまにアキラや。ほんまもんやんな?」
「ユウヤ……」
「ごめん、嬉しくて………。もしかしたら、もう会われへんかもしらんと思っとったから。俺はアホや……カッコつけてアキラを永久に失うところやった」
「最初から説明してくれよ。なんであそこにいたんだ?」
「それ、後でもええ?」
 僕の両肩を掴んで真剣な表情をするから何かと思ったら、ユウヤはとんでもないことを言い出した。
「今すぐ抱きたいねん。ええか?」
「ちょっ…何言ってんの……」
 ユウヤは、動揺してその腕から逃れようとした僕の肩を思いの外強い力で抱き直した。
「ごめん……」
 ユウヤは短く囁くと、僕の顎を取っていきなり唇を塞いだ。
「んっ、んん…!」
 突然のことに慌てる僕などおかまいなしに、髪の毛を鷲掴みにして荒々しいキスを仕掛けてくる。そのまま、力が抜けて崩れ落ちそうになった僕をベッドに押し倒し、なおも貪るような口づけを与える。
「シャワー……」
 ちょっと抵抗する素振りを見せると、すぐさま強く押さえつけられる。
「ええって!そんなもん」
 あの甘く優しかった声が、切羽詰まったように擦れている。僕のネクタイを外すその指が微かに震えてるのを見て、僕は抵抗をやめた。
「ごめんな……優しくしてやれんかも………全然余裕ない」
「いいよ……優しくしなくてもいい」
 僕はそう呟き、なめらかなユウヤの頬をそっと撫でる。できるだけ激しく抱いて欲しかった。ユウヤの印を、僕の全身に刻み付けるように。
 ユウヤは、まるで泣く寸前のような顔で僕のシャツをはだけ、首筋に顔をうずめた。



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