「…んっ……」
カーテンの隙間からもれる日差しが、眠りこける少女の顔
を照らす。
「……ぅぅ……もぅ…すこし………」
少女はうつ伏せになって顔を枕にうずめ、布団から片腕を
伸ばして畳をさすった。どうやら何かを探しているようだっ
たが、目的の物が見つからないのかパタパタと動かしていた
手を止めた。
「…ぁ…ぅ……ぁ……?」
肩に布団を引っかけ、むっくりと起き上がる少女。まだ寝
足りなさそうにたれるまぶたをこすり、ぼけっとした顔で部
屋を見回した。
「ぁ…れ……ぉ…かぁさん…の…?」
少女はハテと首をかしげる。そこは見慣れた自分の部屋で
はなく両親の寝室だった。なぜか左手の指が、塗った糊が乾
いたかのようにパサパサしている。着ているのも少女のパジャ
マではなく、何やら妖しげな黒く透けるネグリジェだ。不思
議に思ってネグリジェの裾をつまみ上げると、その下から同
じく黒くて薄いローライズのショーツがあらわになる。その
ショーツは大事な部分を守るクロッチがパックリと割れ、幼
い少女のスリットが木漏れ日に照らされていた。
「………」
「……………」
「………………!!」
少女は急いでネグリジェを下ろし、足を閉じる。寝ぼけ顔は一瞬で吹き飛び、
驚きで目を大きく見開いた顔は、トマトのように真っ赤になった。
(わ、わ、わたし……)
昨夜の記憶が脳裏に浮かぶ。初めて見た両親の情事。激し
くて、色っぽくて、嫌らしくて、甘くて、艶やかで、綺麗で、
とても愛しくて。でも、それがさみしくて、はしたなく真似
してしまって。
少女の初めての行為。思い出すだけで体が熱くなるほど、
それは甘美な記憶として焼き付いていた。
(いやらしいこと、しちゃった……)
そっと左手の中指をなめる。心なしかしょっぱくて、口の
中に唾液が沸き上がった。指の根元までくわえ、何度か口の
中に出し入れして万遍なく唾液をまぶす。少女はふたたびネ
グリジェを捲くり、躊躇なく濡らした指を幼いスリットに滑
り込ませた。
「んんっ…………はぁぁ」
下半身がしびれるような刺激に背筋を延ばして耐え、波が
山を越えたところで息を吐き出す。
(気持ち良い……けど……)
何か物足りなさがあって、少女は続けようという気になれ
なかった。それは両親がいなかったからか、明るい昼間だか
らか、昨夜が特別だったからか、理由を考えても仕方がない
こと。それでも、一晩寝ても空いたままの暗い心の穴を埋め
られるものがあるなら、今の少女にはそれがいけないことで
も手を伸ばすのを止められなかった。
「あ………」
「ぇ……?」
何の前触れもなく明けられた部屋の扉、その向こうにいる
のは少女の兄。普段通り表情の乏しい兄の顔だったが、少女
には驚いて凍りついているのがはっきりと分かった。
「ふぇ、ふぇぇぇぇっ!」
「す、すまん」
お互いに固まったまま見つめ合うこと数秒。やっと少女は
悲鳴をあげながら布団に身を隠し、兄は謝りながら扉を閉め
た。
(お、お兄ちゃんに見られちゃった)
時と場合にもよるが、兄妹であるから下着姿を見られるの
は気にしない。風呂だって兄の方が気にして入らないだけで、
少女の方は一緒に入るのに全く躊躇はない。しかし今は気に
する場合。はしたなくて、嫌らしくて、恥ずかしい、しては
いけない事をしていたのだから。
(何であんなことしたのかな)
起きて早々、何故あのようなことはしたのか。確かに昨夜
の行為はとても強烈で刺激的だったが、良いことじゃないと
理解していたし、そのようなことに軽々しく手を出す少女で
はなかった。
(わたし、どうなっちゃったんだろう。これから、どうなっ
ちゃうのかな)
名前を無くし、たとえ優しくされていても家族から忘れ去
られ、そして……。
トントンと扉を叩く音が、陰鬱な思いに沈む少女を引き戻す。
「着替え、持ってきた」
扉が少しだけ開き、下の方に折り畳んだ服が下の方に差し
入れられた。たぶん、まだ少女が眠っていると思い、寝てる
間に置いておこうとしたのだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「あぁ。朝食、用意してあるから」
静かだがはっきりと兄が立ち去る気配がした。父や姉もそ
うだが、本気で気配を消されると母や少女には全く分からな
い。
兄の置いていった服は、昨日少女が着ていたものだった。
夜のうちに洗濯して乾燥機にかけていたらしく、まだふわふ
わと温かい。少女は布団をたたみ、ネグリジェを脱いで着替
えた。
「…………」
足りない。何かが足りない。何か大切な物が足りない。そ
んなに古くはなく、つい最近のもので。黒い霧に隠されたそ
れに手が届きそうで、その向こうは暗く深い穴で全く手が届
かず。
少女は悲しげな顔で首を振り、両親の寝室を出た。
洗面所で手頃なリボンやゴムが見つからなかったため、髪
は梳かすだけで済まして兄の元に向かう。兄は台所でコーヒ
ーを入れていた。テーブルにはトーストや目玉焼き、サラダ
等が一人分用意してある。少女は椅子に座ろうとして、忘れ
ていたことを思い出す。
「あの、おはよう、お兄ちゃん」
「ん? そうか。おはよう、・・・」
やはり、少女の名はかき消されたかのように聞こえない。
たとえそれが仮の名であっても、折角つけてくれた名前が分
からないのは皆に申し訳なく、そして悲しかった。
「さっきは済まなかった。その、のぞくつもりは無くて」
「お兄ちゃんは悪くないよ!」
少女は申し訳なさそうに謝る兄の言葉を遮る。
「悪いのは、わたしだから……わたしが……」
少女の顔が羞恥に染まる。さすがに自分が嫌らしいことを
していたからとは、兄に向かっては言えなかった。
「それは……まぁ、気にするな。ほら、朝食が冷める」
兄も恥ずかしいのか少女の頭を軽く撫で、自分の椅子では
なく少女の前に座った。実の妹、今の兄には突然押しかけて
きた妹が、朝っぱらからあんなことをしていたのだ。ただで
さえ怪しいのに、きっと嫌らしくて変な子だと思われてしまっ
たのではないかと、日差し射す明るい部屋の中で少女は一人
暗く沈み込んだ。
「ごめんなさい……」
席には着くが、正直食欲は無い。夜のことをのぞいても結
構寝ているはずなのに、疲労が体の奥に澱のように溜まった
ままだった。
「いただきます!」
そんな変な子でも居させて貰っている、だから我がままな
んかできない。少女はことさら明るく振る舞うことを自分に
課した。
とっくに開店時間は過ぎているので、もう両親は翠屋に行っ
ているし、姉も既に学校だ。
「お兄ちゃん、学校は?」
「今日は午後からだが、それも休講になった」
兄は大学に入ってから高校の時よりも学校に行っていない
ようで、サボっているとは思っていないが、まだ小学生の少
女にはそれが不思議だった。
「人によるが大学はそんなもんだ。・・・の学校は?」
「んと、聖祥大付属の三年生」
少女の服も何も無い以上、きっと学校の制服も無いだろう。
初めて制服を着た日に皆が可愛い、似合うとほめてくれたこ
とを思い出すと寂しくなる。その思い出の中でも少女の名が
消えているだけに。
「あそこか。確か制服があるんだったか。俺や美由希にはあ
わない学校だ」
「そんなことないよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも格好良いし」
父似の兄と姉は、少女の目から見ても格好よくて綺麗だと
思う。稽古中の姉はとても綺麗で、運動の苦手な少女はちょっ
と憧れてしまう。
「いや、あそこは遠くてバス通学だからな。稽古時間が削ら
れてしまう。走り込み兼ねて徒歩でもいいが、やはり雨の日
は不便だ」
「そ、そうなんだ……」
凄いとは思うが、さすがにその辺りの考え方にはついてい
けない。
「しかし、あそこだと編入できるかな。父さん達がどうにか
すると思うが」
「わたし、学校に行けるの?」
思わず身を乗り出す少女。少なからず気にはしていたが、
今の状況では無理だと少女はあきらめていた。
「大丈夫だ。少し時間はかかると思うが」
「わたし……わたし……」
少女の大切な友人達に会いたかった。少女は約束したのだ、
必ず戻ってくると。いつ、どこでしたものか思い出せないけ
ど、とても胸が熱くなる約束。
「…会いたい……アリサちゃん…すずかちゃん……」
たとえ二人とも少女のことを忘れていても、それでも。
(きっと、また友達になれるから)
ジリリリリン、ジリリリリン、ジリリリリン、ジリリッ。
「はい、高町です」
かかってきた電話を兄がとった。どうやら知り合いらしく、
兄の表情が和らいでいる。話ながら何度か少女の方を見るの
が気になったが、何を話しているか少女には聞こえなかった。
「…あぁ、それじゃ」
受話器を置いた兄は少し困ったふうだった。
「実はこれから友人の家に行かないといけないんだが」
「お友達?」
「あぁ。実は・・・の話になって、それで……」
「それで?」
なぜか兄の言葉は歯切れが悪い。
「・・・を必ず釣れて来いと」
「わたし?」
「大きい家で、ゲームとかも色々あるみたいだから退屈はし
ないと思う。嫌ならいいんだ。無理強いはしない。俺から月
村には言っておくから」
よく聞く名前。兄の大事な仲の良い人の名前。そして、少
女にとっては。
「すずかちゃんちに行っていいの!?」
「えっ? そうか、忍の妹も聖祥大付属か。さっきも聞き覚
えのある名前だと思ったが、友達だったんだな」
「うん! 一年生の時に友達になって、アリサちゃんと三人
でずっと一緒で、とても仲が良くて」
「あぁ」
兄の大きな手がぐりぐりと少女の頭を撫でた。少女は期待
と不安ではちきれそうな顔で兄を見上げる。
「わたしも行ってもいいの?」
「あぁ、向こうが呼んでいるんだからな」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
少女は兄に抱きついた。
(すずかちゃんに、アリサちゃんに会える!)
彼女たちに会える。
名前を無くして以来、少女にとって一番の好事だった。