海沿いを走るバスの窓から、心地よい風が吹き込む。空高
く上った太陽光の反射でキラキラ光る波が綺麗だった。
「ほら、お兄ちゃん。カモメだよ、カモメ!」
少女は窓の外に腕を伸ばし、海の上を軽やかに飛ぶカモメ
を指さす。生まれも育ちも海沿いの町でカモメなんか毎日見
飽きるほど見ているが、これからのことに浮き立った少女は
ちょっとした事にもはしゃぐ心を押さえ切れずにいた。
「あぁ、今日はたくさん飛んでいるな」
少女の後に座っている兄が相槌を打つ。兄のひざにはケー
キの箱が鎮座している。途中で翠屋により、母より受け取っ
たものだ。
普段の日の昼下がり、下校時刻前でバスはガラガラだった。
最初は何人かいた乗客も一人降り二人降り、今では少女と兄
の二人きり。
「ふふ、貸し切りだね」
「だからと言って、はしゃいで良い訳じゃない。運転手さん
の迷惑になるし、何かあったら危ない」
一応たしなめてはいるが、強い調子ではない。少女の様子
に多少は好きにさせるつもりなのだろう。
「はーい」
元気良く返事をしてちゃんと座り直す。それでも足をぶら
ぶらさせたり鼻歌を歌ったり、浮ついた心を押さえ切れない
ようだ。
(もうすぐ会える……)
調子に乗り過ぎると足元をすくわれる。
それは少女も十分に分かっていた。だからと言って、それ
が儚い夢や希望だとしても楽しまないのは勿体ないのではな
いか。ひび割れたグラスの底から幸せがこぼれてしまうなら、
もっとたくさん幸せを注ぎ込めばいい。それが少女の出した
結論であり、決意だった。
バスから降り、屋敷の前までくると門が自動で開いて二人
を迎え入れる。兄は少女を待たせて先に中へ入り、安全を確
認してから手招きした。
「どうしたの?」
「最近取り付けた押し売り撃退装置だか何かの調子が悪いそ
うだ。一応止めてあるそうだが、物騒だから念のために確認
した」
そのようなものを好んでするのは忍の方だ。確認したのは
兄が忍を信用していない訳じゃなく、少女を心配してのこと
だろう。
「ありがとう、お兄ちゃん。撃退装置ってどんなの?」
「放水機やボールやらで追い出すそうだが、何故かファリン
が引っ掛かるらしい」
「それって……」
「……じゃないか」
二人して困った顔を見合わせる。どうやら二人が知る人物
の認識に差はないようだ。
ちょっとした距離を歩くと屋敷の玄関に着く。玄関では十
代半ばぐらいの年頃の、メイド服姿の少女が二人を待ってい
た。月村家のすずか付きメイド、ファリンだった。
「いらっしゃいませ、恭也様」
「お邪魔する。これ、うちのケーキだ。で、こっちが」
兄は翠屋のケーキ箱をファリンに渡すと、横に控えていた
少女の方に手をおいた。
ファリンは少女の前で腰を落とし、人懐っこい笑顔で話し
かける。
「いらっしゃいませ、・・・ちゃん」
「お邪魔します、ファリンさん」
少女がぺこと頭を下げると、ファリンも「はい」と頭を下
げる。少女のことは聞いているのだろう、特別なことはせず、
いつも彼女の主人であるすずかの友達への対応と一緒だった。
「忍様は中でお待ちしています。さ、どうぞ」
二人はファリンに案内されて中に入る。月村家のもう一人
のメイド、ノエルは普段必ず顔を出すのだが、今日はランチ
の準備で手が離せないらしい。ファリンが照れた苦笑いを浮
かべているところをみると、きっと何かをやらかしてしまっ
たのだろう。
二人は月村家の広大な庭が良く見える部屋に案内された。
部屋の中は外が良く見えるようにテーブルが配置され、その
上には皿やグラス等が置かれている。
「いらっしゃい、恭也」
部屋に面したテラスから、子猫をだきかかえた少女が足元
に猫を従えながら部屋へ入ってきた。年頃はファリンより上、
少女の兄と同じぐらいか。スタイルも良く、長髪の美しい少
女だ。月村家の当主であり、少女の親友であるすずかの姉、
そして兄の恋人でもある月村忍だった。
「その子が例の妹さんね」
「あぁ、妹の・・・だ」
兄は少女の肩に手を置き、忍に少女を紹介する。
「こんにちは、・・・ちゃん。月村忍です」
「今日はお招きいただきましてありがとうございます。妹の
高町…高町……ぁ…ぇ……で、です」
深々と頭を下げた少女は、つい名乗ろうとして口ごもった。
少女には名乗ることができる名前がないからだ。呼ばれてい
ることは分かっても、何と呼ばれているか少女には分からな
い。新たに名付けてもらった名前さえ分からないのは、まだ
誰にも話してはいなかった。
「こ、これ、お母さんから。新作です。いちおう、大丈夫か
と……」
少女はごまかすため、手に持っていたケーキ箱を忍に差し
出す。玄関でファリンに預けたものだが、色々あって結局少
女が持っていた。
「あら、ありがとう。嬉しい、私、翠屋の常連なのよ」
常連というよりも家族同然に翠屋の手伝いをしているくら
いだが、少女に対して遠慮したのだろう。
忍は少女の後ろをちらっと見て、ケーキ箱を受け取った。
少女の後ろで「ごめんなさーい」と頭を下げる。ファリンの
額には、少女の兄愛用の絆創膏が張られていた。
「いらっしゃいませ、恭也様。・・・お嬢様」
長身で凛々しいメイド姿の女性が、配膳車を押して部屋に
入る。月村家のメイド頭でファリンの姉、ノエルだ。見た目
は冷たい感じがするが、彼女の主人や子供達、そして月村家
で一番人口の多い猫達には優しい笑顔を見せることを少女は
知っている。
「申し訳ございません。妹がご迷惑をお掛けいたしました」
ノエルが深々と頭を下げる。ファリンも「すみません、お
ねーさま」と落ち込んでいるようだ。能力も雰囲気もまった
く異なる姉妹だが、笑顔はとてもよく似ていると少女は思う。
「いや、俺は慣れているし、迷惑と言うほどでもない」
「少し崩れちゃったけど、味は変わらないから大丈夫だよ」
兄妹でファリンをフォローする。
(でも、あまりフォローになっていないような?)
「ほんと、不思議なこともあるのね。SF小説みたい」
ランチのあと、ノエルのいれたお茶の摘まみはやはり少女
のことになった。
「辛かったでしょ? 桃子さんはともかく、恭也なんか小さ
い女の子の事なんか分からないだろうし」
「俺は美由希の世話もちゃんとできていた」
見くびられては困る、と兄が抗議する。忍も本気で言って
いるのではないだろうか、少女も兄をかばった。
「忍さん、お兄ちゃんは優しいよ。今日も連れてきてくれた
し」
「んー健気な子。よし、私のことは、お姉さんって呼んで。
恭也の妹なら私の妹同然だもの」
「おい、忍。同然って何を言う」
「何って何よぉ。私たち、あーんな事やこーんな事もした、
ふかーい仲でしょ」
「お、おい。だから子供の前で何を言い出すんだ」
さらっと意味深なことを言う忍。いつも感情が表に出ない
少女の兄も、さすがに慌てているのが手に取るように分かっ
た。
「変なこと想像しているのは恭也の方じゃないの?」
少女の兄をからかう忍の矛先は、少女にも向かう。
「あら、・・・ちゃんも顔を赤くしちゃって。もしかして、
イケナイ事を思い浮かべちゃったのかなぁ?」
「そ、そんなこと……」
図星だった。
(だってお兄ちゃん、お父さん似にているし)
昨夜の両親の行為。体格は父の方が少し大きいが、父と兄
を置き換えるのは容易だった。忍の裸も一緒に行った旅行で
知っているので、母と置き換えるのも楽で、すぐに二人の行
為として思い浮かべられた。
(お兄ちゃんと忍さんも、しているのかな?)
古風な兄はその手のことは堅そうにも見えるが、両親は二
人のことを公認どころか婿に出してもいいくらいのニュアン
スをほのめかしている。もしかしたら、少女の知らないとこ
ろで二人は夫婦同様になっているのかもしれない。
「・・・ちゃんは、結構おませさんなのね」
「ぅぅ……」
大人びているとはたまに言われるが、こんなことは言われ
ても嬉しくないし恥ずかしい。
「忍、あまり妹をいじめないでくれ」
ついでに俺も、と兄は一言付け加えた。
話が弾んで?いるところに、忍の携帯にメールが入る。
「すずか、もうそろそろ帰ってくるって。ありさちゃんと一
緒だそうよ」
「すずかちゃんとアリサちゃんが?」
少女の顔がほころぶ。二人と会うことは、少女がここに来
た一番の目的。
「あ、今のうちに。ちょっと失礼します」
少しお腹に張りを感る。
「場所は分かる? ファリンに案内させようか?」
「いえ、大丈夫です」
少女は会釈をして部屋を出た。