ユーノは何もない空間にいた。
それは比喩でもなんでもない。壁も果てもない、空気ですらあるかどうか分からない、認識不可能な空間。
立っているのか、落ちているのか、あるいは浮かんでいるのか。それすらも分からない場所に、彼はいた。
そこに、一人の少女がいた。
距離と言う概念がないから、手を伸ばせば触れられるような位置にいる気もするし、気の遠くなるほど遠い場所にいる気もする。
何もなく、何も認識することのできない場所で、彼女がいる、ということだけはなぜかはっきりと分かった。
それはユーノよりも更に幼い女の子だった。6歳くらいだろうか。
ユーノの胸ほどの身長で、汚れ一つない純白のワンピースを着たかわいらしい女の子だった。
女の子は彼の前で首を傾げた。パクパクと口を開いて何かを言っているが、なんと言っているのかまでは分からなかった。
それは彼女にも分かるらしい。伝わらないことが悲しくて、身振り手振りを混ぜて何かを問いかけてくる。
ユーノには彼女が何を言っているかは分からない。
けれど、その仕草や瞳、口の動き。その全ての動作の根底にある気持ちは、ダイレクトに伝わってきた。
だから、気が付けばユーノは、彼女の問いに答えていた。
「ユーノ。僕の名前は、ユーノ・スクライアだよ」
女の子はユーノの顔をじっと見つめた。それから俯いて、口の中で何かもごもごと呟いていた。
相変わらず何といっているのか聞こえなかったけれど、彼女がなんと呟いているのか、今のユーノにははっきりと分かった。
彼女は今、自分の名前を何度も何度も口の中で繰り返しているのだ。
やがて女の子は視線を上げて、まっすぐにユーノの顔を見た。
そして、純粋な子供にしかできないような満面の笑みで。
「……ユーノ」
楽しそうに、嬉しそうに、何度も何度も。
「……ユーノ、ユーノ、ユーノ!」
そう、彼の名前を呼んだ。
「……なんだと?」
時空管理局本局、遺失物係。
その待合室のソファーに座っていたレーゲンは、極端に低い声でそう呟いた。
対するフィーゲルも、いつも浮かべている笑みが心なしか固い。
「うん……それがね。見つかったこと見つかったんだけど……」
見てもらった方が早いとばかりに、彼は手を差し出した。
そこには透き通った栗色のクリスタル。彼らの作った新型デバイスがそこにあった。
「…………」
黙って受け取って、魔力をデバイスに通す。
まだ持ち主が決まっていないどころか完成すらしていないこのデバイスは、誰の魔力であろうと反応する――それがどういう類のものであれ――はずったのだが。
――Error. The validation code is different. (エラー。認証コードが違います)
「……どういうことだ?」
「僕にだって正確なことは分からないけど、多分考えてることは同じじゃないかな……」
まだ開発中で、誰のものでないはずの新型デバイス。それが認証コードでこちらの操作をはじいた。
プログラムのミスという可能性もあるが、その辺りに関しては散々テストしてきたのだ。そこに原因があるとは思えない。
なら、それが意味するところは。
「まさか……この一晩であのジャジャ馬がマスターを選んだって言うのか?」
「それ以外に何か考え付く?」
「しかし……」
顎に手を当てて考えこむレーゲンに、フィーゲルは肩をすくめて笑った。
「そりゃ確かにあの子は気難しいところがあるけど、それでも気に入る子だっているだろう。僕らのアクセスすら受け付けなくなるくらい、ね」
「……誰かが無理矢理登録した可能性は?」
「自分でも信じてない可能性を口にするのはよくないよ。この子がそんな相手を受け入れるとでも思ってるのかい?
仮にそうだったとしたら、とっくに僕らはお縄についてる。管理局の有能さはよく知っているだろう?」
「……それもそうだな」
レーゲンはあっさりと首肯した。幾つもの危ない橋を渡ってきている2人は、管理局の有能さを身をもって知っている。
それは、法を自覚して犯した人間にしか生まれることのない、油断のない認識だ。
「どちらにせよ、早くこのジャジャ馬のマスターを見つけないといかんな」
「そうだねえ。回収するにせよ見守るにせよ、その子を見つけないことには始まらないしね」
レーゲンは無駄のない動作で立ち上がって、そのまま部屋を出る。フィーゲルもひょこひょことした動きでレーゲンについていった。
彼らの向かう先は、無限書庫。
おそらくそこに、『彼女』のマスターはいる。
女の子が、自分の名前を呼んでいる。
楽しそうに、嬉しそうに。
何度も、何度も。
クルクルと踊るようにして自分の周りを駆け巡り、こちらに顔を向けては極上の笑顔を浮かべてユーノの名を呼んでいた。
ふと、その動きが止まる。
ワンピースの裾を翻してこちらに向き直り、胸の前で手を組んで、彼女はじっとユーのを見つめていた。
その口がパクパクと動く。
何かを伝えようとしているけれど、声を伝える空気さえないこの世界では、言葉はここまで届かない。
それでも彼女はめげずに口を開いた。
懸命に、一途に。
何度も、何度も。
その真摯な想いはユーノにも伝わって、彼女が何を伝えようとしているのか必死になって耳を傾けるけれど、それでも言葉は届かない。
少女は何度も口を開いた。
ユーノはそれに何度も耳を傾けて、その姿を見つめた。
それは、傍から見ればこっけいな光景だったかもしれない。
けれど、ユーノも少女もそんなことを気にすることはなく、ただ真摯にお互いを伝え合おうとしていた。
そして、何の前触れもなく突然に、泡がはじけるようにしてユーノは彼女の伝えたい言葉が分かったような気がした。
自然と口が動いて、言葉を紡ぐ。
彼女が伝えようとしていたこと。
それは――。
「……ノ。おい、ユーノ!」
肩をガクガクと揺すられて、ユーノはまどろみの世界から蹴りとおされた。
寝起きでまだふらふらとする頭で身体を起こす。
なんだか酷く頭が重い。何か夢を見ていたような気もするけれど、思い出せなかった。
顔を上げると、クロノの姿があった。
「あれ……クロノ。どうしたの?」
「……どうしたの、じゃない。まったく、まだ寝ぼけているのか?
とっくに就業時間は過ぎているぞ。さっさと起きろ」
「ああ、うん、分かった……っていうか、何でクロノが僕の部屋に入ってきてるのさ?!」
「何を言ってるんだ。この前頼んでおいたロストロギアの資料が集まったと連絡してきたのは君の方だろう? それなのに終業時間になってもやってこなかったのはどこの誰だ?」
「そ、そういえばそうだったっけ……ゴメン」
元々仕事を寝過ごした自分が悪い。素直にユーノは頭を下げた。
クロノは一つため息をついた。呆れてはいたが、どうやら怒りは収まったらしい。
「まったく、こんな時間まで寝ているなんて昨夜は一体何してたんだ?」
「別にいつもどおりだよ。ただ……ちょっと、夢を見て、ね」
「夢? どんな?」
「覚えてないんだ。だけどなんだか、楽しい夢だった気がする」
「まったく、呑気な話だ……なのはと遊んでいる夢でも見たのか?」
「な、なんでそこでなのはが出て来るんだよっ!?」
クロノはユーノを一瞥したあと、やれやれとばかりに肩をすくめた。
本気で飽きられているのが腹立たしい。
「この前フェイトもぼやいていたぞ。いつになったら君がなのはにたいしてはっきりした態度をとるのかってね」
「大きなお世話だよ! なんで君にそこまで言われなくちゃならないのさっ!」
怒鳴り声はほとんど悲鳴に近くなっていた。ひょっとしたら目じりに涙くらい浮かべていたかもしれない。
全てが全て、自覚はあるのが厄介な話だった。
クロノはその悲鳴に我に返ったかのように首を振った。口調を神妙にして謝罪する。
「……すまない。僕が口を出すことではなかったな。エイミィの悪い癖が僕にまで移ったみたいだ」
「別に、いいけどさ……」
ユーノとしても、別に本気でクロノが憎いわけでもない。
こうして素直に非を認められると、怒りを継続するのは難しかった。
「僕は先に無限書庫に行っているから、準備が出来次第来てくれ。報告が聞きたい」
「……分かった。すぐに準備するから」
「ああ、頼む」
そう言うとクロノはそのまま部屋を出た。
ベッドから起き上がったユーノは服を着替え、寝癖で乱れた髪を整える。その表情は浮かない。
替えの服を手に取りながら、素直な気持ちが口をついて出た。
「僕だってこのままでいいとは思ってないさ。けど、なのはは相変わらず僕のこと男としては見てくれないし、どうしろって言うんだ……?」
その問いに答えてくれる人は、誰もいない。