ユーノとクロノが無限書庫に着くと、先客がいた。
同じ白衣を着た2人組みの男だったが、受ける印象はまったく違う。
1人はシワ一つない白衣をきっちりと着込んだ男。格好の割りに引き締まった肉体をしているようで、立ち振る舞い一つとっても凛とした気配を感じさせる。
もう一人は身長は同じくらいだが、細身なためか優男といった印象の男だった。清潔だが使い込んでいるせいかクタクタになった白衣を着て、人懐っこさを感じさせる目尻の下がった目をしていた。
その優男の方に、ユーノは見覚えがあった。
昨日一昨日と、今日を含めて3日連続でここを訪れていたし、彼自身が特徴的だったこともあった。けれど、何よりも印象に残っていたのは、彼が検索を依頼してきたその内容だった。
――『闇の書』についての資料が欲しい。
別におかしなこととは限らない。闇の書はロストロギアであり、現代では再現不可能な技術の塊だ。
それを新しい技術の参考にすることは十分に考えられる。ユーノとてそれが別のロストロギアなら、気にすることもなかっただろう。
しかし、それが幾人もの主を暴走させ、隣にいる友人の父親をも奪った悲しきロストロギアを気にするなと言うのは、ユーノには酷な話だった。
「ユーノ、どうした?」
「……ううん、なんでもない」
微かに表情を固くしたユーノに、クロノは僅かに眉を寄せて怪訝な顔をしたが、ユーノはそうごまかした。実際、闇の書の資料を依頼してきたこの青年はユーノの目から見ても悪い人間には見えない。
ユーノとしては無闇にその事を告げて事態を複雑にすることは避けたかった。
「おっ、来た来た」
「あ……どうも」
「昨日は資料ありがとう。助かったよ」
「あ、いえ、そんな。仕事ですから」
そんなユーノの心境を知ってかしらずか、優男はユーノに向かって片手を挙げた。
どう反応していいか分からずに、あいまいに返事する。
「ユーノ。こちらの方は?」
「えっと、こちらは一昨日資料の検索の受けた方で……」
傍らに立つクロノが当然の質問を投げかけてくるが、ユーノにはどう答えればいいかがわからない。
とにかく当たり障りのないところを選んで紹介することにした。
とはいえ、ユーノは嘘や誤魔化しといった類ははっきり言って苦手だ。言葉を選ぶのに四苦八苦しながら、どうにか紹介を終えると、優男はクロノに対して笑顔で握手を求めてきた。
「僕はフィーゲル。こっちの無愛想なのはレーゲン。よろしく」
「時空管理局執務官クロノ=ハラウオンです」
その一瞬。
数字にして1ミリにも満たぬほどに僅かに、クロノの眉がピクリと動いた。それはあまりに些細な動作であったし、ユーノにとっては意識しなければ見えないような位置のことだったため、気づくことはなかった。
そのまま笑顔で応じて差し出したクロノの手を、フィーゲルが握り、握手が交わされる。
「それで、今日は何か御用ですか?」
「そうなんだ。ユーノ君に少し聞きたいことがあってね」
ユーノは眉を八の字にまげた。
これからクロノに調べたロストロギアのことを報告をしなければならないこともあるし、彼と話していてクロノに闇の書のことを聞かれるのも避けたい。すまなそうに頭を下げる。
「すみませんけど、ちょっと仕事が入ってるので、少しだけ待っていてもらっても良いですか?」
「うん、全然構わない。ごゆっくりどうぞ」
「それじゃ、失礼します」
ユーノは2人に一礼すると背を向けて歩いていった。クロノもそれに続く。
その二人の背中を、2人の研究者はそれぞれの表情で見送った。
2人の姿が完全に見えなくなってから、フィーゲルとレーゲンは視線を交わした。
苦笑とため息が交差する。
「危険な橋を渡ることになりそうだとは思っていたけど、まさかいきなり執務官と鉢合わせになるとはね。
まったく、心臓が凍るかと思ったよ」
「おまけにその動揺は向こうには気づかれていたようだしな」
「……やっぱり?」
クロノの僅かな眉の動きは、お互いに気づいていた。というより、目の前にいたのだ。集中していれば気づかないほうがおかしい。
フィーゲルは自分の緊迫感をごまかすように頬をかいて笑った。笑顔のこめかみに一筋の汗が流れる。
「さすがに今すぐどうこうするほどだとは思わないけど、本格的に捜査されたらお終いだろうね」
「だろうな。管理局の職員は優秀だ。俺たちの力でどうこうできる相手じゃない。
できるのは精々見つからないよう、不審に思われないよう小細工するくらいのものだ」
レーゲンは頷いた。
時空管理局を相手に立ち回れると自惚れるほど、レーゲンは愚かではない。
充実した設備と、正式な教育を受けた職員、そして広大な管轄地域をカバーできるだけの数。
それらが本気で彼らを検挙しようと思えば、おそらく一週間と持たずに捕まるだろう。
二人に出来るのは、管理局に目をつけられないように事実を隠蔽するだけだ。
それも管理局が見つけようと思えば隠しきれるものではない。故に、時空管理局執務官クロノという存在は、2人にとって鬼門とも言える存在なのだ。
「けど、それも見つかったらどうしようもない、と。
いやはや、まったく予想以上に細い綱だねえ。僕達が渡ろうとしているのは。
まったく、過ぎたこととはいえ、後ろ暗いことがあるっていうのは良いもんじゃないよ、ホントに」
大仰に肩を落として嘆く相棒の姿に、レーゲンは肩をすくめた。
まったく、この男のこういう子供じみた仕草はいつになったら治るのか。
これだったら10近く年の離れた執務官の少年の方がよほど大人らしい。
レーゲンはいつもの仏頂面を僅かにゆがめて苦笑した。
「なら、やめるか?」
「それこそまさかだ。この子がマスターを選ぶなんて、この先にあるかどうかも分からない。
それに何より、僕がこの子の記憶を消すなんて、できるはずがないだろう?」
レーゲンはうなずいた。そうだ、それでいい。
自分の相棒は悪人で悪党だが、それを誇って恥じないバカなのだから。
「なら恐れるな。幸い、この程度で捜査を開始されるほど警戒感を与えたとも思えん。まだ猶予は十分にある」
「ラジャー、ボス」
フィーゲルはおどけて敬礼した。
ちょうどクロノと別れたユーノがこちらにやってくるのが見えた。
ロストロギアの報告が終わってすぐ、ユーノはクロノと別れて二人の下へ向かった。
2人の話がどんなものか分からないが、いつ闇の書の話が出てくるか分からない。
それだったら先に分かれたほうがいいという判断だった。
「で、今日はどうしたんですか? 資料に何か問題でも……?」
「いや、今日は別件。ユーノ君、これに見覚えがある?」
笑ってそう堪えると、フィーゲルは手を差し出した。載せられていたのは、栗色のクリスタル。
思わず声が漏れる。
「これ……昨日の」
見間違うはずもない。ユーノが昨日拾ったデバイスだ。
この人たちのだったのか、と心中で納得した。
たしかにこの人なら、部外費の品だろうとうっかり落としていきそうな気もする。
そんな失礼な考えが頭に浮かんだ。
それに気づいたわけもないだろうが、フィーゲルが満足そうに微笑んだ。
「やはり、君が拾ってくれてたのか」
「はい。昨日ここに落ちていたのを見つけました」
「それで遺失物係に届けてくれた、と。ありがとう。おかげで助かったよ。
――ところで質問なんだけど、その時、この子に魔力を通したりは?」
不意に、フィーゲルの瞳に真剣みが混じる。
その質問に一体どんな意味があるのか図りかねて、ユーノは困惑した。
しばらくの逡巡の末、それでも誠実に答える。
「はい、持ち主が誰か分かるかと思って……」
その答えに、フィーゲルとレーゲンはそれぞれの表情で視線を交わしてうなずいた。
自分の知らないところで話が進んでいく。その不安が膨れ上がるのに耐えられず、ユーノは素直な疑問を口にした。
「あの、僕何かまずいことをしてしまったんですか?」
感情がそのまま顔に出てしまっていたのだろう。フィーゲルは一度苦笑すると違う違うと手を振った。
まだ疑念は払えなかったが、その行動に少し安堵の息をつく。
「そういう訳じゃないんだけど、色々面倒なことになっててね。
とりあえず、最初から説明していこうか」
そう言うと、フィーゲルは無重力に浮かぶ椅子から立って身体を翻した。
その振る舞いは、研究者と言うより学者や教師といったそれに近い。けれど、そうした仕草が不思議と様になっていた。
「格好から予想はついてるかもしれないけど、僕らはミッドチルダの研究者だ。専門はインテリジェントデバイスの。で、僕らの開発した新型デバイスの試作品がこれ」
ユーノはもう一度そのデバイスに目をやった。特別珍しい形をしているわけではない。けれど、その栗色の輝きが強く印象づいていた。
その視線に応えるように、デバイスは薄く輝いた。
「君も知っているかもしれないけれど、インテリジェントデバイスは自らが主人を選ぶことがある。この子はそこがまだ未完成でね。
ほとんど誰も主として受け付けてくれないでいたんだよ。ところが今朝この子を遺失物係から受け取ったら、マスターが登録されていた」
そこまでくれば話は読めてくる。振り返ったフィーゲルの瞳をまっすぐに見て、ユーノは尋ねた。
「……僕が、その子のマスターとして登録されていたってことですか?」
「その通り」
出気の良い生徒をほめる教師のように、フィーゲルは笑う。一呼吸おいてから、もう一度ユーノにデバイスを差し出す。
「僕らとしては、この子がマスターを選んだことが驚きでね。できればデータを集めるためにも君に協力して欲しい。要するに、君にこの子のマスターになってほしいんだ。それを頼むために、今日はここに来た」
「それは……」
ユーノは返事を戸惑った。マスターになるのが嫌だというわけではない。それ以前に、話が急すぎてどうすればいいか分からなかったのだ。
誰かに相談しようにも、クロノは報告した資料を抱えてアースラへと戻ってしまっている。今更ながらに彼についていてもらえばよかったと公開した。
フィーゲルの手の中のデバイスを見る。栗色の透き通ったそれは、よく見なければ分からないほど微かに鳴動していた。心臓の鼓動にも似て、一定のリズムで明滅を繰り返している。
その輝きに、ユーノの視線は引き付けられる。トクン、トクンというリズムに、ユーノの意識が誘われていく。
あれ、と。
その明滅を見ているうちにぼんやりとしてきた意識で、ユーノは首をかしげた。
何かに似ている、そんな気がした。
――そうだ。この子は、待ってるんだ。
何を、と言われても分からない。ただその確信だけがあった。
デバイスは相変わらず明滅を繰り返している。じっと見つめられているみたいだ、とユーノは思った。
まるで催眠術にかかっていくみたいに、段々と思考が削げ落ちていく。
視線をデバイスから離せなくなっていく。
――。
ふと、朧になる意識の中で、小さな女の子の姿を幻視した。
――ン。
それは幻聴だ。聞こえるはずのない声だ。
――メ……ン。
聞こえるはずのない声を、ずっとずっと伝えようとしてきた声だ。
――メ……ト……ン。
だから、応えないと。
「……メート……ヒェン」
するりとこぼれ出た呟きに応えるように、栗色の輝きがひときわ強くなった。
『Yes,master.』
デバイスによる人工的で事務的な音声。けれどその響きが、喜びに溢れていることを、ユーノは知っていた。
きっと彼女は、喜びのあまり服を翻して踊っているのだろうと、妄想じみたことさえ当たり前のように感じていた。
「……驚いたな」
言葉通りに自失しているような呟きに、ユーノの意識がはっきりと戻る。
今、自分は何を口走っていたのだろう。まるで夢の中にいたみたいに記憶が朦朧としている。
今やフィーゲルの手の中のデバイスの輝きは誰の目にも分かるほど強くなっていた。
自失から立ち直ったのか、やれやれと肩をすくめて、どこか面白げな声音で口を開く。
「まさか、名前まで知っているとは……いや、この子から聞いているとは思わなかった」
「え……この子、って……」
その呟きに対して、宝物を自慢する子供のような満面の笑みでフィーゲルは笑った。
差し出した手をユーノの鼻先にまで突きつける。
「決まってるだろ? この子だ。
『メートヒェン』。君が呟いたその名前が、この子の名前だ」
眼前に突きつけられた栗色のデバイス。それを見るユーノの意識の中で、戸惑いが消えていく。
そうだ、この子の名前はメートヒェンだ。
ずっとずっと、あんなに必死になって伝えようとしていた、彼女の名前だ。
「もう一度お願いする。
ユーノ君。この子のマスターになってやってくれないか?」
その言葉に呼応するように、デバイスが一際眩く輝いた。