何もない空間で、少女はユーノのひざの上で彼にもたれながら、猫のようにごろごろと甘えながら、ユーノの話を聴いていた。
それはもう日常と貸した非日常。ユーノもそれを当たり前のように受け入れて、少女の伸びるがままにされている髪をなでてやる。
生まれて間もない少女の髪はこまめに手入れがされているのか、同年代の子供に比べても美しい髪をしていた。親の愛情がうかがい知れる。
ちょうど話にひと段落が着き、お互いに黙り込む。二人のほかには何もない場所だから、お互いの呼吸や心臓の音以外には何も聞こえない。
そんな静寂を穏やかな心地で感じながら、ユーノはじっと少女の髪を見詰めた。
栗色の長い髪。
「やっぱり、よく似てる」
口の端をほんの僅か動かして、ユーノは呟いた。
言葉の意味が分からずに、 少女は顔を上げてユーノの見上げた。説明を求めてじっと見つめる。
ユーノは初め、何も答えなかった。ただ何度も何度も少女の髪をなでる。
それがしばらく続いて、ユーノはぽつりと、呼吸と一緒にもれ出るように、その言葉を呟いた。
「……なのは」
それは、少女の言葉に答えた言葉ではなかった。本当にぽつりと、ユーノの中に溢れる何かがもれ出た結果だった。
そのことを、理屈ではなく少女は察していた。
少女はユーノの顔をじっと見つめた。泣き顔とも微笑みともつかない、不思議な顔だった。
そして、近くにいて触れ合っているというのに、不思議と遠い顔だった。
急に胸が締め付けられるように痛みだして、少女は胸を押さえた。
生まれて間もない少女には始めての感情。当然、耐性も心構えもあるわけもなく、戸惑いと痛みにユーノの服のすそを強くつかむ。
その感触に、ユーノははっとなった。どこか遠いと感じた印象が消える。
少女は帰ってきてくれたと感じた。もう離れていかないように強く強く身体を抱きしめる。
その少女の挙動を、ユーノがどう捉えたのかは分からない。
「……ありがとう」
ただそう呟いて、抱きしめる彼女の背中に包み込むようにして腕を回す。
優しい抱擁。けれど、少女の胸の痛みは消えてくれなかった。
ユーノは近くにいる。触れ合っている。これ以上ないほどに、彼のぬくもりを感じる。なのに、心だけがどこまでも遠く感じる。
その感覚に、少女は泣きたくなった。
今までもこういうことはあった。自分の髪を見るとき、ユーノは決まって遠い目をして、こちらに意識を向けてはくれない。
それでもそれはすぐに収まったし、ユーノもそれに気づくと照れたように笑ってごめんと謝るのが慣例だった。
それが、だんだんと酷くなっている。ユーノがどこか遠くに想いをはせる時間も、その深さも。
すべては、この髪のせいだ。幼い少女でもそれくらいは分かる。
親が与えてくれたこの長い栗色の髪。これがユーノを自分から引き離していってしまう。
少女は自分を生んでくれた親二人のことをそれなりに好きだったが、それすらも超えて恨みたくなってくる。
いっそのこと、染め上げたり切ってしまうことが出来ればいいのに。無理だと分かっていながら、そう思ってしまう。
この髪がこの色でなければ、ユーノはずっと側にいてくれるのに。
ユーノの心をもっと深く、深く知ることが出来るなら、ユーノを遠くになんて行かせはしないのに。
――ユーノを奪っていくやつなんて、いなくなってしまえばいいのに。
強く強くすがりつきながら、そんなことを考えた。
5.ベル
フェイトとユーノの会話は弾んだ。
もともと二人の仲はいい。その上しばらく会っていなかったとなれば、話すことは山ほどあった。だから。
「そういえば、最近なのはとは会ってるの?」
その話題が出てくるのは、当然の話だった。
なのはは二人にとって種類は違えど大切な人であり、二人の関係をつなぐ存在である。彼女の話が出てこない方がおかしい話だった。
フェイトはユーノがなのはに好意を抱いていることは知っている。
というより、この二人を知っている人間なら誰もが気づいているのではないだろうか。
クロノやシグナム、ザフィーラ達など、そういうことには鈍そうな人は分からないが。
正直な話、フェイトは自分が話さなければクロノは彼の気持ちには気づかなかったのではないかと思っている。
なのはの話をするとき、いつもユーノはとても穏やかで優しい目をする。
宝石箱にしまった宝物を、壊さないように、汚さないように、じっと覗き込んでは微笑んでいる、そんな想いが伝わってくるような瞳だった。
フェイトはそんな目のユーノの顔を見るのが好きだった。
そうして想われているなのはのことが大好きだった。
単純に二人がもっと仲良くなってくれたらいいと、そう願っていた。
きっと二人はどんどん仲良くなっていくのだろうと、そう思っていた。
だから。
「……ううん。最近は、あんまり」
そう呟いたユーノの瞳が寂しさと疲れに彩られているなんて、予想だにしていなかった。
「……ユー、ノ?」
思わず漏れ出た声は、自分でも思っていた以上に呆然とした声色だった。
「あ、ごめん。ちょっとぼうっとしてたみたいだ」
その響きにユーノははっと我に返った。瞳に普段の輝きを戻して、笑顔を浮かべる。
けれど、それは強がっている瞳だ。
理由ははっきりしない。けれど、どこかで見たことのある瞳だから、すぐに分かった。
言葉には出さず、ユーノの顔を覗き込んでただじっと、まっすぐな瞳をユーノへと向けた。
「……ごめん、嘘をついた」
幾万の言葉よりも雄弁なその視線に、ユーノは虚勢を保てない。
作った笑顔が取り外されて浮かび上がるのは、届かない星に心焦がれて手を伸ばす、朴訥な少年の素顔。
「……どこが、嘘なの?」
「強がったところ、かな。
……本当のことを言うと、なのはと会うのが、ちょっと怖い」
「怖い……?」
「うん、そう。怖い」
やがて、ぽつりぽつりと、ユーノは自分の胸に沈む思いを語り始めた。
その瞳は、フェイトを通り越してどこか遠い、遠い何かを見つめている。
「最近、なのはと会ってなかったからかな。仕事が終わって夜、時間が余ると、色んなことを思い出しちゃって」
それは例えばなのはとの出会いであったり、笑顔だったり、交わした会話の断片だったり。
疲れた体を毛布でくるんで瞳を閉じても、思い出すのはなのはのことばかりで。
身体が疲れ果てて重くて、普段なら泥のように眠りにつくはずなのに、長くて眠れない夜は続いて。
会いたいと募る思いは、やがて微熱交じりのため息へと変わっていく。
「思い出すたびに会いたいなあ、って思うんだ。けど、それと同じくらいに、会うのが怖い。何を話していいか分からないんだ。
……ううん、違うな。本当に怖いのは、思い知ることなんだ」
何を、とはフェイトは尋ねなかった。それはフェイトも分かっていたことだったし、口に出したくない類のことだった。
なのはは、まだユーノの想いに気づいていない。
好きな人が、自分の事を見てくれない。その辛さは、フェイトはよく知っている。
そう考えて、フェイトは今のユーノと同じ瞳をどこで見たかを思い出した。
昔の自分だ。
母のことが大好きで、ずっと大切に想っていて、けれど母は自分の想うようには自分のことを想ってはくれなくて。
想いを支えにしても、強がっても、寂しさは自分の中でどんどん降り積もっていった自分。
どうしようもなく寂しくて、疲れ果てていたあの頃の自分と同じ瞳を、ユーノはしている。
「……あれ、何言ってるんだろう、僕。……ごめん、変なこといって」
ユーノは苦笑した。いつもと同じなようで、決定的に違う、寂しくて儚げな微笑みだった。
焦がれる想いに身を焼かれながら、どうすることも出来ずに笑っていた。
なのははユーノのことをただの友達としか思っていないことを知っているから。
もしかしたら、と、フェイトは思う。
今までフェイトは、ユーノはなのはのことを遠くから穏やかに見守っているのだと、ずっと思っていた。
けれど、もしかしたら。
ユーノはずっと、届かない場所にいるなのはに手を伸ばしていたのかもしれない。
今こうして素顔を除かせているのは、なんらかのきっかけによるものに過ぎなくて、ずっと前からそうした想いは募っていたのかもしれない。
フェイトがなのはと出会ったことで、少しずつ変わっていったように。
ずっとずっと、消えない想いに焦がれながら幾つもの夜を耐え忍んできたのかもしれない。
それは、あまりに寂しい情景だった。
視界が涙で滲む。
「……フェ、フェイト?」
困惑した声が耳に届いて、フェイトは嗚咽を漏らした。
胸がぐちゃぐちゃになって締め付けられて、とても痛い。
ユーノは優しくて、なのはも優しくて、フェイトはそんな二人が大好きで、だから二人には幸せになってほしいのに。
ユーノはなのはのことが好きで、なのはもきっとユーノのことが好きなのに、どうしてこんなにも切ないのだろう。
フェイトは新しい自分を始めることが出来たけれど、ユーノはどうなのだろう。
古い自分を終わらせて、新しい自分を始めること。それが本当に、ユーノにとっていいことなのだろうか。
分からない。
どうして。
どうして世界は、こんなにも「こんなはずじゃなかったこと」ばっかりなんだろう。
なのはを想って明けない夜をただじっと待つユーノが可哀想で、フェイトは嗚咽がとまらなかった。
そんなフェイトを前にして、ユーノはどうすればいいか分からずに弱りきっていた。
さんざん悩んで迷った末に、不器用に、おずおずと、フェイトの肩に手を置いた。
「泣かないで……」
出てきた言葉は、ひどく不器用で。
その暖かさに、フェイトはまた泣いた。
――そして時間は現在に戻る。
明かりもついていないくらい自室で、ユーノは毛布に包まって丸くなっていた。
激情の波はようやく過ぎて、心が落ち着きを取り戻していく。
後に残るのは、疲れ果てた身体と心。
真に残る敏津を吐き出すように、ため息を漏らした。
結局、フェイトは昼休みが終わるまでずっと泣き続けていた。
仕事を再開することと、傍らで泣き続ける友達に挟まれて、ユーノはどうしようもなく困惑していたが、フェイトは大丈夫だからと繰り返して、ユーノを仕事に戻していった。
それから、ユーノが気づかないうちにフェイトは帰ってしまった。
まだ、泣いているのかもしれない。
そう考えると、気分がいっそう憂鬱になった。
いつまで、こんな夜は続くのだろう。
半分沼に沈めたような意識で、そんなことを考える。
なのはを想って、届かないことに苦しんで、フェイトまで泣かせて眠れずにいる、そんな夜はいったいいつまで続くのだろう。
そんなのは決まっている。
この夜が明けるときは、この想いがなのはに届く時だ。
ユーノは苦笑した。そんな簡単にいくならそもそもこんな夜をすごしてなんていない。
それ以外の方法などあるわけもない。
――リィン、と、胸元がかすかに光る。ささやき声が聞こえた気がした。
……いや、もうひとつ方法があった。頭に浮かんだ一つの考え。それはまったくの突然に、当たり前のように胸の中に鎮座していた。
「僕がなのはのことを諦めるとき、か」
その言葉は砂漠に落ちた水のように、ユーノの中にしみこんでいった。
自分がなのはのことを諦める。いつかそんな日が来るのだろうか。
この思いも苦しさも、すべて過去のこととしてしまえる日が来るのだろうか。
そんな自分は想像することも出来ない。
けれど、人はいつまでも変わらずに入られないことを、ユーノは知っている。
時は流れる、世界は変わる。その中で生きる人たちの意思とは無関係に。
その流れの中で、この気持ちも風化して、単なる少年時代の思い出として処理してしまえる日が来るのかもしれない。
(……それも、いいかもしれない)
不思議と波風ひとつ立たない、静かな心でユーノはその考えを受け入れた。
それがどんな形であれ、この苦しみが終わるのなら、明けない夜が明けるのなら、それでいいじゃないか。
そこまで考えて、ユーノは我に返って苦笑した。
どうやら自分はだいぶ疲れているらしい。普段ならこんなこと思いつきもしなかっただろうに。
疲れているからこんなに弱気になってしまうのだ。
「……もう寝よう。明日も早いんだし」
つぶやいて、端末のスイッチを切ろうとした瞬間、場違いなまでの陽気なメロディーが流れ始めた。
伸ばした手が凍りつく。
そのメロディーの意味を、ユーノはよく知っていた。画面を見なくても誰からのもか分かる。
なのはからのメールだ。
ユーノは錆びついた人形のような動きでメールを開いた。情けないことに手が震えていた。
がたがたと揺れる指がそっとメールを開く。
ユーノの目は吸い込まれるように画面に引き付けられた。
なのはからのメールは、元気ですかという温かい問いかけから始まっていた。
そして、学校や放課後の楽しかったことなどの近況報告をはさんで、お仕事がんばってね、の一文で締めくくられている。
内容は違えど同じ構成の文面。
そこに、今までにはなかった追伸が書かれていた。
『P.S 今度の日曜日にレイジングハートの調整が終わるので、本局に行くことになりました。
よかったらお仕事の手伝いに行ってもいいですか?』
その最後は、こう結ばれていた。
――久しぶりに会いたいです。
魂が打ち砕かれたかと思った。
瞳孔が開く。心臓が痛いくらいに締め付けられて、とっさに手で押さえた。
呼吸が出来ない。苦しい。服を引きちぎりそうなほどに強く強く手を握る。
パクパクと金魚みたいに口が開く。空気も言葉も出てこない。そんなものよりもはるかに大きな感情がのどにつかえて、行く道をふさいでいた。
分かっている。この一言に深い意味がないってことくらい。
最近仕事で合えなかった友達に会いたい。ただそれだけのことだ。
ただ、それだけのことなのに。
「うっ……く、あぁ……あ……」
それでもココロは、こんなにも痛い。
誰もいないくらい部屋で、ユーノは声を押し殺して泣いた。
このことをきっといつまでもなのはは知らずにいる。
そう思うと、また涙が溢れてきた。