西日が辺りを赤く染める世界と時間帯、なのはは自宅への道のりを足取りも軽く歩いていた。
久しぶりに全力で魔力を放出した脱力感が、心地よく身体を浸食していた。
今日はいい日だったと、弾む心で笑う。
休日を利用して八神家に遊びに行った際に、ザフィーラがいたのはなのはにとって幸運だった。
彼に頼み込んだおかげで、久しぶりに全力全開で魔法の実射訓練を行うことが出来たのだから。
レイジングハートによるイメージファイトもやりがいがあるが、やはり魔法の実践使用とはまた違う。
なのはの全力全開を耐えうるだけの結界など張れる魔導師の数が少ないだけあって、久々の全力全開の実射は格別だった。
「そういえば、ユーノ君はどうしてるかなあ……?」
そこから連想して、闇の書事件が始まる前はいつも訓練のサポートにまわってくれたパートナーのことを思い出した。
ユーノも結界魔導師としての実力は誰に劣ることもないほどの優秀さを誇る。
彼がいてくれたなら周囲のことを考えずに全力砲撃することもできるのだが、そういうわけにもいかない。
ユーノは今無限図書の司書として忙しなく仕事に励んでいるのだ。ないものねだりして迷惑をかけるなんてもってのほかだ。
そういえば、フェイトは今日執務官試験の関係で本局に行っているはずだ。
時間があればユーノとも会ってくると昨日話をしていたけれど、ちゃんと会えただろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、自宅の前に見慣れた人影があった。
小指の先ほどの大きさにしか見えない距離だが、それが誰だかはすぐに分かった。
背中にかかるほどの長い金の髪を二つに結い上げた小柄な少女。かけがえのない親友を、なのはが見間違えるはずがない。
本局からこの世界まではどんなに早くても1時間ほどはかかる。時間帯を考えれば、おそらく帰ってきた直後に寄ってくれたのだろう。
そうして近くにいてくれるフェイトの存在が、なのはにはとても嬉しい。
だから、その気持ちをそのまま声に出して、駆け寄っていった。
「フェイトちゃーーーん!!」
その時、なのはは本当に嬉しくて、幸せで。フェイトのことで頭がいっぱいだったから。
ユーノのことは、頭からきれいさっぱり消えていた。
◆
――いったい、どうすればいいんだろう。
フェイトはなのはの家の前で、何も出来ずにただじっと、なのはの部屋を見上げていた。
誰よりも大切な親友の部屋までは、10メートルもない。けれど、その10メートルが、今のフェイトにはあまりに遠かった。
ユーノと別れてからたまらない衝動に突き動かされてここまできてしまったけれど、そこから一歩も動けない自分がいた。
なのはに会ってどうしようというのだろう。
なのはにユーノの気持ちを伝えて、それに応えてあげるように言えばいいとでもいうのだろうか。
それで本当に、2人が幸せになれるとでも言うのだろうか。
二人が好きだという想いはある。幸せになってほしいという願いもある。
けれど、そのためにはどうすればいいのか、“正解”が分からない。
恐れがあるから前に進めない。願いがあるから背を向けられない。
自分に出来るのは、ただただ立ち尽くすことだけで。
ああそうか、とフェイトは理解した。
今自分の胸に宿るこの思いこそが、ユーノの抱える痛みのその根源なのだ。
たまらずに、両手で胸を押さえた。身体の中でどくどくと熱い何かが身体を傷つけていく。固く目を瞑ってそれに耐える。
そんな時だったから。
「フェイトちゃーーーん!!」
満面に喜色をうかべて駆け寄ってきてくれるなのはの声が、胸に痛かった。
6.やさしさのやいば
「はい、紅茶。熱いから気をつけてね」
「……ありがとう」
フェイトは言葉少なく例を述べると、なのはの部屋のベッドに腰掛けたまま、少しずつ紅茶に口をつけた。
二人でお茶。そんないつもの光景なのに、油の切れた人形のようなぎこちない空気が流れているのを、二人は嫌というほど感じていた。
特に、なのはの困惑は深い。
つい先ほどまでの高揚感もすっかり消えて、胸の中で渦巻くのはフェイトへの心配と不安。
つい昨日までは、ただ隣にお互いがいるだけで幸せだったのに。
その落差が、なのはの困惑を深めていた。
どうしようか。事情を聞くべきだろうか。
けれど、それが自分が触れていいことなのかどうかが分からない。大切な友人だからこそ、触れることに躊躇ってしまう。
それでも。
(……やっぱり、事情を聞こう)
それがどんなことであろうと、高町なのははフェイトの力になりたい。
なのはがかつて選んだその決意を、翻した覚えなどないのだから。
「……ねえ、なのは」
事情を聞こうとなのはが口を開こうとした瞬間、フェイトはポツリと呟いた。
機先を制されて、出そうとした言葉は喉で止まったまま消える。
「……なのはは最近、ユーノと会ってる?」
「え?」
――どうして、そんなことを聞くんだろう。
最初に思ったのはそんな疑問だった。
だけど、それが悲壮なくらいに真剣な声だったから、意図は分からなくても誠実に答えるべきだと理解していた。
少し首を傾げて記憶をたどる。考えてみれば、ユーノとはここしばらく会っていなかった。
その記憶を引き出すのには、若干の間が必要だった。
「……最近は会ってないかな。ユーノ君、無限書庫のお仕事忙しいみたいだから」
「寂しく、ない……?」
なのはは、その声に込められた祈りに気づくことは出来なかった。
それは悲壮で、真剣で。けれど何よりもまず、縋りつくような声音だったことに、なのはは気づけなかったのだ。
なのはははにかんだ。
「なのは……」
フェイトはそれを見てしまった。嘘偽りのない、彼女の本音を。
それは、穢れない親愛の証。無垢な心。純粋な友情。
ユーノのそれとはけして交わることのない想い。
たしかに、まったく寂しくないといえば嘘になる。
「けど、ユーノ君も今一生懸命頑張ってるんだから、私も頑張らなきゃって思うから」
だから、離れていてもしっかりしようと思うのだ。大切な友人と再会したときに、誇れる自分でありたいから。
「そっ、か……」
「今度は私から聞かせて。フェイトちゃん……何があったの?」
覗き込むようにして尋ねると、フェイトはその視線から逃れるように俯いた。
二人の視線の間には彼女の金の髪がカーテンとしてかかる。
それが二人の間に空けられた溝のようで、ひどく悲しかった。
「フェイトちゃんが悲しいのは、嫌だよ」
紛れもない本音を呟いて、なのはは顔を寄せる。きれいな髪を掻き分けて、二人の額が触れ合った。
ゆっくりと瞳を閉じる。触れ合った肌と肌を通して、お互いの熱を感じる。
その温かさを通じて、フェイトの悲しみを分かち合えたらいい。そう思った。
「だから、教えて。私はフェイトちゃんの力になりたいの。ひとりで悲しむのは、駄目だよ」
その言葉は温かかった。
本当に、温かかった。
温かかった、から。
「……ぅ」
こつりと、痛みを感じる。
こつり、こつりと、触れ合ってはまた離れる。
「……ぅ、ぅう……」
「フェイト、ちゃん……?」
フェイトは、震えていた。震えて、泣いていた。
のど元からわき上がってくる感情にこらえきれずにしゃくりあげる。
なのははそれを、黙って抱きしめた。かつて母がそうしてくれたように、包み込むように、優しく。
フェイトがますます泣き声を強くしても、何も言わずに、ただずっと。
ここにいるよと、伝えるように。
フェイトはしばらくの間、なのはの胸元で泣き続けた。
けれどけっして、フェイトがなのはにすがりつくことは、なかった。
それから、どれくらい経ったかは分からない。
フェイトはその間中ずっと泣いていた。身体中の水分すべてを、身体中の悲しみすべてを出し切るかのように、ただひたすらに泣いた。
泣いて、泣いて、泣き声をあげ続けて。
喉がからからになってしわがれた声しか出ないころになって、ようやく涙は出尽くした。
それでも悲しみは止まらなかった。
どうすればいいんだろう。その答えは、まだ出なかった。
それは、時間だけが解決できる問題なのかもしれない。考えたところで、答えなんて出ないのかもしれない。
「……あのね、なのは」
そうかもしれない。どうしようもないのかもしれない。
世界はいつだってこんなはずじゃなかったことばっかりで、いつもいつでも、うまくいかないことの方がたくさんあって。
「なのはに、伝えたいことがあるんだ」
でも、みんなその世界で生きてる。頑張ってる。
だから、まだ、諦めたくない。
何も出来ないかもしれないけど、そんな資格なんてないのかもしれないけど。
それでも、二人の幸せを願いたいんだ。二人に、幸せになってほしいんだ。
その想いだけは、諦められないんだ。
「これから言う事、忘れないで」
だから、頑張ろう。
今私に出来ること、今私に伝えられること。そのすべてを、なのはに伝えよう。
「どんなに近くても、どんなに想っても、届かない場所は、たしかにあるんだ。
そうなる前に呼ばないと、きっと届かなくなってしまうんだ」
いつかきっと、二人の関係が変わる時は訪れる。
その結末がどうであろうとも、なのはには決して後悔だけはしてほしくなかった。
なのはのユーノへの想いはまだ「特別」じゃないのかもしれないけど、その時になのは自身がその感情が「特別」なのだと気づいていなかったら、きっと後悔するはずだから。
あえて、なのはの想いが「特別」じゃないことは、考えなかった。
否。考えられなかった。
「なのはが決めたことなら、どんなことでも、どんな時でも私はなのはの力になるから。
だから、『その時』になったら、迷わないで。躊躇わないで」
「フェイト、ちゃん……」
なのはは目をぱちくりとさせた。
まだ分からないならそれでいい。この言葉が役に立たなかったとしても、構わない。
ただ、今言える言葉を言わないで、2人が悲しむことになるのだけは、絶対に嫌だから。
「それが、今私が言える、精一杯のこと」
泣きはらした赤い目に強い強い願いと意思をたたえて、フェイトはそう告げた。
その後、フェイトは洗面所を借りて泣き腫らした顔をよく洗うと、送っていくというなのはの言葉を丁重に断って家を後にした。
残されたなのははただ困惑するばかりだ。
「フェイトちゃん、どうしたんだろう……」
結局、泣いている理由は何も話してくれなかった。
自分ひとりで抱え込んでいるのだろうか、自分は話すに値しないと思われたのだろか。そんな訳はない。なのはとフェイトはかけがえのない親友で、お互いのことを誰よりも思い合っているのだから。
ならきっと、フェイトの抱えているものは、自分には言えないことなのだ。大切に思うから言えないことは、誰にだってある。多分、気づいていないだけでなのは自身にもフェイトに言えないことはきっとある。
それを無理に聞き出すことはできない。フェイトが隠し事をするなんて、それ相応の理由があるに違いないのだから。
フェイトが最後に残した言葉が頭に何度も反響する。
一体、フェイトは何が言いたかったのか。なのはにはまだ分からない。
彼女の胸元で、レイジングハートが小さく光る。
『I don't know,too. But, I think I can understand what she said.』
(私にも分かりません。ですが、彼女の言いたいことは、分かるような気がします)
「レイジングハート、どういうこと?」
一呼吸をおくようにして、胸元の赤い宝石は答えた。なのはにとって衝撃的な一言で。
『I deserted once master,Yuno.』
(私はかつての主、ユーノを見捨てました)
「レイジングハート、それは……!」
とっさに口を入り込ませる。
なのはもユーノも、レイジングハートをそういう風に見たことなど一度もない。
それに構わずに、なのはのパートナーは言葉を続けた。
『I elected not him but you my master. ....Do you blame me?』
(私はあなたをマスターとして選びました。彼ではなく、あなたを。……私を薄情だと責めますか?)
「そんな訳ない! 責めるわけないよ……!」
『Thank you, my master.』
合成音による人工言語。けれど、彼女が笑っているのだということを、なのはは理解していた。
それだけの絆を育む時間を、二人は過ごしているのだ。
穏やかな声で、レイジングハートは自らの思いを語る。同じ道をたどろうとしている人間に、先達から伝える言葉。
『At time,a choice hurt someone.nevertheless,the occation that ask everyone to select will call on.』
(何かを選ぶということは、時に何かを傷つけます。それでも、選択を求められる機会は誰の元にも訪れます)
「レイジングハート……?」
それをまだ、なのはは理解できない。
けれど、その時がきたならきっと、役に立つ。力になる。そんな言葉。
『One of these days, I think a occasion will come to you. It may be sudden and unfair,in addition to that you don't know yourselfs will and result the select bring about.
(いずれあなたにもその時は訪れるでしょう。それは唐突で、理不尽で、自分の意思もその結果も分からないこともあるかもしれません)
And yet, don't hesitate to dicide,please. I selected not him but you. and she started new herself.
(それでも、躊躇わないでください。私があなたを選んだように。彼女が最愛の母との関係を終わらせたように)
In the same way, you can decide yourselfs future no matter who say. Don't forget,please.』
(誰が何と言おうと、あなたの行く道はあなたが決めていいのです。その事を、どうか忘れないで)
それは神々しい託宣に似ていた。
レイジングハートの静かな語りは、なのはの記憶の中に不思議な響きを持って染み渡っていく。
やはりまだ、その意味は分からない。けれど、フェイトもレイジングハートも、大切なことを伝えようとしていることだけは分かる。
その真摯さに、なのはは自然とうなずいていた。
そうすることが一番なのだと、自然と理解していた。
そして二人のこの言葉は、後のなのはの選択の、大きな指針となる。