第3章 2 誘い 前編
| 「よし。じゃあ、行こう。締める準備するから、待っててくれ」 黒澤は立ち上がると、戸締まりを始めた。 美香はコートを着て、彼の帰り支度を待っている。 外でこの人と、食事に誘われるなんて…… 男性とのデートなんて、およそ3ヶ月ぶりになる。 恋人と別れる時、都内の高層ホテルで食事した時以来。 こんな状況でも、少なからず美香はなんとなく胸が弾んでいきそうな気分になる。 「待たせたな。……行こうか」 美香の肩を抱くと、エレベーターに乗り込む。 行きのエレベーターに乗り込んだ時には、 まさかこんな展開になっていくなんて、考えもしなかった。 そのまま華やかな通りを抜けて、駅からさほど離れていないホテルへと向かって歩く。 上階の高級店ばかりが立ち並ぶレストラン街に着く。 その中の、イタリアンレストランに入る。 店内はムーディーな照明で、落ち着いた雰囲気だった。 窓際の夜景の見える席に案内される。 美香は何を注文しようか迷っていると、黒澤がコースを頼んだ。 女性向けの少量のコースを勧められ、それにする。 テーブルに置かれた、ワイングラスに浮かぶキャンドルの灯りが揺れる。 なぜ、この人とここにこうしているのか…… 美香は今更ながら、自分の不思議な行動に戸惑った。 黒澤は、黙ったまま美香の顔を見つめている。 唇に、なんとも形容しがたい笑みを薄く浮かべながら。 美香の心の奥底までを見通してしまうような、鋭さと深さを湛えた黒い瞳。 あまりにまっすぐに見つめられると、美香の気持ちが騒ぐ。 落ち着かなくて視線を外し、注がれた赤ワインを飲む。 すると、意外な飲みやすさに驚いた。 美香はアルコールに弱いから、酒の種類に関してはほとんど知らない。 ワインも同様、まったくの無知に近い。 「美香は、いけるクチか?」 それまで黙っていた黒澤が、唐突に口を開く。 「いえ……。私、弱いんです」 言ってから、しまった……と思った。 ばか……お酒に弱いことを言っちゃうなんて。 自分から、弱みをさらけ出してどうするの? きっとまた、つけこまれる……。 「そうだろうな……弱そうだ。ほら、今もう顔が赤くなってる。……酔ったらどうなる? 陽気になるか、それとも沈むタチか?」 微笑を浮かべながら黒澤はそう問いかける。問いの内容がきわどくなる。 「酔うと感じてきて、男に抱かれたくなるって女もいるらしいな。美香はどうなるんだ?」 「…………」 まさかここで、眠くなって寝てしまう、なんて答えるわけにいかない。 答えられずに黙っていると、前菜が運ばれてきた。 「黒澤さんは、どうなの?……酔ってなくても、いつでも女を抱きたいんじゃないの?」 わざと敬語を使わず、意地悪げに声を落として言ってやる。 案の定、黒澤はくっ、と笑い声を立てた。 「言うな……なかなか。そうだな、俺は酔ったからって、大して変わらんな。 おまえの言う通り、いつだってやりたいからな」 あけすけなことを言って美香の反応を確かめるような、黒澤の余裕のある表情を見ていると なにか無性に、その顔を崩してやりたいと思う。 見てらっしゃい……あとで。 あなたのものをしゃぶらされる時に、そんな顔してられなくなるほど追いつめてやるから……。 あのときの声を…よりによって他人に電話で聞かせるなんて、そんなひどい恥辱を味わわせて くれた。 そのお礼を、何分の一でもいいから……返してやるから。 そんな思いを抱いていることなどおくびにも出さず、美香は黒澤と向かい合って食事を始めた。 「黒澤さんは、お酒強いんですか?」 「強そうに見えるか?」 「ええ……強そうに見える」 酒に弱いこの男なんて、想像もつかない。 「そう、俺は強いよ。俺と最後までつきあえる奴はいないな。みんな途中でつぶれる。俺は いつも介抱役になる」 「はあ……」 美香の頭に、彼が男を介抱してやる図が一瞬浮かぶ。 けれどやっぱりこの男は……女を酔わせて、そして…… 犯してるんだろうか。 はたから見ると、恋人同士の睦まじい語り合いに見えるに違いない。 でも美香にとっては、この男の心情を探ろうとする糸口を掴むための会話だった。 わからない。 この男がわからない。 この男と会えば会うほど、身体を重ねるほどに…よけいにわからなくなっていく。 そのくせ身体の歓びと、屈従を強いられ、精神をねじ伏せられる倒錯の快感はいつでも つきまとう。 このひとは、歳はいくつなの……? どこに、どんなところに住んでいるの? 家族は……いいえ、もしかすると奥さんだって、いたって不思議じゃない。 なにも知らない……。 でも、知りたい。もっともっと、この人のことを知りたい。 今日やっと、セックスをする時以外のこの人を見ることができた。 正確には、ベッドにいる時以外での姿を。 「……黒澤さん。あなたは、何歳なの?」 思い切って、美香は尋ねることにした。 「知って、どうする?」 「どうするって……ただ、知りたいの。だって……」 そこで一旦言葉を切って、うつむいたあと、黒澤の目を真正面から見据える。 「……私のことなにもかも知ってるんでしょ。調べたんでしょ。だったら、私があなたのこと 知らないなんて……不公平だもの」 ふふ、と黒澤は嗤った。 「そうだな……。確かに、不公平だ。……俺は美香より、ずっと年上だよ。……いくつに 見える?」 美香は首を傾げて考えた。 「……そうね……30歳くらい?」 「当たり。30になった」 美香の覗き込むような目を見返し、黒澤はにやっと笑った。 「……俺が独身かどうか、気になってるんじゃないのか?」 なんでわかるの、と美香は言いたかった。 やっぱりこの人は、探偵なんてやってるだけあって、並の洞察力ではない。 「ひとり身だよ。侘びしい一人暮らし。気楽は気楽だけどな」 なんだ……と、美香はほっと胸をなで下ろしている自分に気づく。 この男なら、妻がいようが子がいようが、美香のような女を身体で縛りつけるくらい 平然とやってのけるだろうと思ったから……。 「知りたければ、いくらでも答えてやるよ。ただし、わかる範囲でな。……身長は180。 体重は76。年収は、一定しない。一千軽く越える年もあれば、700くらいの年もある。 ……スリーサイズと、なんならあそこのサイズも教えてやろうか?」 最後の一節は、声をひそめて美香に囁く。 美香はそれを聞いた瞬間、目を剥いた。 「ばか……!」 思わず、手に持っていた紙ナプキンを投げつける真似をする。 「怒るなよ……冗談だよ」 ははは、と明るく黒澤は笑った。 今まで見たこともないその顔に、美香は胸を衝かれる思いだった。 この人、こんな笑顔もできるんだ……。これじゃまるで、ほんとうの恋人同士みたい……。 食事はあらかた終わり、デザートの段階になる。 「ところで……これから、どうする?」 黒澤は、いつもの笑い顔に戻って美香に言った。 「帰るか?このまま……」 え…と、美香は内心不満に思った。 さっきは、手でイかされただけでセックスには至っていない。 その前に一度抱かれてはいたけれど、 二度目の時にも、この男のものは猛り狂っていたはず。 「そんなのは、いやだろう?」 にやにやと笑いながら、黒澤は畳みかけた。 「また、ラブホにでも行くか?」 「………………」 ここで即答はしたくなかった。 美香は黙って、黒澤の次の言葉を待つことにした。それによって返答を考える。 「それとも……俺の部屋に、来るか?」 低く、甘くそう囁かれて、美香の胸は急速に高鳴りだした。 意外な誘いだった。 「……どこに、住んでるの?」 とっさにこんな言葉を返してしまう。 「知りたいか?それなら来いよ。……来るか?」 こっくりと、うなずく。 「ようし……じゃあ、決まりだ」 食後のエスプレッソを啜っても、美香の胸のざわめきはおさまらない。 飲み口がよくて、美香にしてはついつい飲み過ぎたワインのせいかもしれない。 「行くか……」 席を立つと、彼はさっさと会計に向かって行く。 美香が財布を取り出そうと鞄を探ると、「いいから」とその手を押しやった。 ……領収書を切るという野暮な真似でもしてくれたら、少しは幻滅できるのに。 さすがと言うべきか……この男は、そんなことはしない。 肩を抱かれながら、駅まで向かう。 「あの……さっきは、ごちそうさま」 律儀にお礼を言う美香に、黒澤は微笑しながら言った。 「いいんだよ。……お返しに、これからたっぷり美香をご馳走になるからな」 二人の熱く長い夜は、まだこれからが始まりだった。 新宿に出て、中央線に乗り換える。 彼は自宅はどことは言わずに、美香を黙ってリードしていく。 まだ夜の9時前、週末の人混みで溢れかえる電車へ乗り込む。 朝の通勤ラッシュほどではないが、新聞を広げる人も少ないほどの混雑ぶりだった。 それを避けるように、車両の連結部近くに寄って立つ。 ぐっと右腰に黒澤の左手が回される。 美香を抱きしめるような形をとりながら、彼女のコートのボタンを外す。 右手が、彼女のワンピースのウエストの部分を撫でる。 まさか……こんな、電車の中で愛撫を仕掛けてくるなんて。 美香は驚きながら黒澤の顔を見つめ、やめて、と口の動きだけで伝える。 彼は黙ったまま、唇の端で笑った。 美香の困った顔を見ても、やめてはくれない。 右手がだんだんと背中の方に廻り、ヒップの上の方で止まる。 そこで止まったままかと思うと、手はゆっくりと下へ移動する。 そろそろと、引き締まったお尻のふくらみへと下りてくる。 いや…………! 美香は拒否する意味で頭を振るけれど、黒澤の手の動きは止まらずにワンピースの裾へと もぐりこむ。 相変わらず黙ったまま、彼は美香の困惑顔を見下ろしながら、猛ったものを彼女の股間へ 押しつけた。 ピクッ、と美香の身体が揺れる。 ぐっとそのものが下腹部を擦ると、美香は熱い吐息を漏らしながら、黒澤の胸にもたれ かかった。 こんなところで……。 ……恥ずかしい………… ここが電車の中でなければ、たまらなく感じる行為なのに。 今、それでも疼いてしまっている。濡れはじめている。 ……こんなことを、どこに行くまでされるのか。 まさか、はじめて会ったときのように、電車内セックスはないと思うけれど。 中野を過ぎたあたりから、ぎゅうぎゅう詰めだった混雑が少し解消された。 黒澤の手は、美香のコートの下、ワンピースの裾をめくって太ももを撫でている。 男の固い怒張が、美香の下腹をつつく。 思わず、ひそやかに溜息をつく。 そうでもしないと、息がつまって苦しくなってしまう。 黒澤の、服の上からでもわかる逞しい胸板に頬を寄せてうつむく。 どれほど、こんなふうにじわじわと責め続けられるのか……。 ふと気がつくと、美香は左の腰あたりに違和感を感じた。 黒澤の手かと思ったが、彼の手は美香の右のウエストのくびれ部分をしっかりと 掴んでいる。 美香の後ろにいる、小太りの中年サラリーマンの鞄を持つ手が、その違和感の原因 らしかった。 その手が美香の左側の腰近くにあり、電車の振動によって、ときおり手の甲がかるく 触れる。 はじめは偶然だと思い、気にしないようにしたが、だんだんとその動きが意図的なものに 思えてくる。 手の甲を、美香の尻に押しつけるようにする。 さらに鞄の持ち方を変えて、手の指を彼女に向かって突き出し、指先でなで上げるようにも された。 美香があまりのことに驚き、声も出せずにいるのをいいことに、小男の手は大胆になっていく。 美香が息をつめて身体を固くしているのに気づいた黒澤は、彼女の耳元で「どうした?」と 小声で言った。 長身の黒澤から見ると、ドアの連結部、美香とほとんど背丈が変わらない中年男は死角に なって見えづらいようだった。 「私のお尻…私の後ろにいる人が、触ってくるの……」 美香も極めて小さな声で、黒澤にそう囁く。 瞬間、黒澤の目がすっとすぼまり、たちまち鋭い眼光を放つ。 見る間に険しい目つきに変わり、酷薄な印象の顔つきに見える。 「美香の後ろにいる、あのチビハゲか?」 うなずく美香の背後で、中年男の指が彼女のコート越しにまだ撫で続けてくる……。 「ずいぶん、面白いことしてくれるな」 黒澤が口の中で小さくそう呟くのを聞き、美香は耳を疑った。 思わず下から彼の顔を仰ぎ見る。聞き違えたかと思った。 だがその表情はいつになく真摯で、なにかただならぬ気配を感じさせる。 「もうすぐ高円寺だな……。もう少し、辛抱するんだ。そうしたら……」 ……そうしたら? 怖くて、聞くことができない。 そんな二人の密やかな会話も知らずに、まだ小男は美香の尻を触る。 嫌だ……。 あのとき、黒澤に痴漢をされた時には、最初こそ恐怖感はあった。 けれど、彼の巧みさに負けて身体を許した時は、こんなにも嫌な思いはなかった。 生理的に嫌悪感を持つ相手ではなかったからこそ、あんなに燃えることができたのか……。 恋人同士ではなく、痴漢されている女が、それを仕掛けている男に感じて抱きついていると 思われたのかもしれない。 複数の痴漢が同時に女性を狙う、というのも聞いたことがある。 この中年男は、そう思って美香に悪戯しているのかも、と思えた。 それもいやな気分だった。 「次は、高円寺、高円寺……」 アナウンスを聞くが早いか、黒澤は美香の身体の後ろに手を回してその男の手を捉えた。 まだその手は、美香の尻を撫で回していた最中だった。 「この野郎。この手はなんだ?ホームへ下りろ」 黒澤は痴漢の中年男を睨み据えると、思いきり低くドスの効いた声で男を威嚇した。 中年男は目を白黒させて、引きずられるようにホームへ下ろされていく。 慌てて、美香は多くの乗降客をかきわけてあとをついていく。 ホームの階段の陰、ベンチの近くに中年男の体を叩きつける。 「俺の女の尻に、汚ねえ手で触りやがって」 「あ……あんたも、お仲間じゃなかったの?」 小太りの中年は、目をきょろきょろさせながら、卑屈な調子で尋ねた。 「あの子に、触ってただろ。だから、てっきり……OKの子だと……」 この男の言うOKの子とは、痴漢に触られても暗黙のうちにそれを許す女性のことを 指す言葉だった。 激烈な怒りが、黒澤の身体から立ちのぼっていくのが見えるようだった。 「てめえと一緒にするんじゃねえよ」 吐き捨てるようにそう言うと、中年男の横のベンチに左拳で突きを叩き込む。 頑丈そうなベンチは、まるでベニヤ板のようにあっさりとヒビが入る。 「ひいいっ……」 情けない、獣じみた悲鳴が中年男の口から漏れる。 掴んでいたその男の右腕をぐいっとねじりあげる。 「ご、ごめんなさい……すす、すいませんでした……あ、わわ……」 「二度とできないように、叩き折られてえか?」 黒澤の狂暴な底光りのする目が、まるで視線自体に圧力があるかのように、男を 射すくめていた。 「今夜は時間がないから、これで勘弁してやるがな。次にそのツラ見たら、鉄警隊に ご厄介になる方がマシな目に遭わせてやるからな」 黒澤はそう言い放ち、踵を返す。 男は腰が抜けたようになりながら、這々の体で走り去って行った。 あっという間の出来事だった。 美香は二人から数メートル離れたあたりで見ていた。 時折足を止める人もいるにはいたが、黒澤は直接男を殴りつけたりはしていないので はたからはただの小競り合いに見える。 それでもやはり、人が少なくなったホームから駅員がやってくる。 「なにかありましたか?」 駅員が訝しがって黒澤に尋ねる。美香が黒澤の近くに駆け寄る。 「彼女が、さっきの男に痴漢されてると思ってたんですが……どうやら、こちらの勘違い だったようです。…どうもお騒がせしました」 黒澤の顔から、さきほどまでの昏く凶暴な表情は払拭され、平然とそう言って駅員に頭を 垂れて見せる。 「そうですか……」 駅員はそう言うとその場を離れていった。 すべてを横で見ていた美香は、なぜか黒澤の近くに寄ることもできずに、ただ男を責める 彼を見ていた。 美香が痴漢されていたのを知って、激しい憤りを露わにしてベンチまでも叩き壊した彼の 激情に、なぜか胸が熱くなっていった。 これでも多分、彼は抑えに抑えた結果なのだろう。 きっと、空手かなにか、格闘技の心得があるに違いない。 男を殴りつけたいのを我慢して、ああしたのだと思った。 こんな恐ろしげな一面を見せつけられたばかりでも、それが自分を護るためだと思えば 頼もしく思える。 けれど、男を恫喝する堂に入った調子は、一朝一夕で身に付くものではない。 これまでの黒澤の過去の行状の一端を、容易に想像させうる。 この力を、女には向けないだろうとも思った。 黒澤は美香の肩を抱くと、駅の外に向かって歩く。 「気が殺がれたな。……電車はやめだ。タクシーで行こう」 タクシー乗り場に着いている一台に乗り込み、運転手に「タウンヒルまで」と行き先を告げる。 車に乗って暫くすると、美香の身体は小刻みにふるえていった。 自分でも、なぜなのかわからない。 「怖かったのか?」 美香の頬を自分の頬に寄せるようにして、彼は囁く。 こわい……とか、多分そういうことじゃない。 強いて言うのなら、自分が興奮状態にあるのは確かだった。 こわいのは、痴漢されたことか、それとも黒澤のことか。 それとも……美香自身に対してなのか。 震える手を握りしめられ、肩を抱きしめられる。 「もう、大丈夫だからな。」 美香は何も言えずに、うつむいているだけだった。 「……俺が、怖いのか?」 黒澤は美香の顔を横目で見ながらそう問いかけた。 「すまなかったな……つい、カッとなっちまった。俺も他人のこと言えた義理じゃない のにな」 それきり、黒澤は美香の身体をぐっと抱きしめると無言になった。 どれだけ走ったのか、タクシーが止まる。 「ここでいいですか?」 「ああ、はい。ここで結構です」 黒澤が料金を支払う間に、美香は降りるように促された。 降りたった先は、瀟洒なマンションが建っていた。 美香の住んでいる小規模なマンションなどとは、格が違う。 いうなれば、億ションとでもいうべき豪華さが外観からも窺える。 エントランスのロビー一面に張られた大理石も、当然本物に違いない。 大きなエレベーターがある中央へ向かう。 10Fを押す黒澤の顔を、美香は不思議な思いで見つめた。 今日一日で、あまりにも多くのことがありすぎた。 初めて黒澤の事務所に行き、刺激的なセックスをする羽目になった。 そして二人で外で食事をとり、さっきの痴漢プレイの最中に本物の痴漢に遭い、それが 黒澤の逆鱗に触れたこと。 黒澤とプレートに書かれた部屋の鍵を開けて、扉が開かれる。 どんな部屋に住んでいるんだろう。 彼が玄関の電気を着けて、中へ入る。 「入れよ」 中の灯りを次々に着けて、黒澤は奥へと入っていった。 中は広々としていて、男が一人きりで過ごす部屋としては贅沢すぎた。 きちんと片づけられた書斎らしき部屋、そして大きな革張りのソファとテーブルのある リビング。 オーディオやビジュアル関係の機器の充実ぶりと、さまざまな種類のソフト。 ダイニングキッチンは、ほとんど自炊をしていないんじゃないかと思うようなそっけなさ だった。 一番奥の突き当たりには、寝室らしき部屋がある。 それを見たとき、美香の胸の高鳴りがいっそう激しくなる。 男の部屋に招かれるなんて、数えるくらいしかない。 前までつきあっていて別れた恋人は、社員寮に入っていたからほとんど外で会っていたし セックスもラブホテルか普通のホテルだった。 ましてこの男の部屋に誘われるなんて、予想もしていなかった…… 黒澤はどんどん奥へ入っていって、寝室の灯りをつけた。 コートを脱いでハンガーに掛けると、美香にも脱ぐように示した。 美香がコートを彼の手に渡すと、左の拳に血が滲んでいるのを見た。 「血が……」 思わずその手を取って、見つめる。 「このくらい、大丈夫だ」 「だって……」 拳には、俗に言う「拳ダコ」……空手などの打撃系格闘技を実践する者特有のタコが できている。 人差し指と中指の付け根の関節部分が、他の部位よりも明らかに盛り上がっている。 そこの皮膚が破れ、血が止まりかけている状態だった。 「心配してくれるのか?」 黒澤はベッドの端に腰を下ろし、美香の瞳を真顔で見つめた。 「それは……だって、痴漢から助けてくれたし……」 美香はいたたまれない気分で、彼の視線を外すように顔を伏せた。 「水で洗って、消毒した方がいいわ」 「こんな傷、大丈夫だから。板の試割りとは要領が違ったからな」 「空手とか……やってたんですか?」 美香はそのことを訊いてみたかった。 「……ああ。昔、な……」 返答に、一瞬の躊躇が窺えた。 何か、触れてはいけない部分に迫ってしまったのか。 「凄いのね。あんなこと……」 「今は、なまっちまって駄目だな。咄嗟のことで、力を入れすぎた」 それは、嫉妬の感情からきたものなんだろうか。 キスマークで示された通りに、美香に対する黒澤の支配欲、独占欲ゆえの行動だったのか。 「そんなこと、いいから……」 立っている美香の腰を抱き寄せ、あっという間にベッドに寝かせる。 「あっ……!」 すぐに身体の上に、彼が覆い被さってくる。 視線が絡まりあうと、黒澤は美香の唇を奪いにきた。 「ん…………」 最初は唇を軽く合わせるだけの、柔らかなキス。 でもそれが、だんだんと深い口づけに変わっていく。 美香の唇を男の舌が割り、待ち受けている彼女の口を開かせる。 今日も、すでにこのキスだけで美香は立てなくなるほど感じさせられた。 どうして、この人は……こんなにすごいんだろう。 こうして舌が唇の中に入り込み、蠢くだけで……腰の奥、美香の身体の深い部分を 甘くとろけさせ、蜜を湧き起こさせる。 もともと敏感な美香の身体を、刺激的な性行為の連続で責め苛んだ。 黒澤自身がセックス巧者なのだということと相まって、途方もない快楽の坩堝の中で 溺れていきそうになる。 抜け出せない、甘美な罠のただ中にいる。 快いと思えるものの誘惑を断ち切るのは、まだ美香には難しすぎた。 唇が離れると、美香はうつぶせにされた。 長い艶やかな髪をかきわけられ、首のすぐ下に位置するワンピースのジッパーを探り当て られる。 黒澤はそのジッパーの金具を唇にはさみこむと、器用に下に引っ張っていく。 ジーッという小さな音とともに、彼の唇が背中に触れていくことで、美香はそのことを察した。 背中も感じやすい彼女は、そんなことをされていると知って思わず声を漏らしてしまう。 「ああ……。あっ……」 |