第3章 6 復讐

第三章 5へ

第三章 6の2へ

エントランスへ




それからのことは、美香はぼんやりとしか覚えていない。
最初の衝撃的なレイプは覚えていたが、その後はとぎれとぎれだった。
船村に続けざまに犯され、幾度か射精されたことはおぞましい記憶として
わずかに残されていた。
確か、身体にかけられたこともあったかもしれない。
ただもう、それが美香の見た淫夢だったのか、現実に起こったことだったかの
境目もあいまいになっていた。


大好きだった、祖父が突然亡くなった昨年もそうだった。
葬儀の時も、埋葬の時も……幾度も、悪夢の中にいるようだと思った。
実際に祖父が生き返るリアルな夢も何度も見たし、そのたびに涙した。
精神的に不安定になり、動悸と不眠を訴えると、精神安定剤を貰った。
それでも眠れずに苦しんだ、あのときのように。





気がつくと、八巻の車の中にいた。
八巻にどうやってあのマンションに入ったのか、と尋ねたら新聞勧誘員が
マンション内に行くのにまぎれて入り、発煙筒を仕掛けて火災報知器を鳴ら
したのだと聞いた。
火事だ、とドアを叩く彼に仰天した船村が応対に出て、もう身体が動くように
なっていた美香が、その隙に下着もつけずに服だけまとい、出てきたのだ。
荷物はどこなのか探している間はないので、置いていった。
そして八巻に抱きかかえられるようにして、表へ出たところまではおぼろげに
記憶している。


八巻が、無言のまま美香を彼の住むアパートに送り届ける。
美香の自宅の鍵も、黒澤に貰った合い鍵も、鞄に忘れていたからだ。
もう夜の6時近くになっていて、あたりは暗く、寒さも迫っていた。
そのとき、服のポケットに入れてあった美香の携帯が鳴った。
ビクッ、と彼女の身体が震える。
音楽は、黒澤からの着信を示していた。
「所長から?」
うなずく美香は、なるべく平静を装うために深呼吸をして電話に出た。
「もしもし?」
黒澤の声が幾分明るく響いてくる。
「終わったの?」
「ああ、今もう出るところだ。どこか行きたいところはあるか?」
「……あなたの家に、行きたいの。ごめんなさい、鍵を……なくしちゃった」

語尾が震える美香の手から携帯を受け取り、八巻が代わりに答える。
「すみません、所長。今美香さんから連絡があって。僕が彼女を送って
行って、合い鍵で開けますから」
「そうか。それじゃ、頼む」
電話は切れた。

「僕は外で待ってるから、身体を洗って。終わったら携帯に電話して」
八巻はそう言うと、自室から外へ出た。
殺風景な荷物の少ない部屋の玄関近く、狭い浴室に入る。
若い独身男性の部屋にいるのに、なんの感慨も湧かない。
美香はのろのろと服を脱いだ。
ブラもつけず、素肌にセーターとスカート、そしてパンプスなのにストッキングも
つけていない。

コートには、たまたまもしものための予備の財布と携帯が入っていたが、
その他の荷物は、おそらくは船村の家に置いてきたままだった。
黒澤の電話番号を書いた紙も、彼の名刺なども財布と共に鞄に入っている。
美香の男が黒澤であることも、きっと船村に知られる。
その後を考えるのも面倒だった。

美香はシャワーを浴びた。
船村に汚された痕跡が、美香の身体のあちこちに残っている。
夢ではない。
ショーツの内側に、汚らわしい、憎い男の精液がこぼれていた。
股間を何度も洗い、シャワーをそこに浴びせ、幾度も幾度もボディソープで
洗い清め続けた。
肌が赤くなるほどに擦り続けても、船村の残したキスマークがくっきりと
あちこちに残されている。
もう、涙も出てこない。
悲しさよりも、悔しさよりも、沸々と煮えたぎってくるものがある。
純粋な、怒りの衝動が湧き起こる。


復讐してやる……。


この身体を汚してくれた代価を、必ず支払わせてやる。
黒澤に愛された身体を、あの卑劣で醜悪な本性を現した男に陵辱された。
美香のたおやかな身体に潜む、どす黒い思いが身体を沸騰させていく。

今に見ているがいい。
思い知らせてやる。
黒澤に手伝わせてでも、どれほど汚い手段を使ってでも、死ぬ方が
ましだと思えるようにさせてやる。

そんな思いを心の奥に押し隠して、あくまでも外見は清純な女に装う。



美香は、八巻の携帯に連絡する。
すぐにアパートを出て、二人は車で黒澤のマンションへ向かう。
彼女を無事に送り届けると、八巻は「一緒にいた方がいい?」と
美香に尋ねる。
「ううん……ひとりで待つわ。大丈夫よ」
言いながら、微笑んでみせる。
「……俺がこんなこと言うのも、なんだけど……」
八巻が頭を掻きながら言った。
「所長、ああいう人だから……なかなか本心が見えなくて、戸惑うかも
しれないけど。でも、美香さんに惚れてるの、俺でもよくわかるから。
見ててわかるから」
美香の様子を見て、レイプのことには触れず、朴訥に、懸命に語る青年に
改めて好感を抱く。
「ありがとう……八巻さん。心強かった」
「もし、何かあったらいつでも電話して。相談に乗るから」
「ええ。ありがとう」


ドアを閉じると、美香は泣いたのと、シャワーを浴びたせいで化粧が落ちて
しまった顔を、せめてメイクし直したいと思った。
口紅一本も持っていなかったから仕方ないし、途中で予備の財布で買おうと
いう考えが浮かぶ余裕もなかった。
鏡を見ると、化粧気のない顔は蒼白になっているのがわかる。

唇を噛みしめすぎて、血が薄く滲んでいる。
あからさまな暴力こそ使われなかったものの、卑怯な手段で美香を弄んだ
あの男。
薬物を飲まされて犯されるということが、ある意味暴力に訴えるよりも狡猾な
ぶんだけ、憎悪は増した。

決して赦さない。
その決意が、美香の下唇を赤く染めていた。
薄く化粧をし直し、服を部屋着に着替えて、外見はなんともないように装う。

天井を仰いで玄関先に座り込む。
夢も見ることなく、眠りたい。
家から持ってきた精神安定剤の袋を眺める。
こんなもの、喪失の苦しみになど効きはしない。
それでも、気休めになるかと思って一応持ち出してきた。

こんなところに座り込んでいたら、黒澤が帰宅した時に変に思われる。
でも、いずれは裸に剥かれたらわかってしまうことだ。
生理だと偽ってしまおうか。
そうなると、一週間も早く来てしまうことになる。
この前黒澤に言っていたことと矛盾が生じる。
下手な誤魔化しは、あの鋭い男に通じる訳もない。
嘘はやめて、正直に……正面から、黒澤と向かい合いたい。


まもなくドアホンが鳴り、黒澤と確認してドアを開ける。
「ただいま……やっと帰ってこれたよ」
「……おかえりなさい」
玄関先で、いきなり抱きしめられる。
美香は胸がつまって、つい涙がこぼれてしまいそうになる。

「どうした?寂しかったのか?」
美香の潤んだ瞳を見て、黒澤が頭を撫でてくる。
「……ええ。ごめんなさい。黒澤さんの、顔……見たら……」
美香はとめどもなく、涙をこぼす。
しばらく無言のまま、外出着のレザーコートを着たままの黒澤に抱きついて
ひとしきり泣いた。
「何かあったのか?」
さすがに黒澤は美香の不安定そうな様子を怪しんで、そう尋ねる。
言わなければならない。
今日、この身になにが起きたのかを。

「とりあえず、着替えてシャワーだ。それからゆっくり話を聞こう」
クローゼットは寝室にあるので、美香も黒澤のあとを追って入る。
着替えの服を出して、風呂場に入っていく。
黒澤が出てくるまで待つ間が、とても長く感じてしまう……


あのことを話したら、黒澤はどう反応するだろうか。
薄汚い中年の痴漢男に美香が触られた時にさえ、あんなに怒りを露わに
していた。
ましてや、美香が受けた辱めを知ったら…………

怒るだろう。
激怒のあまりに、彼が何をするのかわからない。
美香に手をあげることなどはないと思う。
でも、その怒りの矛先が、八巻に向かわないとは限らない。
結果的に美香を護れなかった彼を、黒澤が叱責するかもしれない。
それも、ただそれだけでは済まない気もする。
そうなったら……

自分の身に起こったことは、終わったことだから仕方ないとしても。
これから先に巻きおこるだろうさまざまな事態を考えて、美香の気分は
重くなった。


やがて、黒澤がシャワーを終えて出てくる。
「美香も入るか?」
「いえ……いいの。私はもう、浴び終わったから……」

全裸のままで水滴を拭う彼の裸体を、改めて美香は惚れ惚れと見つめる。
180センチの長身に、鍛え上げた逞しい筋肉の束が浮き出ている。
ボディビルダーのような、不気味さを覚えるほどのものではなく、あくまでも
自然と発達していった、バランスのいい体つきをしている。
脚もすっきりと長く、格好もいい。
男性の裸身を、これほど美しいと思ったことはなかった。

ひきかえ、船村の痩せているくせにぶよついた身体は……

そして、今の美香の身体に残る、醜い痕跡は……

そんな惨めな考えに辿り着いてしまう。


「なんだ?そんなにまじまじと見て……」
黒澤は少し照れたような微笑を浮かべた。
ブリーフだけをつけた半裸になって、黙っている美香に近寄り、抱きすくめて
キスをしてくる。
「俺だけ見られるんじゃ、不公平だな」
美香をソファに押し倒して、セーターの裾を剥ぐ。

知られてしまう……
美香はスリップを捲る黒澤の暖かな手の感触に、目を閉じた。


「……これは、どうしたんだ?」
黒澤の声が、固くこわばっている。

美香の身体に無数に残る、忌まわしい赤痣を見ていることがわかる。

黒澤の問いかけに、美香は潤んだ瞳を開けた。
「……犯されたの」
震える声で短く言う美香の声を聞いて、黒澤は瞬きもせず彼女を見つめた。
「誰に?」
不気味なほど静かな黒澤の声が、彼の内部で湧き起こる変化を押殺しようと
しているのを感じる。

美香は唾を飲み込むと、いっきに口を開いた。
「私の店に来る常連のイラストレーター。商品の説明をしてる途中で、口移しに
薬を飲まされて。……気がついたら、そいつの家で……」
「八巻はどうした?あいつには、おまえの勤務先を張らせてた筈だ」
相変わらず、低い声で美香に質問する。
「……車で追ってきて、発煙筒焚いて、火災報知器を鳴らしてくれたわ。
一軒一軒まわって、船村の部屋にも来たの。その隙に、逃げて来れた」
「…………そうか」
レイプが実際に行われてしまったのは、美香の身体を見れば明らかだった。

「あいつが、私の家に繰り返し電話してたのよ。ビデオもそうだったのよ。
自分でそう言ってたの。私のこと、弄びながら……」
「やめろ!」
黒澤の鋭い声が、美香の自嘲気味の言葉を遮る。

「やめろ。聞きたくない」
声を落として、美香の目から視線を逸らす。
それでも、もう一度美香を見つめて唇を合わせる。
彼女をしっかりと抱きしめて、しばらく二人は無言のままでいた。
黒澤の身体のぬくもりが、美香の傷ついた心を少し癒してくれる気がした。

美香の身体を離すと、「着替えてくる」と寝室に入る。
彼女は大きく溜息をついた。
今朝ここにいた時には思いもよらなかった、美香を襲った突然の災い。
だがストーカーが船村とわかった今は、逆に見えない相手ではなくなった。
敵の正体がはっきりとしたからには、反撃を仕掛ける目標が絞れる。
得体の知れない相手ではないから、もうやたらと人を疑わずに済む。


「護れなかったな」
シャンブレーのシャツと、淡い水色のジーンズを穿いた黒澤がベッドに座って
ぽつりと呟く。
「……だって、あなたは裁判所に呼ばれてたし……」
仕方ない、と言いかけた後でしまった、と思った。
これでは黒澤を非難する意味にとれてしまう。
「……こんなことなら、あんな依頼を受けるんじゃなかった……。
裁判に持ち込むように進言したのは俺だ。それが、結果的におまえを
護ってやれることができなかったんなら……」
黒澤は、肩を落として手で頭を抱える。
やっぱり、彼は自分を責めてしまった。

「まさかこんなに早く、そんな強硬手段に出るとはな…。どこかがおかしい。
よほど、早く手に入れたかったんだろう」
美香は船村の「男がいたとは知らなかった」という言葉が思い出された。
そのことを言うと、黒澤は「やっぱりな」と言って黙りこくった。

自宅を三日間も空けて、やっと帰ってきたら、自分の職務上の理由で彼女を
保護できず、美香はストーカー男に拉致され、陵辱されていた。
黒澤の受けた衝撃も、相当に強いものだろう。
「そいつの名前、なんて言った?」
美香の顔を見上げて、黒澤は訊く。
「イラストレーターの、船村誠一。女性誌とかで一部で有名なの。……店で、
何度か……セクハラまがいのこと受けてたわ。今になって考えたら……」
「名前は聞いたことはあるな。ツラもどっかの写真で見た覚えがある」

黒澤は、美香の方を見ずに一人で考えを巡らせているようだった。
「住所とか、わかるか?部屋は何号室とか……」
「八巻さんは、知ってると思うわ。追ってきてくれたから」
そう言ったあとで、慌てて黒澤に告げる。
「八巻さんのこと、責めないで。来てくれなかったら、今も逃げ出せなかった
かも……。部屋の番号がわかったのも、火事だってでっちあげてくれた
おかげなんだから」
「わかってるさ。ああいう、ちっと名が売れてる勘違いの手合いは、
表札も出さないもんだ。だから、部屋番号がわからなければ、110番も
119番の嘘電話もできない。その部屋に踏み込んで行けないからな。
……状況からして、それが最善策なのはわかってる」


こと、ここに及んで冷静に分析をしている黒澤を見て、美香の心中は
複雑だった。
もっと、怒り狂うかと思っていた。
嫉妬していることすらも、さほど表に出していない。
この男の感情を乱すほどの存在ではない、とでもいうことか。
そう考えると、美香は脱力感に襲われそうになる。


「……そうか。社会的地位のある野郎ってことだな」
顔を上げた黒澤の眼が、凄絶な光を帯びている。
「なら、叩き潰し甲斐がある。裏の手を使って、徹底的に追いつめてやる」
報復を宣言する低く掠れた声音は、紛れもない苛烈な怒りに彩られていた。
美香は、黒澤に危険な影が潜んでいることをやっと理解した。
「無理はしないで……」
黒澤の手をとって、彼の膝下に座る。
「無理?……無理なんかじゃねえよ。このままじゃ、俺の気が済まねえん
だよ。探偵としても、おまえの男としても」
唇は笑いの形を作ってはいるが、彼の目は決して笑ってはいなかった。


「あの糞野郎が、俺のプライドを見事に粉々にしてくれたよ。おまえのため
でもあるが、これは俺の意地でもあるんだ。俺を怒らせてくれたからには、
それ相応の礼をさせてもらうぜ……」
喉の奥から絞り出すような、サディスティックな笑いが漏れる。

「下衆な変態野郎には、俺が本当はどういう男なのか、思い知らせてやる。
二度と女に悪さが出来ないように、片輪にでもしてやるか」
凄惨なセリフを吐きながら可笑しそうに笑う彼の目は、今までに美香が見た
こともないほどの凶悪な光を帯びているようだった。
「おまえはどうしてほしいんだ?ご希望に添うぜ」
薄く笑いながら、座り込む美香の顔を見る。
「あなたのやり方に、任せるわ」
美香は黒澤の中の凶暴な部分に畏れを抱きながらも、さらりとそんな
言葉を言ってのける。
暴力を使って報復するというなら、望むところでもある。

復讐を謀議する二人の男女は、これまでとは違った形での結びつきを
強めることになる。
すなわち、共犯者として。
誇りを傷つけられ、恋人の身体を汚されたこの男の反撃は、どういう
形をもって始まるのか。
美香もまだ知らない、この黒澤という男のもう一つの顔が現れようとしていた。




よく映画や小説の中で、犯されて汚された女の身体を、恋人や夫が
抱いてくれようとせず、レイプ被害の女性がますます傷つくというのを
繰り返し見たことがある。
黒澤は、それでも美香を抱こうとしてくれた。
でも、身体に残る、汚らわしい瘢痕を見られたくもなかった。
それに生理の前で、性欲が低下していることもあった。
よく本などに、生理前になると欲求が高まる女性が多いという記述がある。
美香は生理の後、排卵日前後の危険日に向かっていく時期にこそ、
それこそ危ないほど欲情が高まる。

エロティックな刺激を受けているわけでもないのに、自分の意志とは
無関係に、本当に無意味に濡れてきたりする。
黒澤と会うまでは、自分好みの男をその期間に見ただけで、反射的に
抱かれて悶えている自分を想像してしまったりもした。
女性ホルモンの成せる業なので、その時期を過ぎれば落ち着いていく。
けれど、それがわかってくるまでは……二十歳を過ぎて身体が女として成熟
していく時期に次第にそうなりはじめて、かなり美香は戸惑いを覚えていた。

生理直後の欲情している時期にだから、黒澤の責めに激しく反応したのか。
でも、たとえ相手が船村だとしても、黒澤に対するようには絶対に
なれなかっただろう。
黒澤が、セックスのテクニシャンとしてだけの男ではなく、美香にとって
好ましい面を次々に見せてくれたからこそ、好きになれた。
セックスから始まる恋愛というものがあれば、今この二人の間こそが
そうだと思った。

美香は疲労とショックから、ベッドに横たわって黒澤に抱きしめられて
いても、頭の芯が冴えて眠れない。
真っ暗になるのが恐いから、ベッドの側の灯りをつけていてもらう。
「ね……黒澤さん」
「ん?どうした?」
穏やかな声でそう言うと、美香の背中を撫でてくれる。
「眠れないの。……お酒、飲みたい気分なの。貰ってもいい?」
「俺もつきあうよ。たまには一緒に飲むのも、いいな」
黒澤は、優しい笑顔で美香を抱き起こす。

美香が好きな杏露酒と、それを割るためのサイダーも買ってある。
「あ、これ…いつの間に、ちゃっかりキープしてたんだよ」
黒澤が冷蔵庫からそれを見つけて言う。
「だって、私そういう甘いのじゃなきゃ駄目なんだもん。あなたは、そういう
甘いのは嫌いでしょ?」
「ああ、俺はそういうのは駄目だな。辛めのがいい」
自分も水割りを作りながら、黒澤と美香は酒談義を始めた。
「幾つくらいの時から飲んでたの?」
「さあ、高校くらいからだったか……よく覚えてないな」
「高校生…男の子は、たいていそのくらいよね。でも私は、未成年でいる
うちには飲む機会がなかったけど」
美香が真面目な顔つきで言うのを、黒澤が小さく笑って返した。

「今時未成年だからって、飲まない奴なんかいねえよ」
美香の言葉に呆れたように笑いながらそう返す。
「私は二十歳まで、飲まなかったけど…おかしい?」
「おまえの場合は飲まない、じゃなくて飲めない、だろう」
とりとめのないことを話しながら、適当につまみをとりながら飲む。
「そういえば、黒澤さんてお酒強いけど、タバコはやらない人なの?」
今、ふとそんなことを思いついた。
「昔は興味本位で手出したこともあったけどな。男なんて、そういうこと
やらない奴の方が珍しいだろう。よくある悪ふざけだよ」
「タバコふかしてるイメージが、似合いそう」

黒澤はふっと笑った。
「で、何か?右手には拳銃で、レイバンのグラサンかけてるのか?」
「ああ、そういうのもね…すごくサマになりそう」
美香はそれを想像して笑った。
「大藪の読み過ぎだ」
黒澤も苦笑を浮かべながら酒をあおる。
「あら。だって、そういうのに憧れて探偵さんになったんじゃないの?」
美香は興味津々で黒澤に質問を浴びせていった。
「別に憧れとかでなったんじゃないよ。なるべくして、というか……
これしかなかったから、なったんだ」

「いくつくらいの時から、続けてるの?」
「いくつ……だったかな。25……いや、26くらいからかな」
「それなのに、30歳の今所長さんなの?部下の人たちを使う身分なんで
しょう。よほど有能な探偵さんなのね」
黒澤は、美香の賞賛の声を途中で遮る。
「有能なんかじゃない。俺は無能だ」
吐き捨てるように言葉を投げる。
「自分の女を、変態ストーカー野郎から護ることもできない。どうしようもない
……無能だよ。そんなことを言うな」

美香は、彼の表情と声に苦渋が滲んでいるのを感じた。
苦しいのは、自分だけじゃない。
彼もまた、美香に好意を持っていてくれただけに、彼女の身に起きたことを
知って苦しんでいる。
普段はあまり表情を崩さない彼の、こんな姿を見たのは初めてかもしれない。
冷静さを保っているのも、表面上のことなのかもしれない。
さきほど、船村に対しての憎悪を露わにした顔も見せつけられた。
深い闇の中に二人、沈んでいる気がしていた。
明るく、なにげなく振る舞おうと空々しくしていることもできなくなる。

重い沈黙が二人の間に流れて、美香は何も言えなくなる。
言葉をかけるのも、しらじらしくなりそうだった。
抱きつこうか、それともどうしようか、迷ったまま美香は椅子に座っていた。


美香の沈痛な面持ちを見て、黒澤が口を開く。

「すまん。酔ったな……これしきの酒で。情けない……」
美香に向かって微かに口だけで笑いを作って見せる。
彼女はそこで、ぐっと酒を煽って飲む。
「ばか、無茶するなよ…自分のペースがあるだろう」
慌ててそういう黒澤の胸に、ぎゅっとしがみつく。
「どこにも行かないで……そばにいて。離れないで……」
美香はそれだけ言うと、顔を上げることもできなくなって静かに涙をこぼす。
「行かない。俺はここにいる。美香、おまえの側にいる」
黒澤は彼女を抱いたまま、穏やかな声でそう言った。
彼女をなだめたり慰めるときにするように、大きな掌で艶やかな髪を撫でる。

けれど彼の目には、どことも知れない虚空を眺めているかのような暗い
光が宿っていたことに、美香は気づかなかった。




そのまま、二人は酔いにまかせて眠りに落ちる。
美香が途中で目が覚めてしまっても、黒澤は起きて彼女を抱きしめた。
彼女が家から持ってきた安定剤を飲みたいと言っても、彼は特に反対も
しなかった。
規定は一錠だけでも、祖父の死んだ夜と次の夜に一錠ずつ飲んでも
効きもしなかったので、二錠飲む。
こんなものに頼るのはよくない、とわかってはいても、やりきれない。
美香の処方された薬は、妊娠の可能性のある女性が飲むと胎児に
奇形や早期流産を起こす危険性があると、医師に言われていた。
言い換えれば、それほどのリスクが身体に及びかねないというのだろう。
でも今の彼女には、妊娠の可能性などない。
あと一週間もすれば、次の生理が訪れる。
だからこそ、あえて黒澤に安全日と示唆したし、それを受けた彼の要望
……膣内射精にも応じた。

あのときには、黒澤の身体の分身といえるものが体内に注がれるのを
はじめての感覚とともに、素直に嬉しく思えた。
あとからわずかに、彼のものが混じったものが流れ出て、そのことも照れを
感じながらも、美香には喜びだった。

それなのに……

船村には、薬の作用で眠らされ、しかも身体の力を奪われていた。
そのくせ快感を増幅させるものを選ぶあたりが、逆に美香に対する自信の
なさを表明していると思える。
自分の力の及ばない、なびかない女を屈服させるために、卑劣極まりない
手段を平気で使う。
美香が本能的に品性の下劣さを感じ取り、船村を避けていたのは間違い
ではなかったのだ。
快楽はあっても絶頂に達することはなかったし、陵辱されていた美香の
心の中は、悪逆な男に対する憎悪の業火で満たされていた。


汚されただけでなく、美香にひどく執着する船村は、美香の身体が少しずつ
自由を取り戻しかけているのを知ると、二度目の射精を終えた後、美香を
縛ろうとして、そのうえ秘毛を剃ろうとまでしたのだ。
そのことをわざわざ告げながら、怯え嫌がる美香の心まで弄んだ。
剃ったあとには美香の画材店で以前買った筆まで出して、それを挿入して
やるとまで言われた。
身体に汚液を出したあとは、それで塗り広げてやる、とも。

八巻が来たのは、そうやって言葉でじりじりと嬲られている最中だった。
船村が、火事だと言って激しくドアを叩く八巻にガウンを身につけて
応対している隙に、美香はドアの向こうにいるのを八巻と確認して
セーターとスカートをようやく身につけて飛び出した。

美香はレイプの直後には動転して忘れていたことを、今になって思い
出してしまった。
激しく言葉を叩きつけながら、黒澤の胸にしがみついて、涙にむせび
ながらもそんなことを言い続けた。
黒澤は黙って美香の激情にまかせた告白を聞きながら、拳を握りしめた
まま、その手を震わせていた。
今は、耐えるしかなかった。




翌日、美香は黒澤と彼の愛車で連れだって彼の事務所に行った。
本当なら仕事の依頼も一段落して、休日として二人で過ごす筈だった。
けれど、美香の身に起きた惨事の原因を探り、そのことに対処しなくては
ならない。
黒澤は事件の経過を八巻から聞き取らなければならなかったし、美香が
ついてくるということには難色を示した。
けれど美香が一人きりになるのを嫌って、「どんな話を聞かされても
いいから、とにかく黒澤さんの側にいたい」と強硬に主張したのだ。
自分について、ひどいことがあったのは昨日知ってしまったから、と。
黒澤は嘆息して、八巻に協力を求める電話をかけた。


八巻が美香の兄と偽って画材店の社員宅に電話して、美香が拉致される
に至った様子を…彼らにとって、船村が親切心から病院に付き添ったという
認識でいることを知った。
それを詳しく聞くとともに、美香の手荷物は由理が船村に手渡したことも
知ることになった。
やはり美香の鞄や自宅と黒澤の部屋の鍵は、船村が握っていることになる。
それに美香は動転して気づいていなかったが、黒澤に貰ったネックレスも
いつのまにかなくなっていた。

昨日の、拉致される前までは確かに身につけていた。
美香を犯す際に、船村が奪い取ったのか。
手荷物を返すのと交換に、また美香を脅して身体を奪うつもりなのかも
しれない。
とにかく、美香はこのまま家に帰るわけにはいかなかった。
自宅の鍵を替えるように大家に頼み……ピッキング防止錠に替えるように
口実も作る。

八巻から事件の経過の詳細を聞き、船村のマンションの部屋も、そして
車のナンバープレートも判明しているのでその調査。
住所が判明すれば電話番号も、そして最近の携帯を持っていれば、番号
すらも容易に調査できる。
そのことを美香は初めて知り、同時にそんな仕事が探偵の調査であっけなく
たった数時間から一日でわかってしまうことに驚いた。

「必要とあれば年収も、納税額も、犯罪歴も照会できる」
黒澤は皮肉な笑いを漏らしながら、美香にそう言った。
「……どうして、そんなことまで簡単にわかるの?」
美香はあっけにとられながら尋ねた。
「各界に、いろんな協力者がいるからさ。大きな声じゃ言えないけどな」
意味深な笑みを浮かべたまま、そんなことも告げる。
「世の中、秘密を守れる清廉な人間ばかりじゃないってことだ。……俺は
違うけどな。守秘義務ってものがある。医者とかだって、そうだろう」
彼女はどう答えたらいいのかわからなくなって、ただ目を瞬かせた。


結局、現時点で知ることのできる情報を得る頃には夕方になろうと
していた。
「休日出勤させて、悪いな。片づいたら、ゆっくり遊びに来いよ」
黒澤は八巻にそう言った。
「ええ、じゃあお言葉に甘えて。愛の巣にお邪魔させてもらいます」
八巻が笑いながらそう返した。
黒澤は、最後まで八巻を責めることはなかった。
八巻も負い目を持っていることを知っているし、なによりも、心底では
黒澤は自分自身に怒りを感じているんじゃないか、と美香には思える。
それが正当に、この惨禍を起こした犯人、船村に向かっていくのは火を見る
よりも明らかだった。

あれから……口にこそ出さないが、黒澤の眼が異様に鋭く光っている時が
感じられる。
あくまでも、表面上は穏やかさを保っている。
それが逆に、嵐の前の静けさにしか思えない。
美香は、自分の側にいるこの男の激しい感情の発露を見たい、とまで
思ってしまう。
本当の黒澤の……激情を剥き出しにした姿はどうなのか。
それから、二人の関係がどう変わるのか。
とても恐い気がする……
それでも、知りたいと思ってしまう。


第三章 6の2へ

第三章 5へ

エントランスへ




E-list BBS Search Ranking Bookend-Ango Go to Top

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!