「一人で座れるか?」
肩に担いだスパイクを、慎重に支えながらベッドに腰掛けさせ、ジェットは聞いた。
「大丈夫だっつの…同じ事、何度も言わせんなョ」
軽口を叩くスパイクの顔色は、まだ青ざめている。
ジェットはクローゼットを開き、中からバスタオルを取り出すと、スパイクの横に腰掛けて服を脱がせ始めた。
カッターシャツはおろか、ジャケットやスラックスまで、汗を含んで濡れている。
「……」
全裸になったスパイクの身体を、ジェットは黙ってバスタオルで拭いた。
細い、しかし必要な筋肉をしっかりと纏った、スパイクのしなやかな身体。
ジェットはもう幾度も、この身体を愛してきた。
スパイクが悦ぶ場所も、好むリズムも、恐らく殆ど知っている。
だが、それを知っている者が自分だけではないという事実に、ジェットは胸がジリジリと焼かれるような心地になった。
スパイクが過去に、誰と付き合っていたのかとか、何人と関係を持ったのかとか、そんな事に拘るつもりは毛頭無い。
しかし、ネットの世界でとは言えど、スパイクの身体を抱いた者が居る。
恐らく…ジェットが知っているスパイクの場所やリズムと、同じものを知っている相手が。
ジェットはスパイクの汗を拭きながら、あの時スパイクの身体に刻まれていた、深い刀傷を思い出す。
怪我の手当てをするジェットには、その刀傷はまるで、ヘビーなキスマークに見えていた。
過去に拘るつもりは無い…が、スパイクにとってもビシャスにとっても、互いの関係はまだ「過去」には成り切っていないのだ。
表面上はそ知らぬふりをしていても、スパイクとビシャスの事を考えると、やはり心中は穏やかではなかった。
今度はいつ、その男に死線を彷徨わされるハメになるんだ?
いつかそいつに、スパイクを「あっちの世界」に持ってかれちまうんじゃねぇのか?
しかし、スパイクはいつも自分の意思でそこに行こうとする。
俺は一体、あと何度ぐらい…こんな思いをしてコイツの帰りを待ってなきゃいけねぇんだ…?
スパイクの自室に落ちる、重い沈黙。
それを先に破ったのは、スパイクの方だった。
「…解ってるんだな」
妙に確信めいた、主語を持たぬ問い掛けに、だがしかしその意を瞬時に解して、ジェットの心臓がどきりと鳴った。
「何の事だ」
汗を拭き終わったタオルを床に置いて立ち上がり、再びクローゼットの中をまさぐりながら、気付かぬ振りで問い返す。
「オレがネットん中で、どうなってたか…だよ」
「……」
知らない、と返す事は簡単だ。
何も聞かなかった。何も見なかった。
そうはぐらかす事は、簡単だ。
わざとらしいとしても、はぐらかした方が良いのかもしれない。
スパイクも、もしかしたらその方がホッとするのかもしれない。
だが…スパイクの辛さを、スパイクが受けた仕打ちを、ジェットは例え嘘だとしても、自分の中で無かったことなどにはしたくなかった。
スパイクの苦しみから目を逸らすような真似だけは、したくなかった。
「解ってるんだろ?」
「…あぁ」
スパイクの下着とシャツと短パンを取り出しながら、ジェットは小さく答えた。
ジェットの返答に、スパイクが小さく息を飲む気配が、背中越しに伝わってくる。
「ほら、着ろ」
傍に歩み寄り服を差し出すが、スパイクはベッドの上に腰掛けて俯いたまま、それを取ろうとはしない。
「どうした、早く着ねぇと風邪引いちまうぞ」
つい、と、スパイクが顔を上げて、目の前のジェットを見つめる。
悲しげな表情を湛えたオッドアイが…そこには在った。
口元には、静かな笑みが浮かんでいる。
「…明日の朝にでも、この船を降りる」
「…ンなっ…!!??」
突然のスパイクの言葉に、ジェットは思わず声を上げた。
船を…降りるだと!?
「今まで、世話んなったな」
「スパ…ッ、お前…何言って…」
愕然と自分を見下ろしているジェットに、スパイクは表情を変えないまま答える。
「いくらネットん中でとは言え、他のヤツに抱かれてるところなんて見ちまったら…。
今までと同じ気持ちでオレと一緒に居る事なんざ、出来ねぇだろ…?」
変わってしまう事が恐ろしい。
そこにあった幸せが、まるで全てニセモノだったかのように崩れ去っていく瞬間が。
絶望的なまでの、深い喪失感…そんなものは、もう二度と味わいたくない。
そんな思いをするくらいだったら、それを感じる前に此処を去ろう。
そして、あの陽だまりのような毎日を、夢のようにいつまでも、自分の中に残しておこう。
今までと同じだ…醒めない夢を、見続けるだけ。
「スパイク……」
ジェットは、孤独と悲哀に満ちたオッドアイを、瞬きもせずに見つめた。
今までにも幾度か見た…深く、凍えるように寒い暗闇の中に、自虐的な笑みを浮かべながら甘んじて入っていくような、その眼差し。
しかし、ここまで辛そうな表情は、過去にたった1度しか見た事が無かった。
『オレは一度死んだ人間なんだ』
3年前、そう言って小さく笑ったスパイク。
ジェットは、その笑みの裏側に、スパイクの心にぽっかりと空いた大きな穴を見たような気がした。
今までに沢山の人間と出会い、別れてきたジェットだったが、こんなに寂しそうな顔をする人間に遭ったのは、初めてだった。
スパイクの抱く「影」の部分を垣間見て、コイツは何か大切な、大きなものを無くしたんだと、直感的に思った。
放って置けば、あっという間にのたれ死んでしまいそうな、絶望と死の匂いを纏い付かせたこの男を、ジェットは咄嗟に「守ってやりたい」と思った。
こんな目をするコイツを、やり場の無い気持ちを、受け止めてやれる場所が必要だと思った。
なんという思い上がりだろうかと自分でも呆れ返ったが、もしも自分がコイツにとって、そんな居場所になってやれればと思った。
……ジェットがスパイクを「拾う」きっかけとなったその時と同じ目を、今のスパイクはしている。
言葉を失っているジェットを見て、スパイクは心臓を錆付いたナイフで抉られるような心地になった。
変わらないものなんて無い。その「現実」に「過去」がラップして、眩暈がする。
夢から醒めようとすればする程、心が引き裂かれてしまいそうな孤独や喪失感を突き付けられる。
そして余計に、自分は夢の中でしか生きられないと感じる。
もがけばもがくほど、まるで無限ループの迷路の中に居るように、深みにはまっていく。
そう、ヤツの言うように…。
「……あぁ。そうだな」
長い沈黙の後、重苦しく口を開いたジェットの言葉に、スパイクの心臓がイヤな音を立てて跳ね上がった。
「確かに、こんな事があった後じゃあ、今まで通りにお前と接するなんて事は、俺には出来ねぇ」
「…だよな。今までにも何度も同じような事繰り返してるし、さすがの忍耐強いアンタでも、いい加減に愛想尽かして当然さ」
スパイクはあっけらかんとした口調で言い放って、サイドテープルに手を伸ばして煙草を取り、一本咥える。
「…散々振り回しちまって、悪かった」
小さく呟いて煙草に火を着けると、突然ジェットがスパイクの口からそれを奪い取り、床に投げ捨てて足で踏み付けた。
「…何すんだよ」
「お前は、本当に解っちゃいねぇ」
ジェットの口調は、湧き上がる激情を抑えるのに必死といった体だった。
両手の拳を握り締め、こめかみに筋を濃く浮き立たせ、わなわなと全身を震わせているその様は、今にも相手を殴り飛ばしそうな迫力だ。
「3年前、俺がどんな気持ちでお前を拾ったか…お前、考えた事あるか。
どんな覚悟でお前と一緒に居るのか、考えた事あるか。
これで愛想尽かすくらいなら、お前みたいなスットコドッコイの大馬鹿野郎なんぞ、とっくの昔に宇宙空間に放り捨ててるぜ!!
いいや、それどころか最初からお前の事なんぞ拾っちゃいねぇよ!!」
胸の内を全て吐き出すような怒鳴り声に、スパイクは目を丸くする。
「俺はな、最初にお前を拾った時に決めたんだ。傷付いてボロボロになった野良猫みてぇなお前の居場所に、俺がなってやろうってな!!
自分勝手とでも、自信過剰とでも、傲慢とでも、何とでも言うがいいさ。
だがな!!お前は、ずっと醒めない夢を見てるみたいだと言うが、こっちゃ地べたを這いつくばるような気持ちで、毎日を必死で生きてンだよ。お前っていう、どうしようもなく我が侭で危なっかしい爆弾抱えてな!!
お前が無茶する度に、その傷がまるで自分のもののように痛い。
お前が寂しそうな顔をする度に、胸が締め付けられるように苦しい。
お前が嬉しそうな顔をする度に、こっちまで馬鹿みてぇに嬉しくなっちまう。
俺のこの感情は、現実以外の何物でもねぇんだよ!!
それを、一時の夢だったとでも自己完結させて、全部終わらせるつもりなのか、お前は!?ふざけるんじゃねぇっ!!」
(ジェット……)
スパイクは、頭上から一気に浴びせられる怒声に、目を細めた。
普段は温厚なジェットが、怒っている…本気で。
下手したら、ぶん殴られそうな勢いで…それなのに、これ以上ないというくらいに優しく、甘い言葉で。
「お前ってヤツは、とことんタチが悪いぜ、スパイク」
怒りの塊を思い切りぶちまけて、少しは落ち着いたのか、今度は苦虫を噛み潰したような表情で唸るように言う。
「お前みたいにはた迷惑なヤツ、いっそ愛想を尽かす事ができりゃあ、どんなに楽かってンだ。
それなのに、お前が無茶をすればするほど、もっと放っておけなくなる。もっとお前を離したくなくなる。
お前が傷ついて帰ってくると、その無茶っぷりにどうしようもねぇくらいの腹立たしさを覚えながらも、ちゃんと俺の傍に戻ってきたって事に、心底ホッとしちまうんだ。
俺はいつも、そんな自分にイライラしながらお前の怪我の手当てをして…それで、ふと気付く。
これは、俺が自分で望んだ事なんだ…ってな。
こうしてお前の帰りを待つ事が、お前の居場所であり続ける事が。
…それが、今の俺を支えているんだって事に」
「…ジェット」
スパイクは微笑んで、おもむろにベッドから立ち上がり、相手の大きな身体を抱きしめた。
「…アンタ、本当にバカだよナ…」
「あぁ。全くその通りだ」
「苦労症で、貧乏クジばっか引いてサ」
「お前が言うな、お前がッ!」
「……でも」
スパイクは、相手の胸に額を擦り付けながら、穏やかに言う。
「オレ…アンタの事、好き。すっげぇスキ…」
「……そうかよ、畜生。俺もだよ」
半ばヤケになったように呟いて、ジェットはスパイクの身体を抱き返した。
タオルで拭いたとはいえ、汗で濡れた上に長い間裸でいたスパイクの身体は、随分とヒンヤリしている。
「服ぐらい着ねぇと、風邪引くって言ってるだろうが。すっかり冷えちまって」
「じゃあ、アンタがあっためてくれよ…」
スパイクはジェットを見つめ、甘い艶を孕んだ声音で囁くと、相手の逞しい首筋を、そっと手で撫で下ろした。
「お前、あんまり具合良くねぇんだろ?足首だって痛むだろう…それに、エドが…」
「もう、平気だよ。部屋に鍵掛けたんだろ?だったら大丈夫さ……
なぁ、アンタの温もりが欲しいんだ。アンタをもっと近くで感じたい。
アンタがオレの居場所だって、この身体で思い知らせてくれよ。
オレの中に、アンタを刻み込んでくれ…オレがこの場所を忘れないように」
熱っぽく自分を見るスパイクに、ジェットは自然と顔を寄せ、口付けた。
まるで相手との距離を確かめるかのような、柔らかで繊細な口付けに、スパイクは胸の内に甘くて暖かな心地が広がっていくのを感じる。
もしかすると、これが「幸せ」って感情なのだろうか…と、ふと思った。
今までの人生で、一度も幸せだった事など無い…といえば、きっと嘘になる。
しかし、籠の中に飼われた鳥は、いくら大切に育てられていたとしても、いくら沢山仲間が居たとしても、果たして本当に幸せと言えるだろうか?
(オレを拾ってくれたのが、アンタで本当に良かった)
何だか妙に嬉しくなって、スパイクはもっと深くと強請るように、ジェットの口内に自ら舌を滑り込ませる。
ジェットは、抱き締めたスパイクの背を優しく撫でながら、入り込んできた舌をゆっくりと絡め取った……。
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