■滅びの国■


−1−




「陛下!」

 声が聞こえる。
 これは――ああ、確か、黒いローブの老人。名は、ノーヴァだっただろうか。

「陛下、今日こそはきっと現れましょう。長い間、待ち続けたあの御方が……」
「ノーヴァ」
 早口で続けようとした言葉を、冷静な声が遮った。
「何度言ったら解る? 俺は誰も何も待ってはいない。それに、今更だろう?」
「何を仰られます! 陛下がそんなことではいけません。これが、この国の光明となるかもしれないのですよ。……いいえ、必ずや光明となりましょう」
「ノーヴァ、お前がどう考えていようと、俺は考えを変える気はない」
 懸命なノーヴァの訴えを短い言葉で切り捨てた青年は、それきりノーヴァを意識することなく、窓の外を見詰める。
 ノーヴァはあからさまに落胆した様子を見せ、それでも諦めず言を継いだ。
「陛下のお気持ちが変わらなくとも、私はいつでもあの御方を迎えられるようにいたします。それが、この国のため、国民のため……陛下のためなのですから」
 しばらくの沈黙の後、ノーヴァは一礼しローブを翻して部屋を辞した。
 戸が閉まる音がして、青年は少しだけ背後に意識を向けたが、それだけだ。
「……全く。毎日毎日、同じことを。ノーヴァにも困ったものだ……」
 ただ、そう小さく呟くと、また眼下の光景を映す。
 矩には今の会話が何のことを言っていたのかはさっぱり解らなかったが、それはいつものことだ。
 だから矩は、より気になる存在である青年の姿をじっと見詰めた。
 相変わらず、見える光景の一片の変化たりとも見逃すまいとするかのような青年の行動は、矩にとって見慣れたものだ。
 窓から見える光景は、昨日見た時と変わらないように思えた。
 しかし青年は、一度目を伏せた後、すぐにある一点をじっと見据えた。
 その瞳は、いつにも増して力強い。
 何か、決意を秘めたような瞳だった。
 青年が見詰めているのは、この窓から見て右の端――街の比較的近くにある荒野の一部。
 そこには昨日、僅かばかりの緑が見え隠れしていたのを思い出す。
 それが今は、全くなくなっていた。
 あるのはただの残骸。
 胸が締め付けられる。
 また、失われたのだ。
 青年は今、どんな気持ちなのだろう。
 どんな気持ちで、いるのだろう。
 いつもの思いが、唐突に膨れ上がってくる。
 そして、今新たに見せた、決意を秘めた瞳のその意味を、知りたいと思った。
「……ラディス……」
 矩は知らず、青年の名を呟いていた。
 夢の中で矩が言葉を発したのは、これが初めてだった。
 矩はゆっくりとラディスに近付いていた。
 ある程度の距離を取って見ていたラディスに、どうしても今、近付きたくなってしまった。
 誰に見せることもないラディスの心の裡を少しでも知りたい、そう思って。
 日に日に募っていた思いが、今、矩の中で最大限にまで溢れ出していたのだ。
 そうして、どうするつもりなのかは自分でも解らなかったが、それでも近くに行きたいと強く思った。
 その時だった。
 ラディスが、こちらを見た。
 まっすぐ自分に注がれる、茶色の視線。
 目が、合った。
 ラディスは、はっきりと矩の存在をその瞳に映していた。
 こんなことは、夢を見始めて以来、初めてのことだ。
 いつだって矩は傍観者で、この国には存在しない人間だったから。
 しかし今この瞬間、矩とラディス、二つの瞳はしっかりと交わり、お互いをそこに居る者として認識していた。
(うわ、こんなことがあるなんて――)
 矩は目を見開きながらも、少しの嬉しさを感じていた。
 夢の中の存在に、自分を認識してもらえたこと。
 それを嬉しく思うなんて。
 更に嬉しいことには、目の前のラディスは、僅かに目を見張っていたのだ。
 これには驚いた。
 全くと言って良いほど感情をあらわさなかったラディスが、僅かとはいえ自分を見て表情を変えた――。
 それは何にも勝る、素晴らしいことのように思えてならなかった。
 ラディスの口が、言葉を発しようとしてか開かれた。
 そのことに途轍もない期待が湧いてきて、鼓動が早まる。
 ラディスの一言一句も聞き漏らさないようにしようと、ラディスの方に身を乗り出した瞬間――。
 ふ、と身体が浮上するような感覚が襲った。
 覚えがある。
 これは、目が覚める時の――。
(……って、ちょっと待って。もう少しだけ……!)
 誰にともなく願う。
 ラディスの言葉を聞くまでは目覚めさせないで欲しい、と。
 しかし、それは聞き届けられることはなく。
 矩は一瞬にして、夢の中から放り出された。



2006/02/03



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