■月に惑いて■


−4−


 動けない。
 拘束が緩んだとはいえ、まだ勇士の腕は彼方を抱きしめている。
 だから視線だけ、基に向けた。

「……何、やってるんだよ」

 低い、基の声。
 こんな声、聞いたことがない。

「彼方に触るな」
 ぐいと引っ張られ、勇士の腕が彼方から離れる。
 勇士は、笑みを浮かべている。
「……俺がいるのを知ってて……」
 基が問うと、勇士は肯定する。
「どんな反応するかと思って、な」
「なっ!」
 声を上げたのは彼方だった。
 勇士が何故わざわざそんなことをしたのか解らなかったのだ。
「でも、本当に抱き心地は良かったな」
「勇士兄!」
 軽く言う勇士に基が反応する。
 ……怒っている。
 基が、怒っている。
「基……」
 掠れた声で呼ぶ。
 基は振り返り彼方を見た後、勇士から庇うように彼方の前に立つ。
「……そうやって庇うくらいなら、ちゃんと言え、基」
「…………」
 勇士は2人の横を擦り抜け、小さく呟いた。
「……欲しいならな」
 一言、それだけを。
 勇士の背が小さくなって、やがて見えなくなった。


「彼方……大丈夫?」
 基が訊く。
 いつもの基の声で。
 いつもの口調で。
 それにほっとし、彼方は頷いた。
「ならいいけど……」
 まだ心配そうな基を見て、彼方は思う。
 今しかない。
 今、訊かなければきっともう訊けない。
 訊く勇気など、湧かない。
「……基、話が、ある」
 ゆっくりと絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「話? それって今?」
「……今」
「時間、かかる?」
「……解らない」
 それは、基の返答次第だから。
 けれど今日は満月で、基は絶対に話を聞くとは言わないだろう。
 それでも。
 それでも、どうしても、今。
 話さなくてはいけない。
「今日はちょっと……明日じゃ駄目?」
 やっぱり。
 予想通りの返答。
 基の表情は、少し苦しそうだった。
 嘘をつくのが苦しいのか、それとも話を聞けないことが辛いのか。
「駄目なんだ、今じゃないと。だから……」
 必死な顔をしていたんだと思う。
 今までにないくらい、必死な顔で、基にそう訴えていたのだと思う。
「……解った、入って」
 基は躊躇いながらも結局はそう言うと、家の中へと促す。
 さっきよりももっと苦しげな顔をして。

「お帰り、基。……あら、彼方ちゃん?」
 基の家に入ると、すぐに奈緒が顔を出した。
 奈緒は彼方がいるのを知ると、驚いた顔をして基を見た。
 基がそっと首を振ると、奈緒は解ったというように頷いて、
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
 歓迎してくれた。
「……お邪魔します」
 基の家に玄関から入るのは久しぶりだった。
 大抵、自分の部屋から基の部屋に飛び移っていたから。
 そういえば、基が彼方の家に玄関から入っていたのも随分前のことだったような気がする。
 基も彼方と同じく直接彼方の部屋へ入っていたから。
 2階に上がり、基の部屋が目に入る。
 ドアを開けると、見慣れた部屋が飛び込んでくる。
 彼方と基は並んでベッドに腰を掛けた。
 部屋は静まりかえっていた。
 彼方も基も、黙り込んだまま、視線をどこともなしに彷徨わせている。
 今更、此処まで来て、どうして躊躇うのだ。
 訊くために、此処へ来たのだから。
 だから。
「……基」
 意を決して、言葉を絞り出す。
 基を見ると、基もゆっくりと彼方を見た。
 その表情からは、何も読みとれない。
「急に、ごめん。今日は駄目だって解ってるけど……満月だから駄目だって解ってるけど……」
「勇士兄が何か言ったのか?」
 基の声に、言葉を詰まらせる。
 確かに、勇士に言われたから、気づいた。
 けれど、月見のことはずっと気になっていたのだ。
 勇士の言うとおり、人のせいにするのは良くない。
「違う、よ。俺の背中を押してくれただけだ」
 訊くことが出来なかった背中を。
「彼方……」
「月見のことだって、本当はずっと気になってたんだ。でも訊けなくて……今年は、本当は、従兄弟の家じゃなくて何処へ行ってたんだ……?」
「それは……」
 基は俯いて、何も語らない。
 彼方はその肩が震えているのに気づいた。
 何かを耐えるように。
「……言えよ、基。言ってくれ、頼むから」
「彼方……」
「月見のことなんて些細なことだって思ってたんだ。でもほんとはそうじゃないんだろ? 重大なこと、なんだよな?」
 基の両腕を掴み、力を込める。
「だったら……だったら話してくれよ! 俺、知りたいんだっ、基のこと……知りたいんだ!」
 額を基の肩に押しつけ、叫ぶ。
「知りたいんだ……」
「…………知って、後悔しない?」
 静かに呟いた基の言葉。
 彼方は、はじかれたように押しつけていた額を離し、基の顔を見た。
「しない、なんて言えない……でも、それでも、知りたい、どんなことでも」
 必死で、そう言う。
「そう……」
 基はやんわりと彼方に掴まれていた腕を離し、徐に彼方を抱き寄せた。
「も、基……?」
 彼方は基の腕の中で戸惑った声を出した。
「彼方、俺……俺、ずっと……彼方のこと好きだった」
 彼方は目を見開いた。
 好き。
 基が、自分を。
「基……俺……」
 好きだ。
 ずっと。
 だから、隠しごとをして欲しくなかった。
 基のことなら何でも知りたかった。
 そう、伝えようとした。
「でも……駄目なんだ」
 けれど基のその言葉に、そこまで出かかった声が出なくなった。
「基?」
「俺、彼方を好きだなんて……言う資格ない……」
「何で……?」
「嘘、ついてたから……いつも一緒にいて、それなのに……一番肝心なことを話してないから……」
 彼方を強く強く抱き込んで、けれどその腕は震えている。
「でも、話すわけにはいかなかったから」
 声も、震えている。
「何で? ……勇士は俺に嫌われたくないから言わないんだって言ってた。だから……言えない?」
「それも、ある。でも……」
「でも何?」
「でも、もし言ったら……彼方が知ってしまったら、自分を抑えることが出来ないかもしれない……」
 抱き寄せた時と同じように唐突に、基の腕が彼方を離す。
 俯いて、表情が見えない。
「彼方を傷つけてしまうかもしれない……」
「……っ」
 基が彼方から離れていこうとする。

「か、なた……?」
 気がつけば、離れていったその腕を抱き込んでいた。
 離したくなかった。
「馬鹿野郎! 基の馬鹿!!」
「な……?」
「馬鹿……」
 勇士の言ったこと。
 2人とも臆病になっているだけ。
 その通りだ。
 基も彼方も、相手にどう思われるかと何も出来ないままだった。
 立ち止まり、更に後退しようとしているのだ。
 幼い頃からの付き合いなのに、お互いこんなに臆病になってどうする?
 いや、長い付き合いだからこそ、失うことを怯えているのだ。
 けれど。
「……俺たちってそんなもんだったんだ? ……違うよな……?」
 怯えているだけでは、恐れているだけでは何も変わらない。
 前進する努力を、今までどうしてしようとしなかったのだろう。
「俺だって同じようなこと考えてた。ずっと気になってしょうがなかったこと……でも訊くのが怖かった! それでも知らなきゃ……何も言わないまま知らないままじゃ、そんなの……うわべだけの付き合いと変わらないんだ」
「彼方……」
「俺たちはそんなんじゃないよな? 違うだろ!? だから言えよっ」
 語気が段々荒くなっていく。
 それは解って欲しいから。
 基に、自分の気持ちを。

「……解った、言うよ……」
 微かに震える声で、基が呟いた。
 彼方は、ほっと息を吐いて基の腕を離した。
「……本当は言えるものなら言いたかったんだ……だから、聞いて欲しい」
 彼方は頷いた。
 そして心に決める。
 どんなことでも最後まで聞く。
 どんなことでも受け止める努力をする。
 どんなことでも……基から離れたりしない。
 堅く、心に。


「何から……言えばいいかな……満月のことから言おうか」
 瞳が揺れている。
 まだ、何処か迷っている、そんな瞳。
 彼方は口を挟まず、ただ基が話し始めるのを待った。

 やがて、基は拳を握りしめ、口を開いた。
「彼方の言うとおり、月見の夜は勇士兄の所には行かなかったんだ。……ずっと、外にいた」
「外って……」
「用事は済ませても夜のうちに家に帰るわけにはいかなかったからね。……彼方や彼方の家族に会うわけにも行かなかった」
 彼方は疑問をぶつけるのをかろうじて堪えた。
 基の話したいように、好きなように話せるように。
 自分が訊ねるのではなく基から全てを聞くために。
「俺たちは……絶対に久住家の人には手を出さないって、ずっと決めてたから」
 それは彼方と基が産まれる前から、2人の両親が出会って懇意にするようになってからずっと。
 ずっとずっと、そう決めていたのだと。
「両親がそんなこと決めていなかったとしても、俺は彼方に手なんか出せなかったけどね」
 何処か自嘲めいた口調で話す基に、彼方は胸が痛くなった。
 けれど、止めない。
 胸の痛みなど気にしていられない。
「でも本当は……勇士兄が言ってたように、欲しかったんだ、彼方のこと……」
 ……欲しい?
 何か、話がずれていっているような気がする。
 今は、月見の夜の話をしているのではなかっただろうか。
 そんな彼方の困惑に気づいたのだろう。
 基は苦笑して続けた。
「彼方が思っていることとはちょっと違うと思うよ。まあそういう気持ちもあることはあるけど……さっきの“欲しい”って言葉は……」
 そこまで言って、基は口ごもってしまった。
 だから、此処からが本題なのだと……彼方に隠していたことなのだと、解った。
「俺は……彼方の……」
 基は目を伏せ、けれどすぐに彼方を見て、呟く。
「血が……俺は……本当は、ずっと……欲しかった、んだ……」


 その言葉を聞いた瞬間。
 彼方の頭の中に蘇ってきた。
 あれが。
 あの、幼い頃の記憶が。
 夢で見た、幼い頃の。

 抜け落ちた部分を、思い出した。



2002/12/23



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