■月に惑いて■ −5− 「あのね、もといちゃん、よるにおとうさんとおかあさんがね、てれびをみてたの」 「なにをみてたの?」 「えっとね、こわいてれびだよ。ぼくがちかくにいったら、みちゃだめだよっていうんだ」 「…………」 「これはきゅーけつきっていって、きゅーけつきにちをすわれちゃうから、いいこははやくねなさいね、っていうの……」 「…………」 「ねえ、ほんとにこどもがわるいことしたらきゅーけつきにちをすわれちゃうのかなあ。だったら、おとうさんとおかあさんのいうこときいたほうがいいよね」 「かなちゃん……」 「そしたら、ぼくのとこにはこないよね」 「かなちゃん、きゅーけつきがこわいの?」 「うん。こわい……」 「じゃあ、ぼくは?」 「こわくないよ」 「だったら、だいじょうぶだよ」 「なんで?」 「だって、ぼくきゅーけつきだもん」 「え?」 「きゅーけつきのぼくがこわくないならだいじょうぶ。それにね、かなちゃんはぼくがまもるから、ぜったいぜったいまもるから……」 「もといちゃん……?」 「ほかのきゅーけつきからもぜったいまもってあげるから。かなちゃんがちをすわれることなんてないよ」 「もといちゃん……」 「なんにもこわいことなんて、ないからね」 何故忘れていたのだろう。 こんなこと、忘れられるようなものじゃないのに。 まだ幼稚園の頃だったから? ……違う。 基が自分が吸血鬼だと言ったのは、あの一度きりだ。 怖がっている彼方を宥めようとして。 これ以上、怖がらないように。 そんな気持ちから、そう言ったのだと思いこんだのだ。 そして、忘れてしまっていた。 知りたいことは、その答えはすぐそこにあったのに。 本当のことを言っているという認識がなかったために、頭の中から追いやられていたのだ。 大切な、基のことだったのに……。 「……めん、ごめん。基、ごめん……」 ごめん、と。 基、ごめん、と。 ただそれだけを彼方は呟き続けた。 「何で、彼方が謝るの? 悪いのは、俺だよ」 「だって……俺、本当は知ってたんだ……忘れてただけで、基が吸血鬼だってこと、知ってた!」 「え……っ?」 「基がそう言ったのを、忘れてたんだ……やっと思い出したんだ……だから、ごめん。俺が忘れてなきゃ良かったのに……」 「そうか……思い出したんだ……」 「基、覚えてたのか?」 「勿論、覚えてるよ、俺が彼方に言ったことなんだから。あの時は、彼方が怖がらないようにって必死だった。言っちゃいけないって言われてたのに……」 だから、それ以降は何も言わなかったのだ。 彼方が忘れているなら、その方がいいと。 言わなかったことにしようと、そうすれば変わらない。 このままの関係でいられるのだと。 「でも本当に彼方が謝ることなんてないよ。俺は……俺は、彼方に嫌われたくなかったから、疑問に思っているのがうすうす解っていても何も言わなかった」 彼方は基の告白を、黙って聞く。 「さっき言ったよね。俺は、彼方の血が欲しいんだって。ずっとそう思ってた……だからそうしないために……彼方に手を出さないって決めてたから、満月の夜に彼方に会うわけにはいかなかったんだ」 抑えられなくなるから。 満月は、基の心を掻き乱す。 そうして、彼方を傷つけてしまうから。 それを、止めることが出来るか解らないから。 彼方は基のその言葉を聞きながら、思う。 血って何なのだろう。 吸血鬼って何? 人間と何処が違う? 基は基だ。 吸血鬼だろうと人間だろうと。 自分と何処が違うというのか。 そう、基は基なのだ。 けれど基は。 「彼方……悪いけど、今日はもう帰って」 「何で……?」 言われた言葉に、彼方は呆然と呟く。 「俺の話、聞いたよね。今日は、満月なんだよ? だから……帰って。今夜はもう、会わない」 「嫌だっ」 「彼方、お願いだから」 「嫌だ!!」 「……彼方、解ってよ。俺、もう彼方に隠してたことを言ったけど……でも彼方の血、吸うわけにはいかないから」 どちらも必死だった。 基は、彼方を自分から遠ざけようと。 彼方は、基から離れたくなくて。 譲れなかった。 「何で? 久住家の人には手を出さないって決めてるから? だから、駄目?」 「違う! それもあるけど、そうじゃない。俺、言ったよね、幼稚園の時。彼方を護るって……彼方が血を吸われることなんてないって。そう言った俺自身が彼方の血を吸ってどうするの……?」 「いい」 反射的に、彼方はそう言っていた。 けれど、嘘ではない。 本当の気持ちだった。 「いいから……だから……」 「……彼方……」 基は首を振る。 彼方を、追い出そうとする。 「何でっ!? 俺がいいって言ってるんだからっ、いいだろ!?」 「俺が、嫌なんだ……」 彼方を見ずに、基は呟く。 「さっき言ったこと、もう忘れたのかよ! 欲しかったんだろ、本当は! そう言っただろ!?」 もどかしい。 基に届かない心が。 「俺は……いい。基だったら、いいんだ……」 ずっと我慢して。 知られたくないと、嫌われたくないと、ずっと。 それなのに。 もう彼方は知ってしまったのに、どうしてこれ以上苦しむ必要がある? 我慢する必要なんか、ないではないか。 「俺は、基と過ごせない時間なんか、いらない」 だから、知りたかったのに。 それを知ったら……それを受け止められたら、一緒にいたい時はいつでもいられると思っていたのに。 けれど、基はそれを許してくれない。 それならば、基は、どう思っているのだろう。 「基は、そうじゃないのか……?」 彼方だけが、そう思っているのだろうか。 「そんなの嫌だ。嫌なんだよ!」 だから、一緒にいられない時間があっても平気なのか。 「基、どうなんだよっ」 黙っていないで、何か言って欲しい。 ……思えば、こんなに真剣に基に何かを訴えたことなどなかった。 基はいつも良く解ってくれていたから。 けれど今、基は彼方のことを解ってくれない。 どう言えば解ってくれる? 本当は、少し怖かった。 それでも、基だから。 基だから。 だから、大丈夫なのだと。 解って欲しい。 「……本当に、いいの?」 聞き逃すのではないかというくらい、小さな声で基が言った。 彼方は言われた言葉を噛み締める。 「いい。最初から、そう言ってるだろ」 「……本当に……?」 基は繰り返す。 確かめるように。 「いい」 彼方も同じ言葉を返す。 今の、彼方の心を。 「……俺は……俺だってずっと、一緒にいたいよ。彼方とずっと……」 「基……」 「彼方じゃない誰かなんて欲しくない。幼い頃からずっと、彼方だけ見てたんだから」 言ってくれた。 彼方が言って欲しかった言葉を、やっと。 基がそう言ってくれるなら、そう思ってくれるなら。 怖さも苦しみも哀しみも。 全てが、嬉しさと喜びに溶けていく。 混ざり合って、溶けていく。 空が、だんだん暗くなっていく。 太陽もあと少しで、完全に沈む。 そして、そのあとには月が……満月が地上を照らす。 淡い、光を。 微かな、煌めきを。 家々や街の明かりよりも、何よりも。 その瞬間、満月だけが、鮮やかに。 2人を照らす。 ゆっくりと、けれど確実に。 その時が、迫っていた。 「彼方……」 基の腕が、彼方を引き寄せる。 今までで、一番強く、抱きしめる。 存在を確かめるように。 ゆっくりと、彼方は基の背中に腕を回す。 抱き返す。 きつく。 優しく。 今のありったけの想いを込めて。 基の唇が、耳朶をかすめる。 やがてそれは、彼方のはだけた首筋に落ちる。 躊躇うように。 微かに震えながら。 不器用に、押しつけられる。 彼方の身体が、微かに震えた。 途端に、唇が離れる。 彼方は慌てて首を振った。 違う、と。 嫌じゃないから。 ただ少しだけ、慣れない感触に震えただけ。 それだけ。 彼方の意志を汲み取ったのか、基は再び唇を彼方に近づける。 けれどそれは首筋ではなく。 彼方の額に目尻に頬に。 くすぐるように、触れていく唇。 そして、彼方の唇に、基のそれが重なる。 優しく……優しすぎるほど……。 彼方は目を見開いたが、すぐに閉じた。 何も見ず、基だけを感じようとした。 そっと重なっただけの、優しいキス。 それがこんなにも嬉しい。 窓の外から、月の微かな光が漏れていた。 綺麗な満月が、その姿を現して。 やがてそれは、2人を照らした。 2002/12/23
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