■月に惑いて■


−6−


 その瞬間、首筋から痛みを感じた。
 やがてそれは、全身に広がっていき、痺れたような感覚が彼方を襲う。
「……っ」
 座っているのに、自分では自分を支えられなくなり、基に寄りかかる。
 力が抜けていく。
 噛まれた首筋の痛みは麻痺しているのか、それとももう痛くはないのか、それさえ解らなかった。


「……彼方、大丈夫……?」
 唇を、彼方の首筋から僅かに離すと、基はそう訊ねる。
「ん……わ、解らな……」
 けれど彼方は声を出すことさえ、満足にできなかった。
「ふらつく? 眩暈とかする?」
 基の声が、ひどく遠く感じられた。
「彼方……」
 薄れていく意識のなかで、基に強く抱きしめられたことだけは解った。




「彼方……彼方には手を出さないって決めてたのにね……」

 聞こえる。

「でも……嬉しいんだ、すごく……」

 基の声が。

「だから……」



「基……?」
「あ、起きた? 彼方」
 目を開けると、すぐ目の前に基の顔があった。
「あれ、俺……」
 まだ、基の腕が彼方を抱きしめていた。
「そんなに多くもらわなかったつもりなんだけど……気分悪い?」
「え……ぼうっとしてるけど、それ以外は別に……」
 気分は悪くなかった。
「……良かった」
 彼方は徐々に思い出していた。
 自分が言ったこと。
 基が言ったこと。
 基が自分にしたこと。
 途端に顔が熱くなった。
 いくら必死だったからといって、自分があんなことを言うなんて。
 ……基が、彼方に応えてくれたなんて。
「……彼方……?」
 戸惑った声が聞こえてくるけれど、そんなの関係なかった。
 彼方は思い切り基にしがみついていた。
 基が自分を抱きしめる腕よりも強く。
 そうしたら、基も更に抱きしめ返してくれる。
 今、この瞬間が何より大切だった。





 基がしたことを基の両親は責めなかった。
 基も彼方も同意の上で行ったことだから。
 特に奈緒は、満月の日に基が彼方を連れてきた時点でもう納得していたらしい。


 基と過ごせない時間がなくなったこと。
 嬉しかった。
 すごく嬉しかった。
 これで、いつでも一緒にいられる。
 そう、思った。
 基もそう思っていると思う。


 そう、思っていたのに。
 ……それなのに……。




「え……?」
 言われたことを理解できずに―――いや、理解したくなくて、彼方は呆然と基の顔を見ていた。
『今まで通り、満月の夜は一緒にいられない』
 信じられなかった。
 信じたくなかった。
 基も同じ気持ちでいてくれていると言っていたのに。
 どうして?
「何で!?」
「彼方……俺は」
「何でだよ!」
「彼方、聞いて。俺はもう十分なんだ。彼方が、良いって言ってくれて、ずっと欲しかったものが手に入って。……それだけで、十分なんだ」
「何で、十分なんて言うんだよ……」
 1回だけで十分だと、基の気持ちはその程度だったのか。
 彼方は、不信感に囚われ、基にそう怒鳴った。
 基は哀しそうな顔をして、首を横に振る。
「そんなことない。そんなことないけど……でもだから、駄目なんだ」
「だから、何で駄目なんだよ!」
「…………から」
「えっ?」
 俯いて小さく言われた言葉が聞き取れなくて、聞き返す。
「もっと、欲しくなるから」
「…………」
 一瞬、きょとんとし。
 次いで、顔を赤くする。
「基……」
 基の顔も赤かった。
「……べ、別に……良いよ、そのくらい」
 わざと、ぶっきらぼうに言う。
 ……照れ隠しだった。
「あ……」
 基は目を見開くと、複雑そうに笑う。
「そんなこと言って……もう彼方には負けるよ」
 顔を見合わせて笑う。
 お互いの笑顔を、すぐ傍で見る。
 今までで、最高の笑顔だった。



2002/12/30


→あとがき


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