■月夜を抱く君■
−4− 柿を食べながら、杏子ととりとめもなく話をした。 勇士が大学4回生だということや、和都と同じ学校に弟がいるということ、他にもたくさん。 杏子は話上手で、随分打ち解けて話をすることができて、思いがけず楽しい時間を過ごせた。 そうしているうち、勇士がブレザーを手に戻ってきた。 「ほら。これで間違いないな?」 和都にブレザーを差し出しながら、勇士が聞く。 「……はい、これです。間違いないです」 ほっとして、ブレザーを握りしめる。 ……良かった。 ブレザーが戻ってきた。 「あらあら、和都君。そんなにしたら、皺になっちゃうわよ」 そうたしなめられて、慌てて、ブレザーを着込む。 学校で、塾で、公園で。 あの時はすごく寒かったのに、今はブレザーを着ると、暑いくらいだ。 ぱりっとした感触と、糊の匂いに気付いて、顔を上げる。 「あの、これ……」 「ええ、汚れてたから、クリーニングに出させてもらったの。……ごめんなさいね、勇士のせいで」 「…………」 勇士のせいではないとは言えなくて、黙って俯く。 そうしてから、はたと気付いた。 事情を知っているような言い方をした杏子に。 勇士は自分のことを……昨夜のことをどういうふうに言ったのだろう。 そう思ったけれど、動揺してしまって、とても聞けなかった。 代わりに、杏子に頭を下げた。 「……ありがとうございました」 経緯はどうであれ、杏子がクリーニングに出してくれたことはありがたかったから。 「いいのよ」 にこにこと笑う杏子に、自然に和都の顔も緩んだ。 「……そろそろ帰るか? もう、11時だ」 「えっ!?」 勇士の言葉に慌てて時計を見ると、確かに11時だった。 「うわあっ、ど、どうしようっ」 突然の素っ頓狂な声に2人ともびっくりしたように和都を見る。 「何だ? どうしたんだ」 「…………」 本来、個別授業の日はいつもより終わるのが早いから家に帰るのも当然早い。 ブレザーのことがあったから、遅くなるということと夕飯も外で食べるということは母親に言ってきた。 けれど、ここまで遅くなるとは思っていないだろう。 もう高2なのだから多少夜遅くなっても心配しなくても良いと和都は思っているのに、母親はそうではないらしい。 遅くなっても良いけれど、その場合は連絡をきちんと入れること。 そう、約束させられていたのに。 そのことを2人に告げると、 「俺が一緒に行って謝って来る」 「そうね、そうしなさい」 と言う。 「そんな……あのでも……」 慌ててかぶりを振っても、勇士はいいから、と和都の背を押して店を出た。 杏子もそれに続いて、和都を見送りに出てきてくれる。 「気をつけてね、和都君」 「あ、はい。あの、美味しかったです、ご馳走様でした」 「またいつでも来てちょうだいね」 「ありがとうございます」 杏子が手を振るのに答え、勇士と並んで歩き出す。 それから、お金を払っていないことに気づいた。 「あの……」 「ん?」 「今の料理……いくらですか? 僕、払い忘れちゃって……」 「ああ、いいって。俺が誘ったんだし、俺の奢り」 「でも、悪いです」 「元はと言えば昨日のことが原因なんだから良いんだよ。……お詫びってことでさ」 もうこの話は終わり、と締めくくり、再び歩き始める。 和都もそれに続き、ふと考える。 昨日のこと――。 さらりとそう言う勇士に、改めて疑問を強くする。 あれは一体何だったんだろう? 勇士は、やはり昨日とは別人のようだ。 訊ねようとは思いながら、何故か切り出すことが出来ない。 「……ところで、お前の家ってどこだ?」 「……え?」 考え込んでいたため、よく聞こえなかった。 「だから、お前の家。俺、知らねえんだけど」 「あ、そ、そうですね。えと……」 家の場所を教えると、頷いて勇士は黙ってしまった。 「あ、あの……」 「ん?」 「……何でもないです」 やっぱり訊ねてみようと言いかけたけれど、結局、言葉を飲み込んでしまう。 第一、どう聞けば良いのか。 あまり口に出したくないし。 ……そうだ、忘れよう。 忘れるしかない。 勇士の方も何も言ってこないし、いつまでも悩んでいても解決しない。 昨日のあれは、もう過ぎ去ってしまったこと。 一度起こったことをなかったことにはできないけれど、それでも忘れることはできる――。 そうしよう、と。そう、思うのに。 ――やはり、いくらそう思おうとしても、忘れることなどできない。 そのくらい、昨日の出来事は今まで平穏に日々を過ごしてきた和都にとって衝撃的だった。 自分はどうしたいんだろう。 どんな答えが返ってくれば納得するんだろう。 解らなかった、何もかも。 勇士は和都を送り届けると、和都の母親に遅くなった理由と謝罪を言って帰っていった。 『高校の時に通っていた塾でバイトをしていて、以前からよく和都と話をしていた。今日は一緒に夕飯を食べていたらつい話し込んでしまった』、と。 嘘をつくのは嫌だったけれど、本当の事は言えないので仕方がない。 とはいえ、食事をしていて遅くなったのは本当だから、まるきりの嘘というわけでもない。 それに、帰る道すがらに勇士に聞いた話では、バイトこそしていないけれど、実際に高校の時に和都と同じ塾に通っていたらしい。 勇士の言葉に、母親は特に疑った様子もなかった。 翌日はきちんとブレザーを着て登校した。 亮太と瑞希は、そんな和都を見て笑っていた。 もう忘れるなよ、と軽い口調でからかうように言われて、苦笑しつつもそのからかいにのったりして。 もう、いつもの日常だった。 夕方からはまた塾だ。 毎日、淡々と過ぎていく。 一昨日までは、そう思っていた。 けれど、日常というものは、ちょっとしたきっかけで簡単に色を変えてしまうのだと、和都は気づいた。 そう、今日もまた……。 授業を終えて外に出ると、塾の入り口の脇近くに立っていた人がこちらを見た。 夜の暗闇の中、塾の明かりで辛うじて見えたその顔は――。 「……柏原さん?」 和都は慌てて駆け寄った。 「ど、どうしたんですか……?」 「お前を待ってた」 「え?」 「ちょっと……付き合わないか」 勇士の言葉に和都は少し考えた。 昨日はブレザーのために付いて行った。 けれど、今日は――付いて行く理由はない。 「あの……昨日、帰るの遅かったし、……だから、今日も遅いってわけにも……」 もごもごと消え入りそうな声で、けれど、和都は必死に言葉を紡ぐ。 勇士に対して恐怖を感じたり、身構えたりすることはなくなってはいても、それでもやはり積極的に付き合いたい相手ではないというのが本音だった。 「そうか……」 勇士が納得したように呟いたのを聞いて、和都はほっと息をついた。 けれど、ほっとしたのも束の間だった。 「そんな時間は取らせねえから、気にすんなよ。なんなら、また送っていくし」 「え……」 「だから。な、付き合えよ」 拒否する間もなく、強引に腕を掴まれて焦る。 「か、柏原さんっ」 腕を掴む勇士の手は、彼に付き合うまで解放してもらえそうにないほど力強く和都を捕らえていた。
2006/03/26
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