奥州筆頭伊達政宗と、彼の忠実な家臣で竜の右目と渾名される片倉小十郎だけが、煤色をした猫の正体を知ってから数日。
日夜猫は城主に引きずられながら、あちらへこちらへと彼の行く先に連れて行かれていた。さすがに城主が湯を使う時に摘まみ入れようとしたのは、女中から報告を受けて飛んできた男によって阻止された。
眠る時でさえ猫を手放さず、すり減るというのではというほど散々肉球を揉んでから布団の隅に丸くなれと命じる始末。男と猫は少しずつ、城主に対しての思いを同じくしつつあった。――いい加減にして欲しい、と。
「Good morning! 起きろ、。猫だからっていつまでも惰眠を貪ろうとすんじゃねェ」
毎朝、城主にぺしりと体を叩かれて猫は目を覚まさせられる。元々猫は朝が得意ではない獣であるが、そのような事情を彼が思い遣ることはない。ミィ、とか細く鳴いて今朝もまた始まるのだ、と猫は夜明けを恨みながら前足をぺろりと舐め、寝起きの顔を撫でた。
「猫が顔を撫でりゃ雨だと言うが、てめぇがいくら顔を撫でても雨の一粒も降らねェな。妖だろうが、ちっとはそれらしいモン見せてみろよ」
胡坐をかき、呆れ顔で猫の一連の動作を見ていた城主が事も無げに言う。まだ人が訪れる時間ではないと言われているため、猫はぽふん、と変化した。
「おはようございます、竜さま」
「政宗」
「あ、すみません。政宗さま。あたしにはそんな大それたことできません。できて少しの間だけ人を迷わせるか、陰陽師の真似事くらいです」
「陰陽師? そりゃまた古臭ェ。年食ってるだけあるな。Old maid.」
「おーるめい?」
城主が戯れに交える洋語を解せない娘はそのままに問い返す。和訳するもしないも彼の気紛れであるため、娘は聞き慣れない語句を繰り返しているだけなのだが、今回は城主が悪巧みをする顔になった。
「ババァ、だ」
くくっ、と喉で笑いながら娘の額を弾く。姿が猫であろうと人であろうと容赦がない。痛い、と叫びながら仰向けに一回転した猫娘を見て、城主が腹を抱えて笑う。
「やっぱ猫だな! その動き!」
転がった勢いのまま、ぽふんと娘は猫に戻って器用に両前足で狭い額を押さえていた。城主から距離を取り、涙でも浮かべていそうな顔を向けて止めてくれと訴えているようだった。
――確かに人からすれば年を取ってはいるけど! 妖としてはまだ三百余、変化だってついこの間身につけたばかりなのに!
猫の抵抗も言葉も、城主には一切の効力を持っていないのだった。
昼下がり、僅かな時間ではあるが城主の拘束を逃れた猫は日向の濡れ縁でまどろんでいた。忍が硬い表情で彼の許に現れ、猫に大人しくしていろと命じると城主はどこかへと向かって行った。それが猫にとって都合のよいことにぬくぬくとした日差しの当たるこの場所。緩んだ気分は尾の先をはたり、はたり、と定期的に動かしているだけ、幸せに目を閉じて猫は身動き一つ取ろうとせずにいた。ここ数日で、城主の飼い猫としっかり認識された猫のうたた寝を邪魔する者はなく、城の者は微笑ましげにその場を通っていく。一人を除いては。
「、政宗様と一緒ではないのか」
ひく、と猫の耳が片方だけ立ち上がった。低い声に見知った気配、猫が声のした方へと体を向ければ男が書物を片手に立っていた。利き腕がさりげなく二本差しに添えられている事から、城主に急ぎの用があるのだと猫は悟る。
たった数日、されど数日。奥州の竜とその右目が、主に竜の執務放棄や鍛錬超過で火花を散らすことがあると知った猫。最初にその被害を被った時、男の電撃が真横を掠めていった事に震え上がった猫はこういった場合、男と城主のどちらを優先すべきか決めていた。
ニャア、と鳴いて起き上がる。すぐ傍の城主の部屋へ、ととと、と走って障子を開けてくださいと示す。男は軽く頷いて障子を開け、猫を先に部屋に入れると自分も入って閉めた。
「で、どこへ行かれたか知っているか」
ぽふん、変化する前に問うてきた男に、娘になった猫はいいえ、と首を横に振った。
「忍の人が来て、竜さまはあたしにあの場でいるように命じてどこかへ。……右目さま、また臭いを追いましょうか?」
「片倉、だ。そうしてくれ、」
「はい、片倉さま」
二人して、小さく溜息を落とした。
「オメェが現れて、少し助かった。政宗様を迅速に見付けられるようになったからな」
「心中お察しします。竜さまはいつもあたしを連れ回しますけど、片倉さまから逃げる時だけ置いていくんですから見付けてくれって言っているようなものです」
「機密の案件や重要な会議の場にさえ連れ込もうとしたのは俺が止めたからなんとかなったが。オメェが娘であるというのに廁や果ては湯浴みにまで持ち込もうとは。いくら猫姿とはいえ、政宗様も自重なされよと何度言ったことか」
男の怒気が言葉を発する毎に上がっていく、これはまずいと娘が獣の姿に慌てて戻る。雷撃を打たれる前に城主を探し出さねば、と猫は鼻を動かす。すぐに男を見上げて一声鳴けば、心得たりと表情が語り、一匹と一人は廊下を進んで行った。
城の中が寝静まった時刻、忍と夜警の兵と思われる以外に動く臭いはない。城主の布団の足許、目を覚ました猫が重い頭を上げて座り直した。足を体の下に敷いて丸くなった姿は猫そのものだが、こぼれた溜息は人のようだった。
男と城主の所へ向かった時、彼は忍の報告を聞き指示を出していた。例え右目と渾名された信頼に足る家臣だとしても城主以外に秘匿しておくべき事はある。今回はその類であったらしく、城主が遠くに見えた時点で彼の鋭い左目が一瞬男へと向けられた。それだけで事を察した男はその場で一礼すると、猫を伴って引き返した。空いた左腕に猫を抱え上げると、男は小さく言った。
「目を離したほんの間に見事に姿を変えるのは、何もお前だけではないな」
誇らしげな、しかしどこか切なさの混じった声音に猫は何も言えず、俯いた。その後、またお前が見付けやがってと笑う城主に遊ばれて、ぐったりしながらも猫の思考はどこか遠くにあった。それを目敏く悟って不満を抱いた城主が更に猫を苛め抜いたけれど。
――竜さまも右目さまも、いいお人。城の人も皆、御所と同じくらいあたしを大切にしてくれる。でも、ここのところお腹が痛いのはどうしてかな。妖になったらよほどでないと病気はしないはずなのに。ご飯もきちんといただいてるし、充分過ぎるほど遊んでいただいているし、心当たりはないのに。ずうっとしくしく痛いのはなんでだろ。佐助さまなら判るかも……。あ、佐助さまは人だって言ってた。
また、猫は溜息を落とす。
――急に佐助さまの所に現れた若武者さま、怒ってるよね……。失礼なことしたって今ならきちんと判るから、謝らないといけないの、あたし。でも、どうすることもできないのが情けないな。竜さまには言えない。多分、京での話が本当なら今は国の争いをしているんだもの。……御所は大切に守られていたのね。あたしが御所の外をお話に聞くだけで何も知らなくて三百年も生きていられたなんて。あるじさま、とてもよいお人ばかりで、あたし、幸せだった。だから、今、幸せじゃない……? お腹痛いのはそのせい? でも、竜さまも右目さまも、皆いい人ばかりで大切にされて、どうして幸せじゃないの?
ほろほろと、猫が涙を流す。妖になってから、獣姿でも随分と人に近い感情や動作をするようになった。それが猫には不思議だった。
――判らない、なんにも。
純粋な妖とは何か、鳥獣や樹木上がりの妖とどう違うのか、人と妖は何をして違いを生ずるのか。猫は、何も知らない。
ぷすぷすと間抜けな寝息が足許から聞こえ始めて、奥州の竜は細く息を吐いた。ここ二、三日、どうも猫の具合がよくない、と思ってはいたのだ。もそりと動いたのを感じて様子を探ってみれば、猫の姿をしたまま溜息を吐いたり泣いたりしたのには笑うべきか驚くべきか迷った。結局、狸寝入りを決め込んだのだが。
「何悩んでんだ、こいつは」
妖の割に危機感が全くない。なにせ、一度深く眠りこむと摘み上げても起きない。どうやって三百年も暮らしてきたのか甚だ疑問を抱かされる。人の姿になった時には見たこともない古めかしい衣装に髪結いをしている。今朝とて陰陽師という過去の遺物となった形式だけのそれを、まるで力を持つ者のように口にした。
「What a unrealized puss!」
心底感嘆の意を込めて呟くと、彼は起き上がって猫を抱き、幾度かその煤色の毛を撫でて枕の傍に置いた。
「俺がこうまで心を砕いてやってることをありがたく思えよ、」
くあ、と大欠伸をした猫を莫迦にしたように見下ろして、彼もまた眠る。
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2008/09/27, 2010/01/10
2010/03/24 訂正
よしわたり