猫が、とうとう城主と戯れる事もできなくなった。
 腹を守るように丸くなり、部屋の隅で小さく蹲って浅く呼吸をしている。食事も取らず、水だけをちろりと舐める程度。変化することもできないのか、城主がどれだけ声を掛けようとも弱々しい鳴き声しか返ってこない。


 苛々としながらも城主は弱った猫に寝床を与えてやっていた。木箱に座布団を敷いて布を放り込む。摘むことなく、抱え上げてそこへ猫を下ろすと城主が口を開いた。
「おい、。てめぇが何悩んで何患ってんのか知りたいだけなんだよ、こっちは。妖の技でも使って治してみせろ」
 いつものように手荒に扱われないのを不思議な様子で見上げながら、猫は多少の痛みを堪えて――妖化した。変化するつもりだったが妖化してしまった猫が、そちらの方が変化するよりも力がいらないのだと初めて知る。
「Hey, ? なんだ、その姿」
 城主が隻眼を見開いて驚いている。それもそうだろう、猫は今まで彼の前で妖化したことはなかったのだから。人の子はありそうな大きさになった体で狭い木箱に入りきることはできず、三つに分かれた尾を力無く畳に落とし、両前足を木箱からはみ出させてそこに上体を預けた煤色の妖猫は、人語を発した。
「政宗サマ、スミマセン。人ノ姿ニナレナカッタンデス」
「いや、構わねェ。それが妖の姿か」
「ハイ。言葉ハ判ルノデスカ」
「判る。口は鳴いているように動いてるが、言葉はきちんと聞こえる。人の声じゃねェが」
「ソウデスカ、ヨカッタ。……アノ、政宗サマニハ申シ訳ナイノデスガ、片倉サマヲ、呼ンデイタダケマセンカ?」
「小十郎? なんだってあいつを?」
 見目は良いが、あまり人相が良いとはいえない顔をしかめて城主は目の前の妖に訊く。恐れることなく、妖は前足を揃えると頭を下げて懇願するようにした。
「政宗サマニオ頼ミスルノハ、気ガ引ケルノデス。ドウカ、ノワガママヲ、オ聞キ入レクダサイ」
「……OK. それで具合はよくなるんだな?」
「イイエ、治ルカモシレナイコトヲ、シマス。ドウ転ブカ、ニハ判リマセン。デスガ、シナイヨリマシダト思イマス」
「弱気になるんじゃねェよ。今、小十郎を呼んでやる。俺は居た方がいいか?」
 頭を上げて、真黒の目で城主を見ている妖は悲しげに首を横にした。そうか、とだけ呟いて彼は立ち上がって部屋を出て行った。
 今からここへは誰も近付くなと城主が命ずる声を聞きながら、妖は猫に戻る。ぐったりと伏せて、とろとろとまどろみ始めた。




「入ります」
 主のいない部屋でも、男は声を掛けて障子を引いた。無人だが、小さな気配が微かに感じられる。猫がお前を呼んでいると主に言われて来たものの、男を呼んだ相手はどこにも姿を見せない。部屋の一角に見慣れない木箱を見付けて覗き込めば、そこで丸まっている猫がいた。
、どうした。政宗様が俺だけを呼んだと聞いて来たんだが、何の用だ。飼い主に隠し事するのはよくねえぞ」
 窘める男の声に、猫が目を覚まして身を起こした。一度鳴いて、ふらふらしながら木箱から出ようとするがそれさえできないのか中へ転がり落ちた。仕方なしに男が猫をそこから出してやれば、礼をして、妖になった。とっさに距離を開け刀に手を掛けて膝立ちになった男に、妖は深々と頭を下げる。敵意は全くなかった。


「片倉サマ。人ノ姿ニナレズ、申シ訳アリマセン。政宗サマニ、ゴ無理ニオ願イヲ申シ上ゲマシタ」
「妖だな、まさに。それで、何用だ」
「オ頼ミシタイコトガ。竹片ト、筆ト墨ヲオ借リデキマセンカ? 文ヲ書キタイノデス」
 木簡や竹片に文を書いていたというのは大昔の話だ。紙があることもしっているが何故、わざわざ古めかしい道具を所望するのか、男には判らない。
「文はいいが、紙ではなく竹片なのか? 用意できなくはねえが……」
「サスケサマトイウ人ニ、届ケテイタダキタクテ。甲斐ノ人デス。一度会ッタダケデスガ、サスケサマナラ、判ッテクダサイマス」
 妖の言葉に、男は眉を寄せた。甲斐の、サスケ。
「そりゃあ真田幸村の忍、猿飛佐助の事か? 奴と面識があるなんざ今初めて聞いたな、どういうことだ。今はこちらも向こうも手を出しはしていないが敵であることに変わりはねえ。それを判って言ってんだろうな?」


 多少柔らかかった男の雰囲気が鋭気を纏うものへと変わった。覚悟はあるのかと、口にせずともその気迫が物語っている。
 妖も判っているのか、こくりとひとつ肯いた。苦しいだろうに、しゃんと前足を揃えて座り、男を見上げている。
「国ヲ争ウ敵ヘト文ヲ送ルコトハ、許サレザル事ト知ッテイマス。ケレド、ドウカオ願イイタシマス。事情ハ、回復デキマシタラ、オ話シイタシマス。首ヲハネラレテモ、構イマセン。今ハ、佐助サマニオ頼リスルホカ、ニデキル事ハアリマセン」
「奴もお前が妖だと知っているんだな、その様子だと。医者や伊達軍の忍に薬を頼むにゃテメェが妖だと白状しなくちゃならねえ。なるほど、賢明な判断だ。 ――今、持ってきてやる。しばらく待て」
 ほんの少しだけ気迫を緩め、男は妖の意図するところを簡単に理解した。男に頼んでよかったと妖が礼を述べる前に、早速彼は立ち去った。




 それからすぐ、何枚かの竹の破片を板状にしたものと筆記具を持って男は戻ってきた。伏せていた体をゆっくりと起して座った妖が頭を下げる。
「本当ニ、アリガトウゴザイマス」
「礼は後でいい。弱っちまう前に早く書け。忍に届けさせる。オメェが甲斐へ文を出すとの政宗様の許可も頂いておいた。事が事だからな」
 妖は弱々しく頷いて、器用に筆を口に咥えると墨を含ませて前足で押さえた竹片へと文字を書き始めた。


 人語を理解する事にも充分驚いたが、この妖猫が字まで書けることに男はかなりの衝撃を受けていた。身形や礼儀の良さは年を経た妖ならば身につけるものだろうとどうにか納得していたが、文字は習わねば書けはしない。手で書いていないのもあるだろう、少しばかり形の崩れた字ではあるが、仮名だけでなく真名まで交えている。
 ――どこで習得したのか訊かねえとな。考えてみればおかしな点が多過ぎだ。政宗様がどれほど気に入りであろうと身元は洗わせてもらうぜ、悪いがな。
 男の思惑は露知らず、妖はなんとか書き終えたようで筆を置いて深く息を吐いていた。


「見るぞ」
「ハイ」
 甲斐へと送るのだ、目は通しておかなければならないと、妖が書いた文を読んだ男は、――それは深い溜息を落とした。何故ならば、そこに曰く。
『佐助さま、申し訳ありません。助けてください。竜は人でした。あたしは炎の若武者さまに謝らないといけません。でも、竜さまが離してくれません。面白いものを見つけた、と喜んであたしと毎日遊ばれております。竜さまはいい人ですけど、あたしはどうしてか毎日お腹が痛いのです。他に頼める人がいないので佐助さまにお願いします。助けてください。
 ――こいつが弱っているのは、ただの胃痛じゃねえのか……?
 哀れむような眼差しを向けた先には、疲れ果てて猫の姿に戻り丸まっている妖。主が作ってやったのであろう寝床へとそうっと入れてやると、猫は掠れた声で鳴いた。
「礼はいいと言っただろうが。オメェ、腹が痛いんだな? 俺にはおおよその理由が判る気がするが、素人判断はよくねえと思って黙っておく。政宗様にもよく言い聞かせておいてやるから安心して休んでろ」
 不思議そうに、問い掛けるように見上げてくる猫の頭をくしゃりと撫でて、寝ろと言えば、猫はへなへなと小さく丸くなって眠り始めた。人のような猫だなと男は内心笑うと、その場から静かに去って行った。




 六爪の木刀を操り鍛錬に汗していた城主の許に、彼の右目が戻ってきた。短く用は済みましたとだけ告げた男は、しかし、何かを言わんとする目をして城主を見ていた。
「小十郎、言いたい事があんなら言え。俺はpsychicじゃねェぞ」
「いえ、何もありませぬ。ただ見ていただけの視線に何かを感じられたのでしたら、それは政宗様ご自身が何かを思っているからでしょう」
「Ha! 禅問答かよ。俺はお前に睨まれるような事はないはずだ、少なくとも今日はな」
「日々、睨まれるような事をしているという自覚はおありでしたか」
「……誘導訊問か、悪趣味だぜ」
 砂利を敷いた庭に下りている城主の位置からは、濡れ縁に立つ男を自然と見上げる形になる。それも気に食わないが、男のいいように会話を進められていることに機嫌を悪くした城主は木刀を袴の帯に差して鍛練を終えた。水を浴びに行くという口実をつけて逃げるために。
 男に背を向けた城主に、一言、諫める声だけが追いかけてきた。
「あれは、何かを恋しがっているが口にしません」
 それが何なのか、男自身もはっきりとは判っていないのだろう。そして、城主も察してはいる。おそらくは、猫の素情に関わる事。


 ぬるい風が吹いてきて、ゴロゴロと、遠くで雷が鳴っている。じきに、嵐が来るだろうと知れた。









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2008/09/27, 2010/01/10
2010/03/24 訂正
よしわたり



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