呉城の一室にて無傷の女は経緯を語った。曰く、男三人が悪銭でもって食糧を安く買おうとしており、偶々通りがかった女はそれを指摘して店主は男たちとの取引を止めた。そのため、彼らの怒りの矛先が女に向い、受けて立った女は易々と大男三人を打ち負かしたのだ、と。
「どこまで信用していいのでしょうか」
ありがちな話ではあるが、それをやってのけたのが目の前に座っている女である、と言われれば疑問を抱かずにはいられない。鎧も冑も、もちろん剣も盾も剥ぎ取られた女は威圧するような気勢もなく、大立ち回りをして見せたとはとても思えない風采をしていた。
「疑うならご自由に。どうせ流れ者の武人だから、刑罰を受けるのはいつものこと」
陸遜が呉将と名乗ったのを聞いていなかったはずでもなかろうに、女は彼に対して不孫の態度を示す。衛兵が諫めようとするのを抑えて、陸遜は苦笑した。
「流民ですか。よく呉都へ来れましたね」
「商人に傭役されていた。建業までの護衛を務めていたから、ここでまた新たに旅人の雇傭について流れるつもりだった」
「なるほど。では生まれは?」
「さあね。気づいた時には師について歩いていた。親の顔さえ知らないよ」
「師というのは?」
「剣の師だった。私の笄冠後すぐに放り出されてからは会っていない」
ずず、と茶碗の水を啜って女は話す。得られた情報は今回の騒動の原因と過程、渦中の女は成人だが戸籍にはない。それだけだった。上の指示を仰ぐ他なし、と判断して陸遜は質問を切り上げるべく言い放った。
「そうですか。では貴方の身分を検めることはできませんね。男たちからも話を聞きますが、ひとまずは貴方も彼らも勾留させてもらいます。いいですね」
「否と言おうと聞き入れられないのだろう? それなら問う必要はない。好きに扱えばいいさ」
どこか超然とした女の姿は、陸遜の興味を刺戟したと同時に、疑問も多く呼び起こした。
室を出ようとして、陸遜は重要な事を訊き忘れていたことに気付く。
「そうだ、名はなんと?」
「名? そんなものないよ」
あっけらかんと答えた女に、陸遜だけでなく、控えていた兵も唖然とする。彼らの反応に、女はしまった、という顔をして慌てて言い直した。
「。そう呼んでくれればいい」
「……姓名はないのですね。というのは綽名か何かでしょうが、仕方ありませんね。いいでしょう、便宜上そう呼ばせてもらいます。では、失礼」
小室の扉を外から閂し、哨兵を二人置いて交替で見張らせるようにして陸遜はその場を去る。これから男たちの処へも向かって話を聞かなければならない。さいわい、彼らの外傷は命に別状ないとのことで、全員意識もはっきりしているという。
将軍とはいえまだ下官の陸遜は彼らの訊問を押し付けられ、全員の証言を聞いてから書簡に全てを記して上書せよ、と命じられた。
――不如意だ。どうして私がやる必要がある? 文官が楽をしたいだけじゃないか。
騒動の原因となった男たち一人一人の身分を明らかにさせて話を聞く。女に負かされたのが効いたか、彼らは己が非をあっさりと認めて女の証言のままだと答えた。思っていたより早く片が付きそうだ、と晴れ晴れしく思う一方で、胸の裡に抱えた悶々とした情は消えることも散ることもない。
認められない事に焦躁を覚え、一刻も早く上位へと昇らねばならないと痛感する。その一切を振り払って、陸遜が書簡に報告を記し終えたのは、既に乙夜だった。
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2008/05/25
よしわたり