が陸遜の護衛として武官に任じられて二月が経った。陸遜が書房に入れば室外に、軍議などで広堂へ行けば門兵の如く、侍衛として立っているようだった。城内でも鎧冑に帯剣を許されてはいるものの、官位は陸遜とは比較にならないほど下である。だが、詔命による護衛である、というだけで彼女の行動はほぼ制限されずにいた。終日彼女は陸遜の傍を離れず、護衛というよりは監視に近いと思わざるを得なかった。
 ――これではまるで、囚人だ。


 上からの命令とはいえ、陸遜の忍耐にも限界はある。まともに話をしたこともない女をいきなり護衛に附けられ、四時まとわりつかれたのではとても耐えられたものではない。朝見を終えてすぐに軍務について相談がある、と偽って呂蒙の処へ逃げ込んだのだった。
「どうした、陸遜」
 いきなりの訪問にも大らかに応じた呂蒙は、疲労の色濃い陸遜を見て声を落とした。すみません、と一言断りを入れて陸遜が視線を閉じた扉へ向ける。
「外にあれが居ます。堂奥へよろしいですか」
「何か、あったか」
 事情を察した呂蒙は奥の小室へと陸遜を招き、椅子に座らせて扉を閉める。二重の扉、更には上官の呂蒙の官房、が入ってくることはまず考えられないだろう、と陸遜は息を吐いた。

「思いつめた顔をしているぞ。何があったのだ」
「すみません、何もないのですが。……いえ、ないからこそ耐えられないのです」
 陸遜が硬く目を閉じて首を振る。眉間を押さえ、もう一度大きく息を吐いてから、顔を上げて呂蒙を見た。
「私は周都督、いえ、殿に猜疑を掛けられているのでしょうか」
「何を言う。殿も都督もお前を信頼しておいでだ。どうしてそう思ったのだ?」
 聡頴な陸遜のこぼした弱音に驚き、目を瞠る呂蒙。本心から憂えてくれる彼に、陸遜はのことについて語り始めた。

は私の監視を務めているのではと不安になっているのです。常に彼女は私から離れることはない。けれど、私にとって彼女は見ず知らずの、しかも流民上がりの女です。考えたくはありませんが、……孫家に仇なした陸家の者を主とし、油断させて私を弑させるのではないか、あの女を殿や周都督は間諜としているのではないかとの疑念が止みません。あるはずはない、と思えば思うほど疑ってしまう。このままでは、早晩私はあの女に殺されてしまいます」
 そう言ったきり両手で顔を覆い、深い苦渋の吐息をもらして黙りこくった陸遜を、呂蒙は痛々しげに見遣る。どさり、と椅子に座って何度か嘆息してからようやく呂蒙が声を発した。
「そこまで思いつめていたとは、……気付いてやれずにすまない。だが、その心配は無用だ。彼女は刺客でも、間者でもない。俺が保証する。なにせ、都督と彼女の遣り取りの証人をしたからな」
 ざりざりと顎鬚をさすりながら呂蒙は笑う。

「あの女は豪胆で、剣の腕もいい。孤剣の人妖、などと不穏当な渾名を頂戴している、と笑って言っておった。それに、学はないが頭は回る。――決して殿も都督もお前に害心はない。わかってもらえるだろうか」
 弱々しく上げた陸遜の白面に苦笑して、それに、と彼は続けた。
「あれ、とお前は言ったが。彼女も人だ。きちんと話をしたことはあるか? 何故お前の護衛をしているのか、どうして呉に留まったか。何も訊かずにいるのではないか?」
「それは、信頼を置くに足らないと思い、疑って……」
 そこまで言って、陸遜はゆっくりと頭を振った。先程よりも表情は和らいでいる。
「一度も話したことがありません。監視されていると怯えて、話そうとも思いませんでした。少し、こちらから歩み寄ってみます」

 呂蒙も顔を綻ばせると、うむ、と肯いて立ち上がった。
「すっきりしたか?」
「はい。ありがとうございます。私が未熟なゆえに徒労をかけてしまいました」
 深々と頭を下げて陸遜が礼を述べると、呂蒙はどことなく居心地悪そうに苦く笑って陸遜の頭を労わるように叩いた。
「お前はまだ若い。これから経験を積んでいけばよいのだ」
「はい!」
「よし、思いっきりぶつかってこい!」
 ばん、と背を叩いて彼は満面の笑みで陸遜を書房から追い出した。けほけほと噎せ込む陸遜の後姿と、長揖するに笑い掛けて呂蒙は扉を閉じた。


 それから数日の後、陸遜は午下に余暇を取ってと二人きりの時間を作った。陸遜に与えられた官舎の一室、家僮は下げている。いつものように室外で控えようとしたを捕まえて室内へ呼び入れた。それだけでも陸遜にとってはかなりの勇気を必要としたのだが。
「将軍、いかがした?」
 高位高官の前ではそれなりの言葉遣いをするくせに、主と言った相手の前ではこの様態。頭痛がする、と早くも陸遜は彼女を追い出しそうになり、ぐっと堪えて椅子を勧めた。
「貴方と話をしてみようと思いまして。まともに話したことなどないでしょう?」
「そういえば。呂将軍に諭されたのか? 私に怯えている、と」
「何を!」
 立ったまま陸遜を見上げてくすくすと笑うに、かっとなる。だが、当たらずとも遠からず。頭は回ると呂蒙は話していた。

「……いいから、掛けなさい。主として命じます。私の問いに答えてもらいます」
「仰せのままに」
 かしゃ、と音を立てて鎧冑の女は椅子に座る。こっそり溜息をついてその向かいに座り、陸遜はやっと話ができる状況になったのだった。ふと見た、冑の下から覗いているの瞳は、真っ直ぐに陸遜を捉えていた。


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2008/05/25
よしわたり



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