「しっかし、まさかと思ってたことをホントにやらかすなんてねー。まるでマンガだわ」
「ねーねー、フェイフェイ、何がそんなに楽しいの? スパスパ、マンガ?」
「そうね。どこかの誰かさんの、とっても面白い話。でもあんたにはちょっと早いかしら」
相変わらず笑いを堪えながら言うフェイの様子を不思議に思ったエドが、食事の間もしきりに理由を尋ねていたのだが、フェイはそのたびにからかうような視線をスパイクに向けながらはぐらかす。
その繰り返しに、スパイクの堪忍袋もいい加減緒が切れそうになった頃、ジェットが横から口を挟んだ。
「いい加減にしろ、フェイ。食事が終わったんなら皿は自分で下げろ」
「何よ、いつもは旦那がやってくれてるじゃない」
この場から自分を引き下がらせようとするジェットの言い草に、フェイは不平を言おうとしたが、じろりとジェットの物言わぬ目に睨まれると、唇を尖らせて言葉を飲み込む。
「はーいはい。それじゃ、襲われないうちにレディは退散するとしますか」
「はにゃ? フェイフェイ、誰か追っかけてくるの?」
「そう。とーっても怖い狼さん。あんたも早くどっかに隠れたほうがいいわよ」
「あいあ〜い。エド隠れる! アイン、かくれんぼだよ!」
話の成り行きを知ってか知らずか、大人三人を見比べたアインは、一声吠えるとエドの後についていった。
喧騒が去ったリビングに残された男二人は、ようやく厄介者が去ったことに肩で息をし、更にまた別の意味でも大仰に溜息をついた。
「………時間はどれぐらいだ?」
スパイクが不意に洩らした言葉に、ジェットが顔を上げる。しばし質問の意味を理解するのに時間がかかり、ああ、と呟く。
「……詳しいことはわからんが、売人の話だと効き目が表れるまでに1・2時間はかかるらしい。あまり長くは持続しないらしいが……とりあえず、外に出といたほうがお前にとってもいいだろう」
ジェットとて男である。そういう状態になった時、彼が部屋の中でじっとしていられるとは思えなかったし、そうなるとこの船の主としてはやはり放ってはおけない。
たとえ被害の対象になりそうな相手がこの船にはいないとしても、だ。
「……とりあえず、そうさせてもらうわ」
煙草を揉み消し、やはり面白くない顔のままスパイクが立ち上がる。
彼にしてみれば、そんなとんでもない品を当たり前のようにテーブルの上に置いていたジェットにも文句を言いたいところだが、勝手に食べてしまった自分にも非がないとはいえない。
第一、ここで不毛な口論をしても始まらない。胃の中に収まってしまったものはどうしようもないのだ。
左右に首を鳴らして、スパイクはポケットに手を突っ込むと、徐に踵を返した。
ハッチの向こうへと消えていく後姿を見送り、ジェットは自分の不注意が招いた事態に改めて溜息をついた。
まだ完全に夜の闇が下り切らない時刻。繁華街の雑踏も、家路を急ぐサラリーマンや買い物帰りの主婦などでざわついている。
昼間シャッターを下ろしていた店先がようやく開き始めようかという頃、フェイは人ごみに紛れて足を忍ばせながら、先を行く男の後姿を見ていた。
賞金が入ったばかりのマネーカードを手にふらりとビバップを出た後、屋台で買った骨付きチキンを頬張りながら、久しぶりにどこかのカジノへ繰り出そうかと考えていた時。
たまたま、本当に偶然だったのだが、近くのパーキングから出てきたスパイクを目撃したことが、そもそもの始まりだった。
きっかけはただの好奇心に過ぎなかった。あの男がどういう行動に出るのか、普段が普段なだけに殆ど想像がつかず、余計に沸いてきた興味が彼女の行動力に火をつけてしまったのだった。
どんな顔をして歩いているのかと思うとまた笑いがこみ上げてくる。と、急に彼が足を止めたので慌てて近くの屋台の陰に身を引っ込めた。
ちらちらと気づかれないように視線を送ると、彼は表通りから少し路地に入る手前にある店の前で、何やら誰かと話をしているようだ。
少しして彼は店の前を離れ、再び歩き出した。
まだ夕焼けの名残りが空に残る時間なだけに、そういう客を取る店もまだ営業を始めていないのだろう。
距離が離れているので表情はよく見えないが、何となく苛立っているような雰囲気が見える気がした。
ご愁傷様、と胸の内で呟きながら、フェイはまたこみ上げそうになる笑いを押し殺した。
そのうちに、彼は繁華街から少し逸れた道へと入っていった。
フェイは一瞬どうしようか迷ったが、ここまで来て引き返すのも何だか面白くないような気がして、結局そのままこっそり後を尾けた。
と、その時。
突き当たりの曲がり角で、ちらちらと点灯し始めた街灯の光を受けて、鈍く光るものがフェイの視界をかすめた。
「?」
怪訝に思ってそれを見つめると、どこか見覚えがあるような物体のような気がした。
「……マジ? あいつ、こんなのも落とすほど余裕ないんだ?」
しばしの沈黙の後、驚きとも呆れともつかぬ声を洩らして、それを拾い上げる。
それは、ソードフィッシュのキーだった。丁度落ちたところが補正中の道路で、音が聞こえなかったのだろう。とはいえ、普段のあの男からすれば考えがたいことだ。
ふと、そこで話し声が聞こえ、はっと顔を上げて曲がり角から顔を覗かせる。
見ると、見るからにそれらしい建物が立ち並ぶ通りの手前、とあるホテルの前で男が誰かと会話している。相手の声は女のようだ。
街灯の明かりに目を凝らしてみると、男の他に長い髪の女が一人立っている。
おそらく商売女の類いだろう。どこかの店で話をつけるか、或いは通信機で連絡を取るかしたらしい。
ブラウン色の、やや癖のある巻き毛に細面(ほそおもて)の顔立ち。スタイルはそこそこだったが、容姿はどちらかというとおとなしめの、地味な印象だ。
(ふーん。ま、あの男にならお似合いかもね。……それにしても、こんな身近にとびきりの女がいるってのに見る目の無い男よねぇ)
そこまで見届けて、ふと手の中にあるソードフィッシュのキーが目に留まる。その瞬間、不意に強い悪戯心が彼女の中に沸き上がった。
「ハーイ、旦那。あら、デートの途中? 珍しいわねぇ」
急に背後から響いてきた声に、スパイクはぎょっとして立ち止まった。
隣の女もその声に振り返り、視線の先にフェイを認めて、訝しげな色をそのまま表に出す。
「な……お前、なんでここに……!?」
いるはずのない相手の顔を凝視して唖然とした顔で呟く。
「ハイ、落し物。こんな大事なもの忘れるなんて、旦那も意外と抜けてんのねえ」
ソードのキーを放り投げられ、片手で咄嗟に受け止めるが、まだ状況が把握しきれないらしい。ただ手の中のキーと、意味ありげな笑みを浮かべるフェイの顔を交互に見比べる。
「……何よ。ちゃんと相手がいるんじゃない」
そこで隣から響いてきた不機嫌な声に、ようやく我に返る。
「もう、あてつけのつもり? 生憎、あたしそんなに暇じゃないのよ」
「…あ? …いや、違う、こいつは…」
明らかに自分より整った容姿を持つフェイを見て気分を害したのか、女は憮然とした顔でスパイクを睨んだ。
当のスパイクは、考えてもいなかった状況にどう対処すればいいのか咄嗟に浮かばないらしく、返す言葉もうまく出てこない。
「あら、お邪魔だったかしら? 気が利かなくってごめんなさいね」
更にそこへからかうようなフェイの台詞が追い討ちをかけ、女はフン、と鼻を鳴らすとコートの襟を合わせて踵を返した。
「それじゃ、あたし忙しいから帰らせてもらうわ。後はその人に相手してもらいなさいよ」
「あ、おい!」
慌てて呼び止めようとしたが、女は憤慨に肩をいからせ、聞く耳もたずといった様子でさっさと立ち去っていってしまった。
彼女の影が消えていった方向をしばし呆然と眺めていたスパイクだったが、ようやく状況が理解できたのか、恐ろしくスローな動きで後ろの相手を振り返る。
「お前……どういうつもりだ?」
思いっきり眉を寄せ、据わった目でフェイを睨みつける。
「あら、親切に落し物を届けてやったんじゃない。感謝くらいして欲しいわね」
悪びれる様子もなく、逆に面白がっているような笑みを向けるフェイに、スパイクの眉間の皺が深まる。
「だったら、後にすりゃいいだろうが」
明らかに、彼らがホテルに入ろうとするタイミングを狙って話しかけてきたとしか思えないフェイの行動に、スパイクの機嫌はますます降下線の一途を辿る。
「わー、やだやだ。カリカリしちゃって。やあねえ、発情した男って」
スパイクをからかうのが心底楽しそうなフェイの表情が、更に彼の神経を逆撫でする。
「お前、俺をおちょくりに来たのかよ」
「おお、こわ。やーね、ジョークよ、ジョーク。お気に障ったならごめんあそばせ」
「………」
「そんな怖い顔して睨まなくてもいいじゃない。何なら、あの女に逃げられた分、あたしが代わりに払ったげようか? ま、あんたには高嶺の花だからそんな度胸ないと思うけどね」
けらけらと尚も笑いながら言うフェイ。
勿論、口からでまかせに過ぎなかった。スパイクが自分に手を出すわけはないのだから、彼が本気に取る可能性などゼロ以下と思っていたからだ。
勿論、普段ならタチの悪い冗談としてそのまま聞き流されたことだろう。
が。
この時ばかりは、彼女は状況を甘く見すぎていた。
その時彼が「普段」とは違ったことを。そして、この状況では彼女の言動が少しばかりタチの悪すぎる冗談であったことを。
そして、彼の中のどこかで、ぱりん、と何かが割れるような音がしたことは、彼女には聞こえるはずもなかった。
「……上等だ」
スパイクは一言呟くと、一旦ホテルの入り口へ姿を消した。
「?」
フェイが怪訝そうに首を傾げていると、彼は少し時間を置いてすぐ戻ってきた。
「それじゃ、付き合ってもらうぞ。…最後までな」
「え?」
会話の流れが飲み込めないフェイの腕を掴み、スパイクは再度ホテルの自動ドアをくぐった。その強引さに、フェイは少しばかり驚きの表情になる。
既に料金を払ってキーを受け取っていたので、彼はフロントを素通りしてそのまま待機していたエレベーターの開閉ボタンを押す。
「ええ? ちょ、ちょっと?」
顔中に疑問符を浮かべていたフェイが、ようやく我に返って慌てて手を振り解こうとするが、腕を掴むスパイクの力は予想以上に強く、少し力をこめた程度ではびくともしない。
まだ現実に起こっている事態が把握しきれないまま、いつの間にかエレベーターの中へと連れ込まれる。
「ちょ、ちょっと! 何のつも……んっ!」
だが、抗議の台詞は途中で遮られた。ドアが閉まった途端、いきなりスパイクの腕に強く抱きしめられ、強引に唇を奪われたからだ。
「ん…んっ! ぅん、んんーっ…!」
一瞬呆然と体を硬直させたフェイだったが、すぐに何をされているかを理解し、必死に身をよじって逃れようとする。
だが、本気で身体を拘束するスパイクの力の前に、彼女の抵抗はいともあっさりと跳ね除けられる。
狭いエレベーターの壁に押し付けられ、両腕は懸命に男の身体を押し退けようとするが、自分を腕の中に閉じ込める力は緩む気配もなく、片手を頭の後ろに差し入れられ、拒もうとする顔を上に向けさせられて更に深く口づけられる。
「んっ!」
指の腹で首筋を撫でられ、思わず緩んだ唇の隙間からすかさず侵入した舌が口内で荒々しく動き回り、ざらついた部分で撫で上げる。
「ぅん……んんっ……!」
叫ぶ暇も抵抗する隙も与えられず、乱暴なまでの力に押さえつけられ、何度も何度も深く唇を奪われる。
口内の奥で縮こまっていた舌先をスパイクは難なく探り出し、強引に舌先を開かせるとねっとりと自らを絡みつけ、舐め回し、強く吸い上げる。
「ん、んーっ…!」
荒っぽいだけのキスのはずなのに、その熱い感触に蹂躙されるたび、フェイの脳裏に痺れが走る。
今まで経験したこともないような、荒々しく、強引な、それでいて全てを吸い尽くされそうな熱い口づけ。
驚きと混乱で埋め尽くされていた思考を、少しずつ、甘い感覚が侵食し始める。
それでも、こんなことをされていいはずがない、と頭のどこかでもう一人の自分が叫ぶ。
(そうよ、なんであたしが…っ…!)
懸命にそう思おうとしても、力の差はどうすることもできず、次々と送り込まれる甘やかな刺激は、否が応でも彼女の体の奥をちりちりと揺さぶり続ける。
「んふ…っ、くぅ…んっ…」
ジャケットを鷲掴みにして引き離そうとするフェイの抵抗などお構いなしに、スパイクは彼女の唇を貪り続けた。
舌を執拗に絡みつけ、何度も吸い、彼女が紡ごうとする言葉全てを奪う。
「っん、んんーっ…!」
あまりの激しさに呼吸が苦しくなり、フェイがくぐもった悲鳴を上げた時、エレベーターが小さなベルと共に動きを止めた。
扉が開く前に、スパイクはようやくフェイの唇を開放する。
嵐のような口づけから逃れ、彼女の思考はまず酸素を確保するために深呼吸することを最優先した。
そのため、さっきまで頭の中を回っていた罵倒の台詞も一時待機の状態となり、唇からは荒い息ばかりが零れ落ちた。
そんなフェイの様子をちらりと流し見ると、スパイクは扉が開き切るのを見計らってフェイの体をいとも簡単に抱き上げた。
「!? ちょ、ちょっと!」
急に自分の体が宙に浮いた感覚に戸惑い、彼にあっさりと抱え上げられたことを悟ると慌てて手足をばたつかせるフェイ。
「何のつもり!? 下ろしてよっ!」
焦って言い募る彼女にスパイクは大して頓着もせず、そのまま廊下を足早に進む。
一番奥の部屋のドアをキーで開け、フェイを抱えて室内へ足を踏み入れる。
女の上擦った声と男のためらいのない足音が、音もなく閉じたドアの向こうへと飲み込まれていった。 |