前書き。
最遊記の8巻をつらつらつらつら読み返しては。
月刊連載とコミックスの違いに思いを巡らせてみたりする。
とにもかくにも私が最遊記をGファンタジー紙上で読み始めたのは
確か6巻の中ごろかそこらで。
直後1巻から6巻まで友人からコミックスを借りたから
最遊記の世界は一気に私の目の前に提示された。
コミックスを一気に読んだときのその世界のエネルギーに圧倒される感覚。
稀にしか感じない、いやもしかしていままででいちばん強かったかもしれない*1
その感覚の嬉しさを、
私は「最遊記が好き」という気持ちの基盤に持っている。
けれど逆に月刊連載ゆえの喜びもあるわけで。
続きを今か今かと待って、とうとう読んで、嬉しいけどまた待たなきゃいけなくて、
そしてその1ヶ月、次は次はと考える、そんな喜び。
今日のテーマはこちらです。
私にとって最遊記8巻は各月待たされることが幸せな巻でした。
そしてコミックス派の方に、「ここで1ヶ月待たされたら人はどんなにたくさん夢を見るか」という実例を垣間見て楽しんでいただけましたら幸いでございます。
それでは本文にまいりましょう。
はい、ここまで読んでくださった雑誌派のみなさま大方のご想像のとおり、
この雑文の対象は基本的にはGファンタジー4月号(つまり3月発売分)です。
第48話 Lose ですね。
そう言えば亭主、連載時には章題ほとんど見ていませんね。
あおり文句なんかの方が目に入ってしまうからかな?
でも言葉の意味なんかを確認したりするのは、本を手にした後の譲れない楽しみかも。
この巻Dが多いとか大文字とか小文字とかここはLつながりだとか、おそらく無意味だろうけど楽しんでいます。
いえいえ、話が逸れました。
三蔵一行が敗北をつきつけられた回。
それは同時に「無一物」をつきつけられた回でした。
物理的な闘いの勝敗と、精神的な論争の勝敗は本来直結するものではありませんが、
迷う者は負けるのは亭主の経験からしても真理で。
そして力強きものの言葉であればこそ、
その存在そのものを認めざるを得ずに言葉を受け入れてしまったり。
*2
カミサマの強さと冷たさは「無一物」を私に突きつけて、
1ヶ月、いや2ヶ月、3ヶ月、「無一物って何なんだ」という問いを
繰り返し繰り返し考えさせられたのでした。
ほんとうはカミサマの強さではなくて、「三蔵」の弱さ(語る言葉の持たなさぶり)が
それを私に突きつけたのかも知れません。
「『仏に逢えば仏を殺せ 祖に逢えば祖を殺せ』
何物にも捕らわれず縛られず
ただあるがままに己を生きること」
『最遊記』第4巻p.49
そんな命題を真として、そして悟浄への執着をどのように是とするのでしょう。
この回、カミサマは生きること、勝ちつづけることへの執着も否定していましたが。
亭主の考えではこれらは「無一物」という教えと矛盾しないのでたいして気にはなりませんでした。
だってこの教え、思いっきり「生きろ」と言っているじゃないですか。
己を「生きろ」とはっきりきっぱりと。
というわけで生きることへの執着はさておいて。
4人の会話を「ダメダメじゃん」と嘲笑ったカミサマ。
お互いの執着を嘲笑っているという解釈は多分間違っていないでしょう。
そしてカミサマは正しい。
これはどうしたって無一物と矛盾するとしか思えない。
「何物にも捕らわれず」仲間にも捕らわれず、己を生きろ、と無一物は教える。
悟浄に逢えば悟浄を、悟空に逢えば悟空を殺せ、と。
仲間じゃなくて下僕と言ったところで何が変わるわけでもない(誰も今そんなこと言ってないって)。
では三蔵は悟浄を殺せるか。
答えは明らかに簡単、殺せない。
殺すどころか捨てることさえできなかった。
(無一物という教えからは捨てることができれば殺す必要は全くないんだけど)
それも捨てようとした挙句に結局捨てることが出来なかったというていたらく。
巧みな展開だ。
どう考えても三蔵は悟浄を捨てられるわけがない。
・・ホントに?
現にそこに仲間を捨てた人(ヘビースモーカーでワガママな子ども思いの赤毛のヒト)がいるのに?
でも三蔵は悟浄を捨てられない。
違う、一読者の私の感情として、捨てられないでいてほしい。
どこからどう見てもこれは執着で。
無一物と矛盾する。
それじゃあ無一物なんてそもそもおかしいんじゃないのという問いを立ててみることもできるのだけれど。
つまり「カミサマなんて間違ってる」と。
光明三蔵さまも、玄奘三蔵くんあなたも、間違っている、と言うことはできるはずなのだけれど。
これがまた私はどうしても「無一物」は正しい、と結論付けてしまうから、悩みは絶えない。
なぜ自分以外の者を殺さなきゃ(捨てなきゃ)いけないか。
自分以外の他者に捕らわれてしまえばあるがままの己は見えないから。
捕らわれるモノは人でなくても教えでも旅の目的でもほんとうは構わない。
問いのかたちで言ってみるなら。
自分以外のなにかを「捨てられない」とき、それはほんとうに己の、あるがままの意思か。
「捨てたくない」「捨てられない」心があるがままの己の一部分でありうることは否定できません。
捨てられないものは私にもいくつかあります。
それは私の心、私の望みです。
だけど「捨てられない」っていう望みはあまりにも巨大。
「捨てられない」以上、そのさき純粋な自分の意思での判断はありえません。
「捨てられない」ほどに重要なものは、必ず己の判断に影響を与えるほどのものであるからです。
例えば仲間の存在とか。
このとき己の意思決定は仲間の行動の影響を受けてしまいます。
「悟浄がカミサマの所へ行ったから」三蔵が悟浄のところへ戻るとの決定をしたように。
例えば「無一物」という教えとか。*3
「無一物」という教えを捨てないとすれば、「その教えに従って」三蔵は悟浄に執着すべきでなく、
西へ向かうという自らの決定を貫くべきです。
こんなふうに「捨てられない」ものに引きずられた意思。
それは「あるがままの己」か。
違うでしょう。
それは「捨てられない」ものに捕らわれた、あるがままでない己。
それ以前にそもそも何かが「捨てられない」とき。
どうしても、何度考えても試してみても、どうしても捨てられないとき。
人はその「捨てられない」ものに執着している。捕らわれている。
そのときその「捨てられない」ものは、既に己の意思決定の基準に組み込まれているのです。
「無一物」を正しい従うべき教えと考えているからこそ、「無一物」は捨てられない、というように。
「捨てられない」ことそれ自体が「あるがままの己」ではないのか。
そう考えることができたら悩まずにすむのだけれど。
己の意思決定に己以外の何かを組み込んでしまうこと。
己以外の何かを絶対の判断基準としてしまうこと。
それでは決して己を生きてはいないのだ。
師の教えに従って生きていくのなら、そのひとつの教えにただ従っていくのなら、
その人生は師に引きずられている。
仲間と共にあるために生きていくのなら、仲間の行動に応じて自分の行動を決定するのなら、
その瞬間*4自分は仲間に引きずられている。
師と自分は、仲間と自分は、対等である筈なのに。
この世に生を受け、今ここで呼吸していて(あるいは過去に呼吸していて)
やがてひとりで死んでいくという意味において、
どうしようもなく対等であるはずなのに。
対等でなく引きずられるのは勿体無く悔しいこと。
この世に生まれてきた以上、いまここに在る「己」を生きたいのに、そして生きるべきなのに。
だから己でない存在は、そのすべてを捨てなければならない。
何もかもを捨て去って、己の意思に影響を与えている己でないものを一つ一つ剥ぎ取っていく努力なしには、
あるがままの己を見つけることすらできない。
ましてや生きることなんて。
だから「無一物」は「あるがままの己」と他者への執着の両立を許さない。
己以外のすべてのものを「無一物」は否定する。
それが己を生きるために必要最小限の前提だから。
こんなふうに思って、無一物という教えはどうしようもなく正しいと思って。
でも悟浄は捨てられない。
捨てないで。お願いだから捨てないで。
そう思いながら、でも。
これはもはや内心の悲鳴。
教えは正しいと思うのに。残酷だけど正しいと思うのに。
そしてそれが最遊記の魅力の欠かせない部分と知っているのに。
だけど仲間は捨てないで。
それは次の問いを呼ぶ。
「悟浄を捨てられる三蔵」はほんとうに三蔵なのか?
「捨てられない」ことそれ自体が「あるがままの己」ではないのか。
ついさっき、それは違う、と判断したその自分が、全く逆の論をも立てる。
かけがえのない何かを「捨てられる」自分はもはや「あるがままの己」ではないに違いない。
さっきも確認したんじゃなかったっけ?
「無一物」に捕らわれるのは「あるがままの己」ではない。
「無一物」に従えば「無一物」に従っていない。
「捨てられない」と叫ぶのは己の感情。
けれど己の感情に引きずられれば、己を生きることにはならない。
けれど己の感情を押し込めるなら、それも己を生きていない。
あるがままの己、それそのものの矛盾を。
無一物という教え、それそのものの矛盾を。
そして矛盾と同時に正しさを、このお話は突きつけてくる。
確認する。問いを突きつけられたのは私。
私は『最遊記』の三蔵にどう生きてほしいと望むのか。
この問いには当然ながら先がある。
私は私をどう生きたいと望むのか。
問いにたじろぎさまよい歓喜する。
このお話が好きだから。
それで。ここからあとがき。
コミックスなら否応なく次の回を読んでしまうでしょう?
ごく当然な話。
こんなうめくほど魅力的なところで読み止まることなんてできません。
ですが連載中であれば1ヶ月待つしかない。
わめく。考える。溜息をつく。予想する。
贅沢な1ヶ月を過ごさせていただいたことは間違いありません。
次の回、というのは峰倉先生のひとつの答えのかたち(のはじまり)だから。
答えの始まった問いにはなかなか真摯に向き合わないから。
(8巻のラストもかなりの「問い」ではありますが。)
連載を追えてよかったなあ、と亭主はつくづく思っています。
結局のところ「好きだ」と。
どの感想もこれで終わる落ちが情けなくも幸福なのでした。
*1 過去にまとめ読みで圧倒されたもの:
漫画なら『CIPHER』(サイファ)成田美名子 『ベルセルク』三浦建太郎
読み物なら『大地の子』山崎豊子 『指輪物語』J.R.R.トールキン
*2 ネタばれになるのかな、峰倉先生はこの先の連載で、それは違う、と言ってくださっているのだと思う。
*3 元々の論の対象が「無一物」なので例証としては不適切このうえないのですが、ごまかさせてください。
*4 別の瞬間には自分が仲間を引きずることもあるかもしれませんが、
すべてのどんな瞬間にも己は己を生きるべきであり、
他に引きずられてはならないものと考えています。
衝動買いならぬ衝動書き。衝動に応じた間隔とはいえ、なんとも久方ぶりですみません。
久しぶりに、どうしても「亭主の感情」を書きたかったわけです。
物語とはまた少し違うもの(題材が違うんだけど)を。
(最遊記物語は・・難しそうだ。)
でも衝動書きとは言え、書き始めてから5日経っているのですけれどね。
次回は今回の続きというか解説編。すぐ、でなければ1週間の夏休みの後。