| もしもクレオパトラの鼻がもう少し高かったら 3 |
膝を抱える。 俯く。 そうしたら何も見ないから、世界には俺一人だけ。 枯れた親父の顔が脳裏をよぎる。 屋根の下のざわついた気配が厭わしい。 親父は、何故逝ったんだ? それは埒もない思い。でも。 何故永遠に生きていてくれない? もう二度と。親父は俺を見ない。 俺に笑い掛けない。俺の頭に手を乗せない。 それって、ものすごく、悲しんでいいことだよな? じっと俯く。 一人で親父を思うと、堪えがたいほどに時は遅い。 いくつもいくつも思い出すことはあるのに。 思うそのことの実りのなさに自分を嘲う。 それでも思い出さずにいられないのに。 屋根の下ではどうしてみんな、 悲しみなのか苛立ちなのか知りようのない不安定な感情が、 泣きたい気がするけど。 泣ききれない。 かたん、と誰かが上ってくる音がした。 柔らかでもしっかりした足音は、俺の神経に障らなかったから。 だから間違いない、あんちゃんだ。 俯いたまま俺は僅かに上目づかいでその姿を認める。 あんちゃんは何も言わずにゆっくり歩き、俺の隣に腰を下ろした。 ほんのすこし、俺はそちらに体を傾がせる。 幾重かの布の向こうには、温もりがある。 あんちゃんは肩を丸めていないから、 前ってどこ。あんちゃん、何を見てる? 思い出すことは山のようにあるはずだ。俺よりも、ずっと。 あんちゃんの眼には何が映っているのだろう。 親父の影がちらついているはずだと思いたいのに。 きっと違う、と分かってしまう。 だってそれなら前なんか向けねえ。 前ってどこだ? あんちゃんの手が伸びてきて、下を向く俺の髪をくしゃっとかきまわした。 あんちゃん、俺なんか見てくれてなくていいから。 俺よりあんちゃんのほうがきっと哀しいのに。 俺を慰めてくれなくていいから。 自分を後回しにするありさまが、まさに親父そっくりで。 今度は、泣けた。 涙を零したことがあんちゃんに気づかれないように、 あんちゃん、そんなに急いで、親父にならないでくれ。 そう。あんちゃんは前を見ている。 親父を見ているんじゃなくて。親父の見ていたものを見ている。 それが後を継ぐってことだけど。 だから前が見える。だから先に進める。でも。 まだ早いよ。 早過ぎるそれは辛過ぎる。 乗せられた手の温もりを感じながら、俺はただ悲しくてならなかった。 親父を思い出すのは実りのないことじゃなかった。 それはあんちゃんに繋がっている。 だけどあんちゃんは? 前が見られることは確かに羨ましいのにな。 でも今はまだ。それよりも。 俺はあんちゃんのほうへもっと体を寄せた。 俺の存在はあんちゃんを慰められるだろうか。 いや、慰めるなんて贅沢は言わねえ。 ひとときふたりで悲しむことくらい、許されるだろ? かたちにならない言葉が伝わったかどうかは分からない。 あんちゃんはもう一度俺の髪をくしゃくしゃにした。 ふたりで過ごした無言の時間は長かったのか短かったのか。 それは旦の声で打ち切られた。 「・・・兄さまには王を名乗っていただきます。 顔を上げると弟が屋根の下からこっちを見上げている。 気がつけば俺たちの後ろには、何かを言いたそうな顔の太公望も。 「悲しむ時間もねえって言うのかよ!」 瞬間、込み上げてくる苛立ち。 けれどあんちゃんは何もかもを覚悟しているから。 あんちゃんが言わないのに俺が口にすることはできない。 進むべき道はあんちゃんの目に映っている。 あんちゃんはその目を俺に向け無言で微笑んだ。 それから太公望と旦を見て立ち上がり屋根の下へと下りていく。 前へと進む新しい周の王。 けれど。 あんちゃん、もっと悲しんでいいよ。 屋根に残された俺はひとり、 顔を上げたまま涙を流した。 |