お正月



さて嘘報告と申しますかなんと言うか。
ひとまず、言い訳をしておきたいのは次の一点。「史記以外のものには当たってません!」
(強調符までつけて威張って言うことではありません。(^_^;))
すなわち、話のほとんどがでっちあげである、ということです。

私は指輪物語が好きですが、決してトールキニストではないように、ドイルも悪くないですが、シャーロキアンからは程遠いように、中国史は好きですが、本当にお好きな方の足元にも及びませんです。
なので、でっち上げの正確性(変な日本語だ。でも、でっち上げるにしても、なるべく明らかな嘘は入れたくない、あるかも知れないって線ででっち上げたい、ということですね。そこで問題になるのが基礎知識、ということになるわけです。)は非常に疑わしい。
まあそれでも、嘘をホントとして流布する気もございませんし、ホントのことはそれだけで楽しいものですから。
ここからここまでが完全なでっち上げ、ここからここまでがホントです、という線を引いておきたいがための嘘報告、参りましょう。

お気づきの点があればぜひ、ご教示くださいませ。


1 史記

で、まず史記。
「史記以外のものには当たってません」という前提で、さて、史記には何が書いてあるのか。
いやはや、これは至ってシンプルです。

● 周本紀第四。

(姫昌様は)「在位中は、殷の法律制度と暦を改めて周の制度暦法を作り」云々。(小竹文夫・小竹武夫訳 ちくま学芸文庫)

これだけですか?
ええ、これだけです。(笑)
すなわち、姫昌様が改暦をした、という事実だけは(史記による限り)ホントです。
そのほかについては、沈黙。

あ、全ての事柄について史記を信じていい、とはちょっと言えません。
しかし、少なくとも周は殷と違う暦を採用したということは、史記以外のものに拠っても大丈夫、ホントだと・・・思います。
少なくとも戦国時代以降、そういうことにされていたってことはホントです。

もって回った言い方ですね。
古代の中国には六つの暦があったと言いまして、すなわち黄帝暦・せんぎょく暦・夏暦・殷暦・周暦・魯暦。(せんぎょくも皇帝サマの名前です。)
が、これら古暦の説明はあっても、殷で殷暦が、周で周暦が使われていた、と書いてあるものは見あたらない。逆にWikipediaには、「実際の殷・周の暦とは異なっており、戦国時代以降、仮託して作られたものである」とはっきりきっぱり書いてある。(^^ゞ

黄帝まで遡っちゃうと、私の感覚としても、ねえ。
いつの時代かはともかく「黄帝暦」と呼ばれているものに似た(か同じ)暦があったこととか、夏と殷と周の暦はおそらく違っていたこととか、それはたぶん大丈夫なんだろうけど、周暦はこういうもので、それが周で使われていた、それを姫昌さんが導入した、とすべて一対一対応で言い切るのはたぶん無理なんだろうなと思うところです。

あれ、なんだか話がずれたようです。史記に戻らなきゃ。

実のところ、史記を調達した当初の目的は暦法の話探しではありませんでした。
収穫祭か新年祭か、なにかの行事が確立してないか、ついでに式次第もわかればいいな〜と思っていたのです。
季節的にはむしろ収穫祭だし。そもそも農業を事とするお家柄だしね。

ま、しかしその手の記述は見当たらなかった。
それじゃあまあどちらかでっち上げようか、としたときに、・・・収穫祭の行事の方が、イメージしにくいですよね?(笑)っていうか、主要作物も分かってないのに(←私が)書けるかぁっ!と。

周の正月は11月、っていうサイトの記事も見かけて、あ、じゃあ新年祭で行こうか、と。 (ここには大いなる勘違いあり。→2)
そういえばそうだよな、改暦してるんだよな。
改暦したの発ちゃんだっけ、姫昌様でよかったっけ?・・・あ、いいじゃん。
結局史記が使われたのって、この「あ、いいじゃん」の部分だけかもしれません(苦笑)。

ちなみに、本紀を読んだのは実は今回初めて。(^_^;)
世家は買っては来たものの、上記のとおりほとんど使用せず。しかし世家は一度読んだのに*、どこへ行ったんだか・・・。
列伝はもともと家にあったんですけどね、もちろん今回は用がございません。
書・表は・・・暦書、読んどくべきかしら?ううむ。

<念のための蛇足>
 本紀=歴史のメインストリート。王権をとった王朝ごとのお話。 でも何故か、世家よりも列伝よりも明らかにマイナー。
 世家=文字通りビックファミリーの物語、すなわち、国別の年代記。 斉太公世家とか、魯周公世家とか、封神的においしいのはこれ。
 列伝=愛すべき脇役たちの物語。普通に読んで一番面白いのはやっぱりこれ。 ここだけ岩波文庫も出ている。
 表は表(笑)。書は制度史、でいいのかな。
● 暦書第四。

史記にしか当たってません、と申し上げた手前、史記にはちゃんと当たっておくべきかと思い直し。

で、暦書第四。
「王者が天命を受けるときは、必ず初めを慎み、暦を正し服色をかえ、天行の本を推して、その意を承(う)ける」、そうですよ。
「天行」には「天の運行」と注がついているけれど、「本」って何?「ほん」じゃなくて「もと」だよね?・・・で?
いえ「初めを慎み」も、「その意を承ける」も、わからないのですけどね(笑)。

とにもかくにも天命を受けた王様が、暦を決める。
もうちょっと正確を期しましょうか、平凡社の世界大百科事典「暦」の項での訳はこう。
「王者が姓を易 (か) え天命を受けると必ず始初を慎み、正朔を改め服色を易える」(薮内清)。
「姓を変えると」だから、一人ひとりの王サマごとじゃなくって王朝ごとに暦を改める、と。

こんなふうに、王朝が変わったら暦も変えなきゃという政治的イデオロギーは、同じく上記事典によれば秦の時代に始まったらしいですが、姫昌様がそう思っていたかはともかく、姫昌様を描いた司馬遷はそう思っていたわけでございます。
この考え方は2000年以上下って清朝まで踏襲されます。もっとも、漢からこちら、お正月にはあまり変化はないようですが。
だから王朝ごとの(←ここですでに微妙だけど)六つの暦が仮託されたりする。

堯も舜に、舜も禹に、言っています。「天の暦数はなんじの身にあり」(暦を作るのはお前の責任)。
実際、王朝ごとに暦を変えるかどうかはさておいても、誰かが暦を決めて知らせてくれないと、民にとっても生活に支障が出ます。日々の生活そのものというよりも生活の糧を稼ぐため、農業に。

● 農業のための暦、太陽太陰暦。

私たちだってカレンダーを買わなくちゃやっていけません。
でもまだ私たちは太陽暦で動いているから、月ごとの日数さえ覚えていれば、支障があるのは4年ごと、いえ4年に1回のうるう年ぐらいは覚えていられるだろうから、さらに言えば100年ごとのうるう年でない年ぐらい?400年に1度とかは、もうお手上げですけれど。

けれど古代の中国の暦は太陰太陽暦。
月の満ち欠けが月のベースで(「月」ですからね。)、それだけなら夜に空を見れば何とかなるでしょうけれど(とはいえ29日の月と30日の月がある(^^ゞ)、それだけでは四季がわからない。
1年が12ヶ月と思って「月」だけを見ていたら、3年で1ヶ月くらい簡単に狂ってしまいます。
そこを去年と同じように、その前の年と同じように、結果として1ヶ月も早く種を蒔いていたら農業なんてうまくいきっこありません。
もちろん今年は暑いの寒いのでみんなそれぞれ調整はするのでしょうが、その客観的なものさしとしての暦は必須。

だから四季、すなわち太陽による暦と月による暦を合わせて「暦」を決めて知らせてくれる誰かが必要になるわけです。みんなが自分で計算するのはちょっと無理。
国を治めるということは、要はみんなが生きていけるようにすることですから(と、啓蒙君主的に言ってみたりしなくても、作物が取れなければどんな専制君主も困るのは間違いない。)、暦を決めるのはまさに王様のそもそもからの当然のお仕事であるわけです。

王朝が変われば暦を変える、というのは、そのあたりの哲学によるのではないかと思ってみたり。
まあ、古代の素朴な(といっても私の理解を超える(^_^;))暦は放っておいても長く使うとずれていくし。王朝の交代って、暦に限らず古いシステムがもう限界、ってことでしょうから。 王朝末期(末期でなくても)、国が荒れれば暦が国に行き渡らないことも想像がつくし。

ということで。
王朝が変わったら、暦を何とかしなくちゃいけないのでした。


2 周暦と冬至

さてでは、周暦とはどのようなものだったのか。
きっと細かくはいろいろあるのではありますが、重要なことは(そして私が知っていることは)ただ一つ。

周暦では一年は冬至の月から始まります。

これがすべてです。
ちなみに、殷暦では冬至の次の月から、夏暦では冬至の次の次の月もとい立春の月から、一年が始まるとされています。

ところで、冬至の月、って何?
・・・すいません、これは亭主が勝手に作った日本語でして。(^^ゞ
真っ当に申し上げれば、冬至を含む月です。(だってこれだと作中に使うには語呂が悪いんだものm(_ _)m。)

● 冬至の月。

で、冬至を含む月って?
ここで先程の、四季すなわち太陽暦と月のめぐりすなわち太陰暦との調整のお話になるわけです。

まずは先程申し上げかけた勘違いの話。
  > 周の正月は11月、っていうサイトの記事も見かけて、あ、じゃあ新年祭で行こうか、と。
ちょっと待て、正月って、「1月」って意味でしょう?
「正月が11月」って、11月ってどういう意味?その数字の表記に意味あるの?

こんな疑問をすぐに思いつかないで、あ、じゃあ・・・と思ってしまった自分には笑うしかありませんが。

このサイトの記事は間違いではありません。もう少し説明が欲しいとは思いますが。(^_^;)
暦書にも、「夏の時代は正月をもって年初とし、殷の時代は十二月をもって、周の時代は十一月をもって年の初めとした」と書いてございます。
ですが、あ、じゃあ・・と思った亭主がいまの11月を想定している、それはまったくの勘違い、間違いです。


「冬至」とは、日の出ている時間が一年で最も短い、太陽が一年で最も低い、ものの影が一年で最も長い日。
夏至はその逆。春分と秋分はその中間、昼と夜との長さが同じ日。
皆様ご存知のこれらの特別な日は、太陽を基準にした特別な日です。
これらの日を基準にして農業をやっていれば、季節がずれてしまうことはありません。
もっとも、たった4つの区切りでは農業には大きすぎます。このため、冬至と春分の中間である立春、さらに冬至と立春の間を三等分する日である小寒、大寒など、もっと細かい区切りが意識されるようになっていきます。これが二十四節気で、その原型は遅くとも殷の時代からあるようです。

とはいえ、これらの日を基準にして生活していると、月のめぐりとはずれていきます。
冬至は、毎年満月なわけでも、毎年新月なわけでも、毎年三日月なわけでもありません。
新月になったり、満月になったり、三日月になったり。

一方で月の満ち欠けが「月」のベース。
1か月は新月の日からはじまって、15日ぐらいが満月で、また新月の日が次の月の1日です。

さて、そこでどうするか。


いまの太陽太陰暦、通称「旧暦」では、月のめぐりによる暦と太陽のめぐりによる暦を合わせるために次のようなルールを立てています。

 冬至を含む月は必ず11月と呼ぶ。
 同様に、春分を含む月は必ず2月と、夏至を含む月は必ず5月と、秋分を含む月は必ず8月と呼ぶ。


これはいまのルールです。古代中国のルールではありません。だけど、いまのルールの方が分かりやすいので、まずはここから。

このほかにも、大寒を含む月が12月、雨水を含む月が1月、穀雨を含む月が3月・・・とルールがあって(二十四節気のうち、一つ置きの12日分にそういうルールがくっついている)、これらの特別な日を含まない月が閏月になる。多少の例外はありますが、これがいまのルール。
だから、閏月は年の途中に挟み込まれます。閏三月と言ったら、3月と4月の間に挟みこまれた閏月。
こうやって、なるべく太陽による季節と月の名前がずれないようにされているのです。

さてでは古代中国では。
そこでも、閏という概念はすでにありました。中国四千年(五千年?)の英知は、三千年前でもすでにすごい(笑)。
史記によれば、少なくとも先王の時代(←誰のことだ(^^ゞ)閏は年の終わりに入れたらしいです。
「周の襄王の二十六年に、三月を閏月としたので、「春秋」はこれをそしっている。先王が暦を正すときは必ず、朔旦は月の初めに、中気は季節の半ばに、閏余は年の終わりにした。」と暦書はいうておられます。
ここでは周暦は孔子サマにけなされておりますが(苦笑)、まあともかく、古代の中国でも閏月を活用して、月のめぐりと太陽の季節を調整していたわけでございます。

(ところで、ここでの「中気」って何だろう・・・「中気」ってのは上記の冬至、大寒、雨水、穀雨など、月名を決める二十四節気のはずなんだけど、いやここでもたぶんそうなんだけど、それで閏を年の終わりにできるのか・・?すいません、どなたかお分かりになったら助けてください<(_ _)>。)

しかしながらですね。どうしてさっき、「先王の時代(←誰のことだ(^^ゞ)」なんてわざわざ書いたかと申しますと。
史記を書いた司馬遷さんの時代、漢の暦(太初暦)では、いまのルールと同じく、閏月は中気のない月、すなわち年の途中に入るらしいのです(^_^;)。
太初暦では、冬至の月が十一月。立春の月が正月らしい。
(立春は中気じゃないんだが・・・どうなっているんだろう???)


もう何だか、司馬遷さんの視点がどこにあるんだかよく分からなくなってまいりましたが。

結局のところ申し上げたかったことは、月の名前を決めるのは、太陽の季節を基準とした冬至をはじめとする特定の日であるということです。

閏、があるということは、すなわちそういうこと。
だから「冬至を含む月」っていう概念が、意味を持つ。
いま私たちの使う太陽暦では冬至の月は12月ですが、たまたま12月に冬至がある、と言ってもいい。冬至の月は12月、だから何なの?って感じですよね。
太陽太陰暦では、「冬至を含む月」という考えが先に来る。冬至を含む月、だから11月(あるいはお正月。)。

司馬遷さんが「夏正以正月、殷正以十二月、周正以十一月」と書くとき、それは司馬遷の生きている漢の暦に基づく「正月、12月、11月」のはず。
で、そこでは冬至の月が11月。
ものすごく当たり前の話なのですが、これは旧暦の11月です。
さて亭主が何を勘違いしていたかというと・・・(-_-;)
やれやれです。
(・・・だって現代の日本語のサイトだったから(←当たり前だ)、ついいまの11月だとほんとに思ったんだもん・・・)

● おまけ。

ちなみに、ぜんぜん間に合ってませんがこの嘘報告を「12月2日までには上げたいところ」と書いていた12月2日は何の日かというと。
これが今年2005年の、冬至の月の朔日、旧暦11月1日です。
書き始めてから気がついた、仮想お正月当日でした。

朔旦冬至、すなわち冬至の日がまさに1日、新月の日だとおめでたかったんですけどね。
まあそこまで上手くは参りません。
前回の朔旦冬至は1995年、次は2014年だそうですよ。




若水や郊祀も書きたくはありましたが・・・力尽きました。
そっちの方がよりでっち上げなのに、すみません。
長々しい文章をお読みくださったお客さまには感謝に堪えません。ありがとうございました。
参考リンク先

まずはWikipedia。結構日ごろからお世話になっています。
あちこち使わせていただいておりますが、なによりも、

いつもながらの おこよみ焼き > 暦の読み方> 閏月の入り方
ほかにもあちこち拝見しておりますが、かゆいところに手が届く充実ぶりです。

こよみのページ > 二十四節気とは
過立斎日進譚 > 《竹書紀年》の発見暦の相違による錯誤

事典で、かつ有料で恐縮ではありますが、使いでがあります ネットで百科@Home (平凡社 世界大百科事典)

毎度のことですが、文責は水波にございます。
ご指摘はメールまたは掲示板で頂けますと幸いです。
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