甘い水 (1)
「ロイド兄ちゃん、ライナス兄ちゃん!」
牙の隠れ家、一仕事終えて戻ってきたロイドとライナスを出迎えたのは、廊下の反対側から駆け寄ってくるきゃしゃな義妹の姿だった。跳ねるような楽しげな足取り、両手には何やら棒のようなものを掴んでいる。
「お帰り、兄ちゃんたち」
「おうよ」
にかっと大口を開けてライナスが答える。
「ああ」
穏やかに微笑んでロイドが答えた。
兄弟の父親、黒い牙の首領ブレンダンの後妻に入ったソーニャという女は、とんでもない食わせ者だ。親父を良いように手玉にとり、黒い牙自体をその手に握ろうと気味の悪い連中を引き込んいる。
だが、その連れ子として付いてきた明るい青の瞳の義妹は、素直で可愛らしく、誰にでも真っ直ぐに話しかけてくる。最初は距離を置こうとした兄弟ではあったが、振り払っても無視しようとしてもなお、にこにこと見上げてくる、哀れなぐらいに人懐こい青い目を見てしまった。まずはライナスが折れた。小柄な少女と笑いあう大男は、子供に懐かれた大犬のような様である。とてもあの女の娘には思えねえよ、と少女の姿を見るたびに言うようになった。
ロイドもいつのまにか、苦笑しながらも、この少女を受け入れていた。
少し跳ねている緑色の髪が、触れることが出来るほどに近くに来ると、廊下一杯に、思いきり甘い香りが漂った。
奥歯が疼くようなその匂いに、ロイドは心の中だけで顔を顰める。酒飲みの常として、味にしろ、匂いにしろ、甘ったるいものはどうにも苦手だった。
「なんだあ、ニノ。美味そうな匂いじゃねえか」
ライナスのほうは、甘いものも平気だ―――というより、食べられるものなら何でも喜んで食う。
「あのね、台所の人たちに教えてもらって、キャンディ作ったの」
ロイドはすばやく目を走らせ、にこにこ笑っている義妹の仔細を検める。その丈の短い青い上着にも、細っこい足の周りでひらひら舞うスカートにも、所構わず得体の知れない半透明のべたべたしたものがくっついている。今頃、台所は戦争の後の惨状を晒していることだろう。
「これ、兄ちゃんたちの分だよ」
ニノは全開でにぱっと笑いながら、両手に捧げ持っているシロモノを差し出した。
ロイドから見たそれは、木の棒の周りに、べたべたとくっついた、恐ろしく大きな糖蜜の塊であった。半透明の蜜色の中、なにやらところどころに焦げらしい黒っぽいカスが混ざっている。それを、真面目くさった顔で丁重に受け取ると、握った棒がべたべたと掌に張り付いた。
「ありがとうよ」
「うっわ、キャンディってこれか、すっげえなニノ、こりゃキャンディっていうよ……ぐわっ」
余計なことを言いそうなライナスの足の小指のあたりを、ブーツの踵で踏みつける。
「どうしたの、ライナス兄ちゃん」
「ああ、気にすんな。釘でも踏んだんだろ。ありがとうよ、ニノ。部屋に持ってって食うからよ」
右手がべとべとで塞がってしまったので、残った左手で義妹の頭をくしゃくしゃにしてやると、青い目が嬉しそうに輝いた。ロイドもライナスも、どうもこの義妹には弱い。
ぱたぱたと軽い足取りで、走って台所に戻っていくニノの後ろ姿が消えるなり、ロイドは右手にへばりつく棒を、踏みつけた足を上げて片足跳びをしているライナスに向かって差し出した。
「ひっでえよ、兄貴。小指の先っぽだけ踏まれたぜ」
デカイ図体の背中が情けなく丸まっている。
「てめえが余計なこと言おうとするからだ」
「俺はただ、とてもキャンディには見えねえって―――」
「余計なことだろうが。ほら、俺の分も食え」
「おう、ありがとよ」
本気で喜んでいるらしいライナスの空いている手に、糖蜜の固まりが纏わりついた棒を押し付ける。両手に棒つき飴を掴んだ大男という、我が弟ながらそれはどうなのか、と思う姿から目を逸らす。笑ってしまうからと言うよりも、出来ることなら、その甘ったるい匂いごとどこかに行って欲しい気分だったからだ。
「兄貴だめだぜー、逃げようったって」
自分の部屋に退こうとすると、すぐ後ろ、ライナスが頭を下げながら扉をくぐって一緒についてきた。なんでこんな時ばっかり察しが良くていやがるんだ、と本気でムカつく。
「せっかくニノが作ったってんだから、食ってやればひひはへへはよ…ひょげ」
へんてこな声とも悲鳴ともつかぬ音を上げている弟を見る。ロイドの寝台に座って、ニノ作の妖しい塊をデカイ口一杯にほおばって、ふがふがと苦しんでいた。糖蜜が舌も顎も一纏めにべったりくっつけてしまったらしい。精一杯に口を開こうと努力しているらしく、顔が赤く染まっている。
「大丈夫か」
心配するというよりも、どうにも呆れた感じの口調になった。ライナスがこっちを見て、なんとも情けない顔をする。んぐぐぐぐ、と大男が全力でがんばって、少しばかり口が開いた。その口の中一杯に、糖蜜の柱らしきものが見える。何本もの柱が上顎と下顎を繋いで、口を塞いでしまっているのだ。
ライナスがぶるぶる震える手で差し出してきた、もう一方のべたべたの固まり付きの棒を仕方なく受け取り、さてどうしたものかと思案する。下手にどこかに置いたら、二度と剥がれなくなりそうだ。蝋燭の受け皿を見つけ、そこに置こうとするが棒が手から離れない。どうにかもう一方の手も使って引き剥がすと、どろりとした固まりはくんにゃりと皿に身を横たえていく。ゆっくりと崩れ、皿を満たしていく粘った塊を、ロイドは胡散臭げに見守った。
―――こいつは、下手なトマホークよりよっぽど破壊力がありそうだな、ニノ―――
「ふがほへ」
苦悶らしき音が聞こえたので、振り向いてみる。ライナスが半分むせかかりながら、口の中の凶器と格闘していた。
面白いのでそのまま見ていることにする。
にちゃ、にちゃと粘つく塊を噛もうとしているのだが、塊がでかすぎるのと、粘性が高くて口の中にへばりついたまま、一緒に動いてしまうのとで、咀嚼の体を成していない。大きな口の端から、唾液がこぼれてきていて、大きな手がそれをぐいとぬぐった。塊をちょっとずつ口の中から剥がして飲み込むしかないだろう。喉仏がどうにか嚥下の形に動き、つり気味の眉と目が思い切り寄せられ、これ以上ないぐらいに弱りきった表情を浮かべてロイドを見つめてきた。
困惑の極み、口に魚の骨が刺さって抜けなくなった半べその犬、といった顔の弟を見て溜息をつく。このまま、窒息死でもされた日には、人聞きも悪いが、寝覚めの悪いことこの上もない。
仕方が無い。
キャンディとやらを、ご馳走になることにするぜ、ニノ。
ロイドは思い切り顔を顰めながら、やたらと甘い匂いのするライナスの口元に唇を寄せる。
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