「愛しい主のしつけ方」 (1)
「そこの兄さん方、今日の宿はもう決まったんだろ。止り木亭に寄っていきなよ。リキア名物、樽酒とあぶり肉、エトルリアの葡萄酒にベルンの燻製、なんでもありだ。さあさ、とっておきのオスティア美人のお出迎えだぜ」
オスティアの街の中央を貫く街道から、一本外れた裏通りにある酒場の前、姿の良い若い衆が、通りかかる旅人達に向けて、威勢の良い声を掛けている。
すっと伸ばされた背は美しく、歩を進めるのもきびきびとしていて、小気味がいい。通りに向かって張られる声は緩急自在で調子良く、雑踏の中でも行きかう人の心を惹いて、酒場の前、ふと足を止らせる。
若者の名をマシューという。
夕刻、傾く日差しに気づいた旅人が、今日の宿を探して足取りを緩める刻限である。オステイアの裏街は、夕日の赤に染まりながら、その華やかな顔を見せ始めていた。昼間は静かな生活の場所であった通りに、街道から、街中から人々が流れ込む。酒場やら娼館やらの呼び込みの若衆がたち、思い思いに声を張り上げる。
よく通る明るい質の声で、酒場の呼び込みをしていたマシューは、足を止めた旅人の一人を、腕を腕に絡ませて捕まえ、にっこりと笑いかける。旅人はその笑顔に見とれたように、ぼやっとした顔を晒した。
「ここは、親父さんの岩みてえな顔を抜かしたら、サービス満点だぜ。さあ、入った入った。お客さんだぜェ、姐さん方」
旅人の腕を取って、小さな木戸の中に押し込んでやる。石造りの店構えの入り口は狭いが、中は客が百人ほども入れるだろう。ここ、止り木亭は地元の下町っ子も一杯ひっかけに立ち寄ることの多い、人気の有る酒場である。
エトルリアとベルンを結ぶ交通の要所であるオスティアの酒場には、東西から酒と食べ物が集まり、華やかに着飾った女たちが酌をする。それに惹かれて、身分の貴賎を問わず―――ある者はその身分を隠して―――人が集まる。
そうやって、雑多な人が立ち混じる場所には、ワケありの人間たちが紛れ込み、怪しいモノが取引されたり、とっておきの情報が売り買いされたり、といった裏の顔もある。
もとよりオスティアはエトルリアとベルンを結ぶエレブの臍、物資と情報の集積地である。エトルリアとベルンをつなぐ街道沿いにひらけたオスティアの街は、エレブを行き交う物と人の通り道であり、関でもあった。
エレブ大陸の南岸、二つの大国エトルリアとベルンとに挟まれているリキア同盟は、二十と幾つかの小公爵領の集まりにすぎない。
リキアの盟主であるオスティア候は、手元に集まる情報を器用に繰り、同盟関係にあるリキアの小候国を束ねながら、エレブの華と称えられるエトルリアと、竜騎士団を抱える武き国ベルンの動向を窺う必要があった。
そのために、直接の手駒として多くの密偵を使い、流れる情報の糸を手繰り寄せ、玉石混交のデータの束を統括する。
オスティアの侯爵に必要とされるのは、君臨する力ではなく、統治する才である。千年の世を経て永き封建の世にあっても、代々のオスティア候の有り様は、君主ではなく、むしろ政治家なのだ。
オスティアの政治、外交の力無くしては、平地沿いに点々と存在するリキア諸国は易々と大国の侵入を許し、あるいは加盟国の内乱によって、とうに滅びていたであろう。
公爵の統治を支えるのは、地領を持った貴族たちではなく、オスティアを通る物資を扱い、財力を蓄えた商人たちだ。オスティアの街は、そこを故国として愛する商人たちの保護を受けて発展し、古き大国には無い自由の気風に満ちている。
今から半年ほど前、オスティア候の代替わりががあった。。
その代替わりの披露目の場で、新たにオスティア公爵の名を継いだウーゼルは、列席したリキアの君主たちに向かい、リキアが生き残る上での封建制の無意味と貴族の無策を公言してはばからなかった。反感を買うのを承知の上でのことである。
それは、領主同士の小競り合いの絶えぬリキアに対する警鐘であり、その場にいた両大国の監督官に対する牽制でもあった。
ウーゼルなりの方法で、エレブの諸国家間で行なわれているパワーゲームに参加することへの意思と、自らの立場を表明し、挨拶をしたのである。
常に冷静でありながら計算の上で大胆な行動をとることの出来るウーゼルは、オスティアの後継として、その身と意思を磨かれてきた統治者として、君主としての若さを感じさせぬほどの厳しい意志を顕して、エレブの表舞台へと立った。
新公爵の即位を迎え、さらに賑やかさを増したように思われる、リキア一の都市。大陸を行き交う人々が一時足を止める裏街の酒場は、世界中の裏情報の集まる場所であり、「オスティアの遠目」とも「糸手繰る蜘蛛」とも呼ばれる者たちが密やかに、途切れることなく出入りする。
止り木亭で呼び込みをしているマシューは、そういった細作たちの一人、オスティア候ウーゼルに忠誠を誓う密偵であった。
「オスティアの目」の倣いにより、マシューというのは通り名である。背が高いというほどではないが、手足の長いバランスの良い体つきで、その仕草は、猫科の生き物めいてしなやかで隙がない。少し赤みの入った亜麻色の髪。やはり猫を思わせるようなアーモンド形の明るい茶色をした瞳は、笑うと思い切り楽しげに輝き、見るものを惹き付けずにはおかない愛嬌があるのだが、意図してその底を覗けば、明るさの中にも、深く強いなにかが潜んでいる。
マシューは、裏町の若い衆らしく、露出の多い、かぶいたなりをして、賑やかな夕刻の通りに溶け込んでいる。袖なしの胸前の開いた黒い上着を着て、そこから覗く胸や腕のなめらかな肌の上、銀の首飾りやら耳飾やらをぞろぞろとつけている。マシューが腕を伸べて客をさし招くと、手首に付けた銀の鎖がしゃらしゃらと鳴った。
ちょっとばかり強引な客引きも、姿のいい若衆がやるのなら、大陸中から集まる旅人で賑わっている街の華やぎの一つだ。
止り木亭の主は、マリオという、密偵上がりのごつい親父である。
元々、腕の確かな細作で、裏仕事から上がる時に、城勤めを薦められたのを、断ってここに店を開いたという話だった。
裏仕事に従事する密偵たちは、他国では犬と蔑まれる。だが、ここオスティアにおいては、表舞台に乗ることはないものの、特別な能力を持つものとして大切にされる。密偵上がりで、国の重責を担う臣となるまでに出世した者も多いのである。一方、出世の道は開けていても、束縛を嫌い、市井に戻っていく者たちも、また多くいる。オスティア中から集められた、密偵として高い能力を持つ者たちは、たいていが自由を愛し、独立不羈の精神を持つからだ。そうでなくては、優秀な細作にはなれない。
密偵あがりの親父が睨みをきかす止り木亭は、オスティア公爵の裏の情報源でもあった。
密偵頭に命じられ、止り木に情報を取りにきたマシューであったが、、
「何もせずにうろうろと人待ちをされても、商売の邪魔にならァ。てめえの器量で客を引いて来い」と、マリオの親父に客引きを命じられ、苦笑しながら応じたのである。
どの道、目当ての男を待って、通りを張る必要がある。ベルンから来た男が、オスティアの街中を嗅ぎまわっている、と言う情報が入っていた。男は止り木亭に頻繁に出入りしているという。
あえて泳がせてあるその男の接触する相手を調べるのが、ここに居る本来の目的であった。ならば、いっそ通りに立つのが当然である連中に混じってしまったほうが、目立たない。
そうやって道に立っていると、酒場の客に対する呼び込みとは別に、女やら男やら、色々な連中から、一夜を誘う声がかかる。
止り木亭は、夜は色街へと変わる辺りにある。ここいらの酒場で客を呼ぶような連中は、たいがいは食い詰めているから、声がかかれば日銭のために身をひさぎもする。特に器量が良くて、ちゃらちゃらと身を飾ったような連中は。
締まった身体の線を晒し、銀色の飾りをじゃらじゃらと身に付けたマシューには、引っ切り無しに声がかかる。それを、まともに取り合うわけでなく、そっけなく振るわけでもなしに、いかにも下町っ子らしい切れのいい口上で、上手に交わしていく。
そうしながらも、はしっこい目は、通りを行き交う人々の顔を確かめている。
「なあ、あんたァ、幾らだい」
「すいませんねェ、今日はもう、予定が入っちまったんですよ」
そんな言葉を交わすのは、色町の挨拶みたいなものだ。たいがいの相手はそれで引く。しかし、断られてもしつこく纏わりつく野暮もいる。がらの悪い、傭兵風のなりの男が、行こうとする方向へと立ちふさがってくるのを、笑ってあしらう。
「そう言わずによ。倍は払う。あんたのサービスに依っちゃあ、もっと色付けてもいいぜ」
誰がテメエみてえな野暮天にサービスなんぞしてやるかよ。
そう思うマシューだが、思うことの一切は、顔には出ない。
早いところ、片付けちまうべきだろう、と思う。目的の男が姿を現す前に。ただし、手を出すなら、裏路地に引き込んでからじゃないと、悪目立ちして仕事に差し支えが出る。
「かんべんしてくださいよ」
敢えて、媚を含んだ目で見上げてやる。
さあて、どうしてやろうかなァ、この野郎。店の裏手に誘いこんで簀巻きにして、どぶに頭からたたっこんで―――
男がその目線に反応して、にやつきながら腕を取られる。嫌なこった、と心の中だけで顔を顰める前に、自分の顔を覗き込むようにしながら、にやにや笑っていたはずの男の情けない悲鳴を聞く。
「いててて、い、いてえな、この野郎。何しやがんだ」
見れば利き腕を後ろからねじ上げられ、爪先立ちに吊り上げられている。目線を上げると、ねじ上げている相手より、優に頭一つは高い男の姿が目に入る。ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げる男の頭越しに、鮮やかな紺青色の目がマシューを見つめてきた。
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