「天へ続くは絹の階」 第一章 (1)
ロイドは、ただ一人、暗い道を歩いていた。
足元を照らす星明りの一つも無い、真闇の中である。その闇を不安に思うでもなく、むしろ、包み込まれるような安らぎを感じながら、ただ、歩き続ける。
どれほど歩き続けたのかわからない。ほんの短い間にも思えるし、永遠と思えるほどの長さであったような気もする。闇の漆黒だけが染み込んでいた目に、焼付くように眩しく思える光が映った。思わず立ち止まり、目を閉じ、手で瞳を覆ってみても、その光は消えない。
しばらく立ち尽くしていると、ようやく目が慣れてきた。それは道の先に灯る、淡い白光にすぎないことに気がつく。その薄明かりに向かい、歩き出そうとしたとき―――
「兄貴―――」
後ろに広がる真闇から、酷く懐かしく思える囁きを聞いたような気がした。
「ライナス」
その声の主を探し、振り返る。
その瞬間、ふっ、と意識が遠のく。身体がすうっと落ちる感覚があって、気がつくと、光の消えた闇の中、仰向けに寝転んでいた。
自分は今、どこにいるのだろう、と初めて思う。ライナスの声が聞こえたはず―――いったい、どこにいやがるんだ、あいつ。俺をこんなところに、一人にして。
意識して、ひどく重い瞼を開けてみる、と、闇の中にぼんやりした像が浮かんだ。幻のようにいくつかの光景が横切っては消えていく。それは見慣れた部屋であったり、まったく見知らぬ場所であったりした。暗幕に映る光の揺らめきのようなそれを、流れ過ぎるままに見ているうちに、一つの小さな顔が浮かび、はっきりとした存在として、見慣れた少女の形をとった。
ロイドにとって義理の妹である少女が、空色の目をいっぱいに見開き、必死な顔で自分に話しかけてくる。その姿が近づいてくるのに、どうしても何を言っているのか聞き取れない。縋るような表情を浮かべた、その可愛らしい顔が、涙でくしゃくしゃになっている。
そんなに泣くな、ニノ。別嬪さんが、だいなしだぜ。
必死で何かを訴えかけてくる義妹の、ひたむきな目が哀れだと思う。
「何だ、何を言ってる、ニノ」
ロイドの問いかけに、少女の口が言葉の形に動くのだが、聞こえるはずの声が無い。音らしきものは聞こえている。砂嵐のように、降り続く雨のように間断なくざあざあと、単調な音が耳の奥で響いている。少女の後ろに見える風景はひどくゆがんでいて、そこがどこであるのか、判別がつかない。
ああ、俺は、夢を見ているのか。
そう思うと、また、すっと下に落ちるような感覚があった。少女の姿が白い靄のなかに、薄れて、ゆがんで、消える。
夢を夢として認識した途端、ふうっと、意識が浮かびあがり、覚醒が始まった。じわじわと身体の感覚が戻ってくるのを感じながら、おかしな夢を見たものだ、と思う。
「ん―――」
背中が痛い。ずいぶんと長いこと寝てしまったらしい。素のままの腕や足に、上質のものらしい、すべすべした寝具の肌触りを感じる。身じろぎしようとするが、身体が上手く動かない。
ロイドは目を開ける。瞬きして、焦点をあわせると、高い天井が目に映った。太い大理石の柱に支えられた白い天井には、幾重にも段差のついたタイル状の区切りがモザイク状に連なっている。白と直線で構成された装飾。時折、仕事で行くベルンの貴族連中の屋敷は、金や銀の曲線の這う、エトルリア被れの、もっと気取った造りだ……
夢から覚めたというのに、頭がひどくぼんやりしている。
いまだに自分がどこにいるのかが分からないのはどういうわけだ。
それとも、俺はまだ夢の中にいるのか。
意識をはっきりさせたくて首を振ろうとしたが、自分の頭が重くて持ち上がらない。自分の身体の状態を、意識で辿りながら調べてみる。
身動きが取れないのは、両腕を拘束されているからだ、と気づく。寝台の両側から固定されているらしく、腕を広げた格好で仰向けになっている。
ドジ踏んで捕まったのか―――それにしちゃあ、たいした待遇だが。
困惑したものの、どうしようもないので寝転がったままでいるしかないようだ。
ぼおっと天井を眺めていると、しばらくして部屋の扉がわずかに軋む音がした。目線をやると、扉の向こうから、ひょっこりと緑色の髪が覗いていた。夢の中、自分にむかって必死に話しかけてきていた少女の姿を見つける。
「ニノ―――?」
自分の声が、あまりにも弱いので驚くが、どうにかニノに届いたたらしい。びくっ、と、小動物のように少女の華奢な身体が撥ねた。
「兄ちゃん、ロイド兄ちゃん」
慌てた様子で、傍に駆け寄ってくる。
「どこだ、ここは」
ニノは眉を寄せて、半べそをかいている。頭を撫でてやりたいと思うが、いかんせん身体が自由にならない。
「オスティアのお城だよ。リキアの―――」
リキアだと。
「あいつらは―――そうか、俺は……」
死に損なったのか。
混乱した記憶をたどる。ライナスが殺られてしまってからの自分を。遠く人事のように、頭の中を流れていく光景。記憶の中の自分は、戦塵のなか、切りかかってくる連中と刃を交えながら楽しそうに笑っている。死が身近に迫ってくる、その興奮と狂気に身を任せて。
人の血と生気を吸って美しい灼光を放つ剣に、自分の意識を明け渡してしまったところで、悲しみはきれいに消えた。
あとは戦うだけ。身体に残るすべての力を使って。なにもかも、出しつくして、その瞬間を待つだけ。哂いながら、自分を貫く白光を受け入れる。そうやって、一度は投げ捨てた命のはずなのに、どうして自分はここにいるのか。
「くそ―――」
無理やりに起き上がろうとすると、身体のあちこちが悲鳴をあげる。両手を縛る枷から逃れようとして、むちゃくちゃにもがく。
「兄ちゃん、だめだよ、だめだったら」
ニノが泣く。おろおろと。
どかん、と扉のほうから、音がして、早足で近づく重い靴音が聞こえた。
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