「天へ続くは絹の階」 第一章 (2)
気がつくと、両の腕をつかまれて寝台に縫いとめられ、あっというまに動きを封じこまれていた。
「あっ、ヘクトルさま」
べそをかいたニノの声。
圧し掛かってくる男を見上げれば、記憶の中の最後の戦場、血生臭い風の吹くなかで切り結んだ相手の顔がある。一言二言、言葉を交わしたような気がするが、よく覚えていない。
でかい男だ。見上げるロイドに視界を完全にさえぎっている。押さえ込まれた腕は痛くはないので、力の加減をしているらしいのだが、身をよじることもできない。オスティア候家の貴種の証である鮮やかに青い髪。強い意志を顕すつり気味の眉の下、しかめられた紺に近い青の目が、ロイドを見下ろしている。
オスティアの候弟か。
嫌な相手だ、と思う。その姿形も雰囲気も、失くしたものを思い出させる。二度と戻らないもののことを―――そのでかい図体をどけて、俺の視界から消えてくれ、頼むから。
自棄をおこして、全力で押し返そうとするが、圧し掛かる相手には全く通用せず、ロイドは低い唸り声を上げた。
「カナスを呼んで来な、ニノ。薬を使ったほうがいいかもしれねえ」
ヘクトルがニノに向かってそう言うと、少女は扉から走り出て行った。
ほんの数秒で力を使い果たして、身体が寝台に沈む。意志の力だけでは、どうにもならないらしい。ロイドは表立ってこの男に逆らうのを放棄する。
「放してくれ」
痛む喉から絞りだした声は、自分でも驚くほどに掠れて弱い。
その声に驚いたように、男が自分を見つめてくる。
「正気なのか、あんた」
なんのことだ、とロイドは思い、顔をしかめる。それを、別の意味と取ったらしく、男はあわててロイドの上から身体をどけた。
「ああ、悪ィな。力いれすぎたか」
これを、解け、と目で訴える。口を利くのがおっくうだった。
「ちっと待ってな。今―――」
紺青の目が扉のほうに向けられた。
「お呼びですか」
戸口から誰かが入ってくる気配がした。ロイドは顔だけをどうにかそちらにむける
魔導士らしい、暗い色のローブを羽織った男が寝台に近づいてくる。その独特の風体を見れば、闇魔法を扱うシャーマンであることがわかるが、前髪を下ろし片眼鏡をかけた優しげな顔立ちだけを見るなら、そこいらの学問所の学生のようだ。
もう一人、見事な銀髪、エトルリア風の銀の唐草文様の入った濃紺のローブを身につけた男。こちらも魔導を扱う者であろう。賢しげな、たいへんに美しい顔立ちだが、どこか芒洋とした雰囲気がある。
片眼鏡の男のほうが、ロイドの顔を覗き込んでくる。
「ああ、戻られましたね」
「ふむ、たいしたものだね、もう、だめだろうと思ったが」
これは銀の髪の男のほうである。
「パント様。この人に聞こえていますから―――」
「ああ、悪かったよ、カナス。独り言のつもりだったんだがね」
ずいぶんでかい声でひとり言をいう男だ。
カナスと呼ばれた男が、優しげに微笑ながらも、底の知れ無い深い色の目で、ロイドの顔を探ってくる。
ロイドのほうも胡散臭げに見返してやる。
「うん、もう大丈夫ですよ。意志の強い方ですねえ。それとも運が強いのかな。たいていの人間は…たとえ闇魔法をひととおり操れるほどに慣れている者でも、向こう側に行ってしまったら二度と戻ってこれないものなのですが―――ああ、失礼、僕はカナスと申します。こちらはエトルリアのお方で、パント様。そちらに居られるのがオスティア候弟ヘクトル様」
ヘクトルはロイドの寝台に腰をかけて腕組みをしている。鎧は身に着けておらず、そこいらの若い衆のような身軽な形と気安い言葉遣いからは、オスティア候弟の肩書きの堅苦しさはまったくうかがえない。
「いや、自己紹介は後でもいいだろ。こいつを解いてやっても大丈夫か」
「ああ、ええと、はい。意識が戻られたようですから。あなたは、向こう側に行っていた間、ずいぶん暴れたんですよ。まあ、あなたのような状態になった人には、よくあることなんですが。自分を傷つけようとなさるので困ってしまってこういうことに―――闇魔法というのは、なかなかやっかいなものでしてね、そこがまた、面白いとも言えるのですが。あなたのお使いになった剣に付加されていた魔法というのがこれがまた――――――」
その向こう側ってのは何だ、と問いかけようと思うのだが、口を挟む気力もなければスキもないようだ。とりあえず、長くなりそうな話を意識の端っこで聞いていると、腕のあたりにごそごそした感触があり、手首にいきなり痛みが走った。
「あっ…つ…」
ロイドは顔をしかめて反射的に手首を引いた。それで余計に枷が締まったらしく、かえって痛みが増す。
「うわっ、すまねえ。ちっと、カナス、これ外して―――」
うろたえる声。
ああもう、なんでもいいから、てめえはどっかに行け。
心の中で毒づく。
「あたしがやる!」
ニノの声。すぐに、右腕がいましめから抜けた。
自由になった腕を引き寄せようとするが、皆目力が入らない。
その腕を取られる。
銀の髪の男がロイドの手首を取って、しげしげと動かぬ右手を見ている。
「これは、ちょっと―――ああ、失礼。剣士の割には、形のいい指だね」
何を言ってやがるんだ、この男は。
「治療しないといけないと思うが、私では力不足だろうな。アトス様にうかがって、いや、その前に王宮の書庫から、あの本を―――いや、残念ながら戻っている暇はないか」
途中からは一人言らしい。
ニノが寝台の反対側に回ってきて、左手も自由になる。こちらはどうにか動かせそうなので、手の平を握って、開いてを繰り返してみた。そうしただけでも、何かが肩に圧し掛かかっているように、動きが重くなっていて、酷く疲れる。
どうしたっていうんだ、この身体は。
癇癪をおこしかかって舌打ちする。
「そう、いらいらすんな。十日近くも寝たきりだったんだ、さすがに身体も言うことをきかねえだろうさ」
青い髪が視界に入ってくる。
動かない腕を取って体に添えられる。続けて、もう一方の腕も。
どうにか身じろぎぐらいは自由になる。反対側から、ニノが上掛けをかけてくれる。
ぽんぽん、と少女の手が上掛けを軽く叩いた。
「ラガルトおじさんも、ずっとそばにいたんだけど」
「斥候に出てもらってるんだ、悪ぃな」
あいつは、今はあんたらの仲間だろう。俺に報告する必要はねえさ。
「闇魔法をかけるほうなら得意なんですがねえ、治療法は、エリミーヌの司祭さまにうかがったほうがいいのかな」
「徳の高いかたがいらっしゃればね。私も聞いたことがないな、こういうのは。いや、面白い、実に面白い」
「以前お話したとおり、この道に馴染んだ者でも、一度落ちてしまったら、二度と戻ってこれないんですよ。それなのに、この人はこちらへ帰って来た。興味ありますねえ。剣を媒介として闇魔法を使う場合、何か特殊な力が働く場合があるのか―――母に聞いてみなければ」
「媒介か…研究する必要がありそうだね。ぜひに、ニイメ殿のご意見を伺いたいものだな」
部屋の片隅で、熱心に学術会議を開いているらしい、魔導師士二人の声。こういう連中と親しく付き合ったことはないが、変わり者が多いという噂は本当らしい。
「あんたら、外に出てくれ。寝かせたほうがいいんだろ、こいつ。ニノも休んできな。その顔―――夕べは寝てねえだろ」
「あたしは平気よ。兄ちゃんのそばにいるね」
ニノがロイドのほうを見て笑う。その目が赤いのが見て取れた。
ロイドは首を振る。
「ほら見ろ、ロイド兄ちゃんだってそう言ってんだろ。俺がついててやっから、な」
いや、きさまに一番どっかに行って欲しいんだよ、俺は。
そう思って顔を顰める。
オスティアの候弟ってのは、そんなに暇なご身分なのか。
身体を動かしてみようと、腹に力を入れてみたところで、突然、くらり、と眩暈がした。目をつぶって全身の力を抜く。
「悪ィな、騒ぎすぎた。さあ、ニノも出てった」
「ヘクトルさま、遠いとこから戻ってきたばっかりでお疲れじゃないの?」
「俺は平気さ。俺とマシューを運んで、西方まで蜻蛉返りしてくれた竜たちは、随分くたびれたろうがな。ちっと考えごとがしたいからよ、ここは人っ気が無くてちょうどいい。ついでに、おめえの兄ちゃんも見ててやるよ、な」
大男が、撫でるというには荒めの仕草で、ニノの頭をかき回す。
「うん」
人懐こい少女は、緑色の髪をくしゃくしゃにされながらも、ずいぶんと嬉しそうな顔をしている。
「では、私たちは失礼することにしよう」
「失礼いたします」
「おやすみ、兄ちゃん」
扉が閉まり、ロイドは、思いのままにならぬ身体を持て余しながら、最も一緒にいたくないと思う男と二人きりになった。
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