「天へ続くは絹の階」 第一章 (3)
自分の身になにが起こったにせよ、死にそこねて醜態をさらした挙句に、この男に面倒を見られている、というマヌケな状況はどうも納得がいかない。
せめてかわいいネエちゃんを侍らせてくれるとか、そのぐらいの心遣いはあってもよさそうなものだ。
気晴らしに、そんなくだらない事を考えてみる。
「ミ…ズ」
少しばかりの言葉を口にしただけだというのに、喉がひりつく。意図して大声を出したつもりなのに、ろくに音にならなかった。
でかい体が、こっちの声を聞き取ろうと、覆いかぶさるように近づく。
「水」
「ああ、わかった」
ヘクトルは枕元のテーブルから水差しをとってグラスに注ぐ。
背の下に片腕を差し込まれ、簡単に抱き起こされた。
グラスを取ろうと思うのだが、意志に反して、右腕が全く上がらない。かろうじて左手をグラスに添えただけ。口元にあてがわれたグラスは、歯にぶつかってかちかち鳴った。全く自分の身体のコントロールが利かない。流し込もうとグラスが上がるから、どうにか口に入れたが、飲み込もうとしたら、気管に入った。
むせて、吐き出す。
身体をかがめて咳き込んでいると、大きな手で震える背を撫で下ろされた。
「ちっと、待ちな」
何をだ、と思うが息が苦しくて顔を上げられない。抱え込まれて両手で背中を撫でられた。
ああ、もう触るんじゃねえ、俺から離れろ。窒息して死のうが、干上がって死のうがかまわないから、放っておけ。
そう思っても、差し出される手を拒むことすらできなかった。
どうにか、咳き込むのが収まって、呼吸が戻ってくる。
ヘクトルの手が背中を擦るのを止めたことに、ほっとした次の瞬間、いきなり顎を掴まれて上を向かされていた。
驚く間もなく、紺青の眼が間近に近づいてくる。
唇を寄せられ、顎を掴まれて口を開かされる。口移しで水を流し込まれた。どうしようもないのでそのまま飲み込む。自分の耳に嚥下する音が大きく響いた。
「もっといるか」
ペロリと濡れた口元をぬぐいながら聞いてくるので、重い頭を振る。しっかりと背を支えられ、そっと布団の上に戻された。
「眠りな」
そう思うんなら、てめえも出て行きやがれ、と心の中で思う。
ヘクトルは、寝台の傍らに椅子を引き寄せて座った。
ランプは消され、ほの暗い蝋燭ひとつの中、ゆらゆらと揺れる炎に照らされたその横顔。
目を閉じる。目を閉じて、心からその顔を締め出す。
眠ってしまえ、と思ったが、なかなか寝付けない。仕方ないので、頭の中を浮かんでは過ぎていく、幻や、現実のかけらを弄ぶ。
意識がゆらゆらと、夢と現実の狭間に漂い出て行く。夢だと知りながら、自分の部屋で、弟と話をしていたりする。その身体に触れてみようと思うと、現身の指先が触れる、さらさらした寝具の手触りを意識する。ああ、夢だからな、そう思うと、次の瞬間には弟と二人、夢の続きの中に居る。強い腕に引かれ、覆い被さるようにして、抱き込まれる。
鼻筋をあたりに寄せられる唇に、背を伸ばして唇を返してみる。
広い背に掌を這わせると、硬く強い筋の感触がある。
「ライナス―――」
名を呼ぼうとして、現へと引き戻されかけ、舌を吸われて夢の中に連れ戻される。気だるくて、幸せな夢にすがる。
そうして、どれほどの時間が経ったのかわからない。小さな声を聞いて、ふっと、自分の現実に居る場所に引き戻された。
声はくぐもって聞き取りにくかったが、やがてあからさまな嗚咽になった。重い瞼をこじ開ける。蝋燭の灯に、横顔が浮かんでいる。傍らに座る男の広い背が震えていた。
俺はまた、夢の中にいるのか。
おまえ、なんで泣いてるんだ、腹でもこわしたか―――そう思ってしばらくしてからようやく、この男が自分の弟とは別人であることに思い至る。
悲しいのか―――
ぼんやりとそう思う
悲しいのか、おまえ。
「どうした」
どうにか口を動かしてみる。
屈み込む男の背が、びくっと揺れた。
「なんでも―――」
声が震え、しゃくりあげる。
口を押さえて、嗚咽をこらえようとしていた。
「―――兄上が、死んだ」
絞りだすような、低い声が言う。
無理やり抑えこもうとするから、かえって発作のように喉が鳴っている。
「俺はなんで、あんたに、こんなこと言ってんだ」
濡れた目が、揺れる炎を映して光る。
「俺に、何も言わないで、勝手に。言ってくれりゃ、どこにも、行かなかったのに」
この世界と引き換えにしてでも、一緒にいたのに。声無き声で、深い色の目が語る。
ロイドは、大きな掌に顔を埋めてしまった男を見ている。
ああ、泣くんじゃねえよ、でっかい図体して。
男は大きな身体を折るようにして嗚咽をこらえようとしていた。
時折、大きく上下していた体が、少しずつ落ち着いてくる。
ヘクトルが顔を上げた。涙に濡れてはいるが、表情はひどく静かなものになっている。
「悪ィな、寝るのを邪魔したか」
近づいてきて、上掛けを直そうとする。
なんとか動く左手を、精一杯に伸ばすと、指先が一瞬濡れた頬のあたりに触れた。それが今の自分の精一杯の力らしい。落ちる手を、大きな手が受け止める。
ロイドの手を握ったまま、ヘクトルは寝台の横の床に座りこんだ。寝台に両肘をついて、ロイドの手を両手で握りこむようにする。
「なあ、迷惑かもしれねえけどな」
何がだ。
ロイドは男の顔を見る。
「あんたは、生きな。あんたの弟もきっとそう思うはずさ」
わかったような口を―――なんだってそう、俺にあいつを思い出させる。おまえは俺のライナスじゃないのに。
男は、握っていた手を、ロイドの身体の横にそっと下ろして、そのまま、寝台の上に顔を伏せてしまう。その、どことはなしに、近しく感じる気配を受け入れ、目を閉じる。
左手を、頭の上に乗せてみても、男は動かない。
薄闇の中、夢が戻ってくる。ロイドは自分の部屋にいる。見慣れた光景。指先に触れる、すこし硬い髪の感触を確かめる。
―――俺はいつ、ここに戻ってきたんだっけな。
夢も現実も覆って、闇が落ちてくる。
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