「天へ続くは絹の階」 第二章 (1)
「食え」
「いらねえ」
「食えっつってんだろ」
「食えねえ」
中庭に向けて大きく開け放たれた窓から、爽やかな朝の光と風が入りこむ部屋の中、二人の男の間で不毛な押し問答が続いていた。
リキア同盟の盟主たるオスティア候国、その不落を誇る城の奥、一階にある眺めの良い客室でのことである。
オスティアの候弟ヘクトルは、その大きな口をへの字に引き結んだ。むっとした顔で、寝台のうえ、いくつかの枕を背にかってどうにか半身を起こしている男の顔を見る。男は、寝台のかたわらの椅子に座るヘクトルから顔を背け、額に落ちかかる少しくすんだ金色の髪を、うるさそうに左手で払った。その身体は痩せて肉が落ち、整った顔立ちに頬骨が目立ってきている。
「おい」
低く呼びかけると、嫌そうに顔を上げて視線を合わせてくる。その目は髪の色に近い、はしばみ色をしている。
ロイド=リーダス。ベルンの暗殺集団、黒い牙の首領ブレンダンの息子で、四牙の一人。白狼の二つ名を持つ。ベルンの封印の神殿では敵として対峙し、散々に手を焼かされた相手だった。
ヘクトルは、切り結んだ白狼から、ぎらぎらと、抜き身の刃そのものの殺気を叩きつけられて思わず怯んだ。その口元に微笑みを含んだまま、ただ一人となってもなお造作なく戦場を切り抜けていく。血煙を上げ、ためらいなく人を切り捨てていくロイドの姿は、まさに魔狼と呼ぶに相応しかった。
妖しい魔物と、鎬を削り合い、切り違えては結ぶ。
正面から向かい合い、互いの目を見つめあったその瞬間、白狼の冷たく光る目に、ふと正気が戻る。ひどく優しげな目で自分を見つめてくる魔物。その目を見てしまって、ヘクトルは戸惑う。
「おまえ―――」
人に返った魔物が、思いもよらぬことを、語りかけてくる。その言葉は、ヘクトルの心の深いところに入り込んできて、やっかいな棘のように抜け落ちる気配が無い。
「おまえ、俺の弟に、似てるぜ」
二度と帰らぬ、弟に。
これからその弟に会いに行くのだと、幸せそうに笑い、微笑みを残したまま、冴えきった太刀筋を見せつけて切りかかってきた。その剣を受けるのが精一杯。刃を交わすだけでも、気力を削ぎ取られていくような気がする。相手の力も自分の力も削ぎ取っていく魔剣を、白狼は軽々と操った。
右手に握った剣が砕けるように折れるのと同時に、ロイドはすべての力を使い果たし、抜け殻のように倒れ伏した。その身体を抱き起こしてみると、微かだが命の兆候が残っていた。眠るように静かな白い顔を見て、どうにかして助けてやりたいと思った。
運命の偶然か、本人の生命力の強さによるものなのか、十日近くも生死の境を彷徨ったあげく、白狼はこの地上へと舞い戻ってきた。牙が折れ、爪が剥がれ、うずくまって動くこともままならないでいるのに、手を差し伸べれば低く唸って拒まれる。愛想のない狼は、ともかくヘクトルの目の前で生きているから、なんとかしてやりたい、と思う。
フェレ公子、エリウッドを中心とした一行は、ベルンでの黒い牙との激しい戦いの後、一旦オスティアへと引いて、立て直しを図っているところである。
エリウッドは、客室に退いて、一人でいる。出来ることならかたわらにいて慰めてやりたい―――そう思いながら、今は親友をそっとしておくことしかできないヘクトルである。
目の前のこの男にせよ、エリウッドにせよ、自分が助けてやりたいと思うのはおこがましいことなのかも知れない、と思う。この戦に出る前の自分ならば、自分の良かれと思うままに、お節介を焼くなり、部屋に押しかけるなりしたはずなのだが。
ヘクトル自身、兄、オスティア候ウーゼルの死を知らされたばかりであった。ウーゼルは自らの病を弟であるヘクトルに隠し、その死さえも弟には告げるなと言い残して、早すぎる死をむかえていた。
自分はなにも知らなかった。知っていれば、何があってもこの国を出て行ったりはしなかった。
重い後悔が残る。
自分の選択は正しかった。兄の選んだ道も、きっと正しかったのだろう。それでも、自分は一生の間、後悔し続けるだろう。兄のもとを離れたことを。その早すぎる死出の道行を、見送ってやることさえ出来なかったことを。
悲嘆、後悔、苦痛。胸が焼ける。
それでも、今ここで足を止めるわけにはいかない。
「食え」
目の前で、不機嫌そうな面を思い切り背けている男に言う。
人間食わなきゃ死ぬんだから。俺はてめえを死なせてやる気は無いぜ。
食え、ともかく食え。なんでもいいから、食えって言ってんだろうが。
死に損ねた白狼は、生きようという気力を見せない。戦場で相見えたときとは別人のような様子が、どうにも気にかかってしかたがない。十日近くも生死の境をさまよった体は、夜着の上からでも、肉が削げ落ちてしまっているのが分かるというのに、ろくに飯を食おうともしないのだ。
「ほれ」
粒が残らないように煮溶かした粥を、匙に盛って口元に差し出す。
ロイドが心からいやそうなしかめっ面をした。
「なんで、貴様のようなかさばった大男と、あーん、とかやらなきゃいけねえんだ」
擦れてはいるが、大分しっかりしてきた口調で不平を言う。身体のほうはともかく、ここ数日で、頭と口のほうはかなり回復してきたらしい。
「てめえ、そういう、イヤかよ。世話焼くのが、可愛いねえちゃんじゃなくて悪かったよ。こちとら、連戦で人も物も消耗しちまっててな。立て直すのに猫の手も借りたいぐらいなんだから、文句言うなよ」
「おまえは暇なのか」
「暇じゃねえよ。早いとこ戻って朝議に出ねえと、オズインに大目玉だ」
「それを、置いていけ」
「あんた、見てねえと食わねえだろ」
「朝から食うと気持ちが悪いんだよ」
ロイドはうつむき加減に目を伏せた。伸びた前髪が目のあたりに被って、その表情を隠す。
そう言うのは本当だろう。それほどに弱っているのだ。それでも、食わなきゃ体力が戻らないのは確かだ。
「食え」
何度目かの押し問答を始めようとしたら、自分の腹が、ぐう、と鳴った。
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