「天へ続くは絹の階」 第二章 (2)
―――そういや、朝飯まだだっけな。
そう思ったとたん、腹の虫がもう一度、ぐぐう、と鳴いた。
「なんだ、その、情けない面ァ」
ロイドが顔を上げ、ヘクトルの顔を見て呆れたように笑う。そうすると、もともとの整った顔立ちとも相まって、この男はずいぶんと優しげに見える。ベルンの白狼、人斬り狼とは思えぬほどに。
「てめえが、食いな」
「こんなどろどろしたもん食ったって腹の足しになるかよ」
ヘクトルは顔をしかめて腹のあたりを押さえる。
「だったらそんなもんを、俺に食わせようとするな」
「あんたは病人だ」
「てめえが、飯食って来い」
「あんたが食ったら俺も食う」
笑ってしまって、気が抜けたらしい。言い返してくるロイドの声から、突っぱねるような険が消えている。
「食え」
微笑の消えていない口元に匙を突きつけてやると、かたくなに拒んでいた男が、ようやく口を開いた。眉をしかめながら、少しばかりの粥を口に含む。ほとんど固体は入っていないのだが、飲み込むのが辛そうだった。
もう一口。
飲み込むのを見計らって、匙を差し出す。
またほんの少しばかりを、口に含んで飲み下すのを見守る。
ロイドの少し前かがみに起こしていた身体から力が抜け、背中の枕へと寄りかかる。
「もういい」
「ろくに食ってねえじゃねえか」
「これ以上食ったら、吐く」
その顔が、確かに少し苦しげなので、それ以上の無理強いはあきらめる。
「それ」
「あ?」
「そいつをくれ」
粥の盛られた皿の横に、飾りのように置かれた葡萄がある。
「ああ、待ってな、今―――」
ヘクトルは葡萄の房から色の良い一粒をもぎ取る。指の先程の小さな粒から、皮と種を取り除いてやろうと思ったのだが、剥くというより、潰す、といったほうが正しい事態になってしまって困惑する。
「ぶきっちょだな。いいから、そのまんまよこしな」
あきれたような口調だが、その声音は柔らかかった、言われるままに、口元へと指を差し出す。
ロイドの唇が、指の間から、半分潰れた葡萄の粒を受け取り、ついでに、べたついた指から汁をなめとっていく。口の中、ちらちらと舌先が動くのが見えた。指先に舌と口内の粘膜のぬるついた熱さが伝わってくる。背中がざわつくようなその感覚に驚いて、ヘクトルは完全に固まった。
ロイドのほうはヘクトルの様子に構わず、口の中のものを噛み砕くのに集中している。固まったままでいるヘクトルの手の上にかがみこむと、掌に口を寄せ、皮と種だけを舌で押し出してよこした。
「若さま」
窓ぎわのテラスのほうから掛けられた声に飛び上がりかける。
「なに、驚いてんですか。こんなとこに賊は出やしませんよ」
窓の外、いきなり姿を現したのは、ヘクトルの兄ウーゼルのもとで密偵をつとめていたマシューである。
ヘクトルがエリウッドの助けとなるべく、オスティアを飛び出して行った際、マシューはオスティア候の許しを得てヘクトルに同行した。それ以来、共にエリウッドの軍に加わっており、ヘクトルにとって公私共に欠くことの出来ない存在となっている。
亜麻色の髪に、闊達な、明るい茶色の目。バランスのいい細身の体つきで顔の造作も美しいが、動作は俊敏で、ひ弱さは全くない。動きや表情に素軽さと愛嬌があり、人好きのする笑い方をする。人ごみに立ち混じり、情報を集める密偵としての腕は確かだった。城に出入りする時でも、身動きのとりやすい袖の無い上着に、短めのマントを羽織った盗賊風のこしらえのままである。
オスティアは、東西を大国に囲まれたリキア同盟の盟主である。リキアの小国家群を統括し、西の大国エトルリアと東の軍事大国ベルンに挟まれて生き残っていくためには、何よりも先に情報を必要とする。代々のオスティア公爵は優秀な密偵たちを手元に置き、また、子供のうちから才能のあるものを集めて育てあげてきた。オスティアの目として働く彼らは、複雑な造りの城の中を、人目につかずに自由に移動する。
密偵としてウーゼルに仕えてきたマシューも、この城の中でなら、魔法のようにいきなり現れ、かき消したようにいなくなることも自由自在である。また、あえてそうすることで、ヘクトルをからかうのを楽しみにしているような節もあった。
「オズインさまがお呼びです。早く行ったほうがいいですよ。頭から湯気出してましたからねえ」
「そりゃ、やべえ―――、んじゃな」
寝台の上に一声かけて、廊下へと歩きだす。
「若さま」
マシューの声と一緒に、丸いものが飛んできた。反射的に手を出して受け止めると、赤い林檎が一個。
「ありがとよ」
それにがりりと齧りつきながら、ヘクトルは大股に廊下を歩いていく。
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