「天へ続くは絹の階」 第二章 (3)
ロイドは、ゆっくりと息を吐いて、背中にかった枕にもたれかかった。
―――なんでメシを食うだけで、こんなに疲れるんだ。
体力と気力をを消耗しつくしているせいなのだが、でっかい図体の若さまが、やいのやいのと世話を焼いてくるのにも、幾分かの原因はある。どうもあの顔をみると、力が抜けてしまうのだ。
「うっかり拾っちまった野良の生き物に、脅したりすかしたりして餌付けかい。変わってんなァ、あんたの若さま」
マシューの後ろ、内庭に面したテラスから姿を現したのは、ロイドの見知った姿だった。
紫色の目。左の額から頬へと渡る二条の傷が、冷たく見えるほどに整った顔立ちに不思議と似合っている。飄々と笑う男の名はラガルトという。黒い牙での通り名は疾風、長らく友人として付き合い、いったんは袂を分かちながら、戦場で再び相見えることになった男だった。
ラガルトは腰に二本のナイフを差しているものの、いつも身に着けている刃よけのマントを外し、くだけた楽ななりをしている。長髪をバンダナで止めるのでなく、紐でおおざっぱに括っていた。すでに、オスティアの密偵たちに倣って、複雑な城の抜け道を自由に行き来しているらしい。
「そ、うちのは、ちょっとばかり変わりもんだが、いい男だろ」
マシューはそう答えて、人好きのする明るい笑みを浮かべた。
盗賊のなりをした二人は気が合うらしく、笑いながら軽口をたたき合っている。
マシューは食器をまとめながら、ロイドの様子を探って、素早い一瞥をよこした。オスティアの密偵である若者は、主人が気にかけている男の状態をはかって、それを情報として頭に入れているらしかった。その視線に気づいて、わずかに眉をひそめたロイドに軽く笑いかけてから、盆を持って廊下に出て行く。
「まったく、いい男振りだねェ、若さまはよ」
ラガルトがその後ろ姿に声をかけた。
「誰が野良だ」
「おや、うちの男前は朝からご機嫌だね」
ロイドがしかめっ面をするの見て、楽しそうにからかってくる。
答えずに顔を振って、落ちかかってくるうっとおしい前髪を払う。ラガルトは薄く微笑みを浮かべたまま、寝台のかたわらへと歩み寄って来た。
ロイドが意識を取り戻してからというもの、ラガルトは任された仕事の合間を縫って、こまめにロイドの様子を見に来ている。
「風呂入れてやるからよ。ついでに切るかい、これ」
ラガルトが前髪を挟んで引くから、完全に目に被る長さに伸びているのに気づく。
「ああ、そうだな」
剣を振るときに目にかかってくるのは邪魔くさい、と思ってから、果たしてこれからも剣を握って切った張ったの立ち回りをすることがあるのだろうか、といぶかる。利き手が壊れているのが自分でわかるからだ。左でもそれなりには刃を扱えるが、自分の身を守るのがせいぜいといったところだろう。
ラガルトが廊下へと声をかけると、ロイドの居る寝室の続きの間に、城の下働きたちが姿を見せた。浴槽が運ばれてきて、手早く湯が溜められる。
「ありがとうよ。使い終わったら呼ぶから、下がっててくんな」
手を貸そうかと待つ者たちに、ラガルトが声をかけた。
寝台に座っていたラガルトの腕が背中にまわってきて、ゆっくりと体を起こされる。
「いい、自分で歩く」
抱き上げようと膝裏に腕を差し込まれたので、断りを入れる。
「今のおまえさんぐらいの重さなら、俺の細腕でも落っことしゃあしねえぜ」
ラガルトの腕が両脇に回りこみ、抱き上げるように身体を支えてくる。その肩につかまって、そろそろと立ち上がってみようとする。足裏の感覚が遠く、力を入れようとしても入らない。左脇から背に回った腕が、ぐるりと胴を抱きこんでくるのに体重を預けると、どうにか立ち上がることができた。
長く動かさなかったため、萎えかけた足が崩れようとするのを、ラガルトの肩に左腕を回してどうにか持ちこたえる。
自分の身体が思うままに動かないのが苛立たしく、思わず舌打ちをする。
「ほんの何日かまえには死にかかってたんだからよ。そんだけ動けたら上等だろうさ」
いつも通りの軽い調子でラガルトが言う。
足裏の感覚を確かめる感じで歩を進めると、少しずつだが足元がしっかりしてくる。
夜着を脱がされて浴槽に身体を沈めると、少し歩いただけで強張ってしまった情けない筋が緩んでくる。我知らず、溜息が出た。浴槽のふちに頭を乗せて目を閉じる。
「気持ちいいか」
笑いを含んだラガルトの声が聞こえ、髪に湯をかけて濡らされる。石鹸でぬるんだ指が髪に差し込まれ、泡立てながらこすられる。その指の動きだけを意識で追っているのは、ひどく気持ちが良い。
「なァ」
ためらう感じの声が耳元で囁く。
「許してくれるかい、俺のこと」
許す―――何を。許せないのは俺自身だ。牙の変化に気づきながら止められなかった自分だ。親父に逆らってでも、あの女を切り捨てておくべきだったのだ。そうすれば、一番大切なものを失うことはなかったかもしれない。この男も、自分も。
「すまない」
ロイドは、目を閉じたまま、ぼそりと呟く。
「は―――なにあやまってんだよ、おまえさん―――って、俺もか」
言葉が途切れる。
「なあ―――」
後ろから手を回して強く抱きしめられ、頬に頬を寄せられる。
「おまえさんが生きてて、良かったよ」
いつもは乾いた感じのする声が、少し濡れているのを、目を閉じたまま間近に聞く。
「頼むから―――あんたは生きてくれよ」
いつだってつかみ所の無い男からの、これまでは一度も聞いたことの無い、せっぱつまって懇願めいた言葉。
このざまで生き存えてみたところで、何の役にも立ちやしねえぞ、俺は。おまえも、あの男も、何を考えてそんなことを言いやがる。
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