「天へ続くは絹の階」 第二章 (4)
「―――ああ、悪ィな。のんびりしてたら湯が冷めっちまう」
そう言うラガルトの声は、すでにいつもどおりに乾いて軽い。
触れ合っていた、馴染んだ気配がすっと離れていった。頭を支えられ、湯をかけて石鹸を流される。荒めの布で身体を洗われているうちに、とろとろと溶けるような眠気が意識を覆い始める。
泡立てた石鹸で、頬から顎のあたりを覆われる。
ラガルトは、懐から小ぶりなナイフを取り出して、ロイドの髭をあたり始めた。
「全部落としちまってくれ」
「いいのかよ。男前が減っちまうぜ」
てめえの言う男前ってえのは、そんなことで減るようなモンなのかよ―――
刃が顎に当たっているので声は出さない。ラガルトが使う刃は肌を痛めることなく器用に動く。昔から、何につけても器用な男だ。
前髪を指で挟まれる。
「どのくらいにしようかねえ」
「適当に」
「ん―――適当ね。小奇麗な顔だから、いっそ丸坊主ってのも似合うかもな」
「構わねえよ」
前髪を多少強く引っ張られ、手際よくナイフで削がれる。
「そいつぁ、俺が構うぜ、色男。こんくらいなら、邪魔にはなんねえだろ」
もう一度、髪に湯を被される。力の抜けきったまま、湯につかっていたら、動かない右手を取られて、確かめるように掌を揉まれた。
「痛くねェか」
「いや―――」
動かない腕や手に痛みは無いが、そのほかの、触覚や、熱い冷たいの感覚もほとんど無い。
「そっちはだめだ。使えねえ」
ロイドの言う意味を正確に受け取って、ラガルトの顔が一瞬、暗く曇る。
「そりゃあ、まだわかんねえだろうよ。医者やら、司祭さまやらに診てもらわねえと」
肩を掴んで半身を起こされる。
「ちっと、捕まってくんな」
両腕を持たれ、相手の肩にまわされたので、抱きつくようにして体重をかけ、浴槽の中に立ち上がる。目の前が暗くなりかかるのを、頭を一つ振って払いのける。大きなタオルでおおざっぱに拭われ、タオルに包むように抱き上げられた。そのまま寝台へと連れて行かれる。
髪を拭かれ、新しい夜着を着せかけられる間、紫色の目が、密かに自分の身体を検めているのを感じる。ラガルトはわずかに眉をひそめたものの、何も言わずにロイドを寝台へと横たえる。
「話をしても大丈夫かい」
寝台に腰をかけたまま、ラガルトが話しかけてくる。
「大丈夫だ」
この場所で意識を取り戻したばかりの時の、身動きひとつ取ることのできない重さ、だるさは大分ましになっている。
「じゃあ、耳に入れといてくんな。あちこちで、牙狩りってのが始まってる。ベルンだけじゃねえ、国境を越えてリキアでも、だ。悪評高き、黒い牙の残党をこらしめてやろうって寸法らしいぜ。あらぬ疑いをかけられて、罪も無えのに袋だたきに合った人間も少なくないって話だ。
―――俺らのお仲間はとっくの昔に減っちまっていたがな。運良く生き延びた奴らも、どうなっちまうのか分からねえよ。生き難い世の中になったもんさァね」
ラガルトは見慣れた薄笑いを浮かべたまま、淡々と言葉を紡ぐ。どれほどに真剣な問題であっても、人事のように突き放した言い方をするのは、この男の癖だ。
「ニノはここにいる限りは大丈夫だ。死神―――ジャファルが身近に守っていやがるしな」
「死神は、信用できるのか」
「できる。俺よりはね。あいつは命をかけてでも、ニノを守るだろう」
この男がそう言い切るというのなら、それなりの理由があるのだろう。
「おまえさんは、俺が守るさ」
ラガルトは紫の目を細めながら、ロイドの顔を覗き込んでくる。
「余計な世話はいらねえ。てめえはてめえで好きにやりな」
俺は俺でなんとかする。どうにもならなきゃ、とっ捕まるなり、野垂れ死にするなりするだけだ。
「なんだよ、つれないねえ。一世一代の愛の告白だぜェ」
口元に浮かぶ、わずかに皮肉っぽい笑い。器用な指が、ロイドの額から乾きかかった前髪を払う。
「それから、ここ、オスティアの話なんだけどよ。オスティアの密偵さんたちが、ここしばらく、城から出払ってるようなんだわ」
「あの若いのは―――」
「マシューは若さまについてるから、別だがな。城の中も、なんだか様子がおかしいぜ」
この城で目覚めた夜、蝋燭の灯に浮かんでいた横顔を思い出す。兄が死んだと言って泣いた男を―――
ラガルトの様子からして、ヘクトルの兄であるオスティア公爵の死は、今だに伏せられたままになっているということだろう。
「粛清だ」
「何―――?」
「今、オスティアの蜘蛛どもが大掛かりに動いているのなら、それは粛清だ。俺たちと同じ仕事をしていやがるのさ」
闇を縫っての暗殺。オスティアの易にならぬもの、いずれ内部の膿となりかねないものを、先につぶしておくための。
オスティアの密偵は、オスティアの目、とも、糸手繰る蜘蛛とも呼ばれる。オスティア子飼いの蜘蛛たちは、城から縦横に張られた糸をたどり、自らも糸を張りながら、主の最後の命を果たすために国中に―――あるものは国境を越えて散っているのだ。
「ロイド、おまえさん何か知っていやがるな」
知っている。オスティアの主の死を。あの男の兄の死を。ロイド自身は幾度かためらったあげく、父親への情と牙の掟に縛られて為し得なかったことを、自らの命を見切った、もう一人の兄は命じたのだ。
粛清を。
国のために。
残していく弟のために。
法も、正義も、全てを超えて。
法に従うのが人民の正しき在りようなら、時として法を超えるのが国を治める者の能力である。
早逝を余儀なくされたオスティアの公爵には、確かに統治者としての知識と才が備わっていたのだ。
主の死とともに密偵たちが散れば、城の守りも手薄になる。オスティア候の死が伏せられているのは、そのためでもあるのだろう。
「若さまがらみのねたかよ。いや、言えないなら言えないで、かまわねえけどよ―――」
考え込む様子の横顔が常に無く真剣だった。回りの速い男である。ロイドの言葉と自分の集めた情報から、おおよその見当はつけたのかもしれない。
交わされる言葉が止り、沈黙の中、ロイドは目を閉じる。
腰をかけていた寝台から立ち上がる気配があり、ラガルトの手が伸びてきて、身体の位置と、寝具の具合を直していく。
「疲れさせて悪ィな。ゆっくり眠ってくんな」
額に掌の感触があって、それがゆっくりと離れていく。確かに少し疲れているらしく、手足が寝台に貼りつくように重い。
全身にまつわりついてくる気だるさに身をまかせ、ロイドは意識を手放した。
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