「迷い犬」 (4)
「わかったから、もう行け」
ロイドは語調を和らげた。苦笑が口元に浮かび、表情が甘くなる。
「うん。次の仕事連れてってくれよ、約束だぜ。ようし、俺、もう一回親父に稽古つけてもらってくるぜ」
兄の微笑みを見て、ライナスは嬉しそうに笑う。跳び跳ねるような足取りで、大股に部屋を出て行った。扉が半開きになっていて、親父を呼ぶライナスの声が廊下に響いて聞こえてきた。
屋敷の外に出ていったらしく、ようやく弟の声が聞こえなくなったところで、ロイドは寝台から降りた。本日二回目の起床である。羽織っていた夜着を寝台の上に投げ捨て、のろのろと着替えを始める。黒いシャツを被ったところで戸口から声がかかった。
「朝っぱらから、いい見せもんだったねェ」
シャツから顔をだすと、見慣れたニヤニヤ笑い。黒い牙では疾風の二つ名で呼ばれるラガルトである。長髪を額の辺りに巻いた紫のバンダナで留め、盗賊らしい身軽いなりをしている。左の顔面を走る二条の目立つ傷あり、整った容姿に奇妙に似合っている。ロイドとは、少年と言っていい年頃からの馴染みだ。
ラガルトにとって、気配を消すのは商売柄お手のものである。いつの間にか、部屋に入り込んで、入り口近くの壁にもたれて立っていた。
「部屋に入るなら、合図ぐらいしろ」
ラガルトは着替えをするロイドを眺めながら、ゆっくりと二回扉を叩いた。
「ちょっくらお邪魔しますよ」
ロイドが横目で睨んだところで、ラガルトの人を喰った微笑みは消えない。
「なぁ、次の仕事、俺も連れて行ってくんな」
砕けた口調でそう言う。ロイドは返事をしないで、上着を羽織った。
「ライナス坊やの初仕事だろ。手伝ってやりてェんだよ」
真摯な声色だが、底に笑いを含んでいる。
「おまえとライナスが一緒だと、うるさくてかなわん。ウハイに頼む」
二人を近くに置いておけば、ラガルトがライナスをからかい、ライナスがラガルトに噛み付く。最後は収集のつかない追いかけっこが始まるのが常だった。犬猿の仲というのではなく、言葉でいいようにあしらわれたライナスが一方的に敵意をむき出しにするのだが。
「でっけえわんこがうるさいのは、俺のせいじゃねえよ。兄ちゃんの躾がなってねえからだよなァ」
「悪かったな」
着替えを終えたロイドは、いいかげんな返事を返して、部屋から出ていこうとした。扉をくぐりかけたところを、肩に手を置いて止められる。
「なァ、坊やを乳離れさせたいってんなら、手ェ貸すぜ。まあ、ちっとやそっとじゃ兄ちゃんベッタリは直りそうにないけどな」
間近に、切れの長い紫の目が覗きこんでくる。
「てめえに手伝ってもらうようなことじゃねえよ。面白がってるだけだろうが」
肩に置かれた手を払う。
「冷たくすんなって。ライナスの仕事始めが終わったら、色街にでもぱあっと繰り出そうぜ。いい店に連れて行くからよ」
長い指がすっと伸びてきて、顎を軽く掴まれた。うっとうしいので頭を振って避けると、ラガルトは低く声を出して笑った。
「嫌なものは嫌、ってのは、はっきりしてるよな。おまえさんもライナスもよ。好きなものは好き、ってのもはっきりしてるよな」
「何が言いたい」
謎かけのような会話は好きではない。ロイドはラガルトと向き合った。
「深い意味はねえよ。俺を連れていきな。役に立つからよ」
ラガルトの口元は微笑みの形を崩さなかったが、紫の目は真剣な光を浮かべた。
「お節介だな」
「そお。お節介なの、俺は。本音を言えば、ちっとばかり心配なんだよ。ライナスはおまえさんと違って、中身はまともだからよ。牙の仕事がどんなものなのか、本当のところ分かっちゃいねえだろ。傷になるかもしれねえよ」
ロイドは方眉を上げてラガルトを見た。
「そう思うか」
「思うね」
ロイドは僅かにうつむいて、自分の記憶を探った。最初の仕事―――最初にこの手で切ったのは誰だったか、よく覚えていない。覚えているのは、肉を断った刃が骨にあたり、がりがりと軋む、剣を握った右手に返る手ごたえ。ぞくぞくと背中を走っていく震え。生臭い血の匂い。別段、嫌だとは思わなかった。人を殺めることの怖さも感じなかった。剣を握れば、すべての感情は消える。繋がっていた神経がぷつりと切り離されたかのように。思考と感情の配線が変わり、ただ、無駄なく動くことだけを考える。
「危ない顔してるぜェ、ロイド」
からかうように言われ、無意識に唇を舐めていたことに気づく。
「おまえさんは、そんな面して思いっきり図太いとこがあるからなァ。図太いっていうか、鈍いっていうか。でっかい坊やのほうがよっぽど繊細で、人としちゃまともさァね。おまえさんべったりで育ったのになあ。兄弟ってのは同じ腹から出ても、性格は違うもんだな」
「そりゃあ、ついさっき、熊にも言われたぜ」
図太くて悪かったな、とロイドはぶつぶつとつぶやく。
「褒めてんのさ。牙の総領息子に相応しいってな。おまえさんの心配をしようとは思わんが、ライナスは―――馬鹿ほどなんとかっつってよ」
そう言ってから、ラガルトは面映げに顔をゆがめた。
「柄でもないこと言ってるか、俺ァ」
いつでも飄々とつかみどころのない男にしては、珍しく、ラガルトはその目にはっきりとした感情を浮かべていた。
「いや。俺には見えないことも、おまえには見えるんだろう。わかった。次の仕事はおまえと組む。ライナスの面倒を見てやってくれ」
ロイドは淡々とした声で、そう言った。
俺とライナスだと、互いに見えないところも多いのかもしれない。近くに居すぎるのだ。あまりにも近くに―――息の温みを感じ、脈打つ心臓の鼓動を肌で感じ取れるほどに。
突き放す時期なのかもしれない。
これは、いい機会なのかも知れない。
「承知」
ラガルトはいつもの飄々とした態度に戻り、調子よく答えてきた。
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