「迷い犬」 (3)
「ええと、ごめん。ごめんよ兄貴」
でかい図体で半べそをかく弟を見て、ロイドはため息をついた。
「まあまあ、許してやれ。俺がふっ飛ばしちまったのがいけねえんだ。ライナスも悪気があったわけじゃねえんだからよ」
ロイドの微妙に険悪な態度を察したらしく、ブレンダンがとりなすように言う。
「ごめん―――」
床にへたりこんだ格好のライナスは、小声で謝りながら、ロイドの顔をじっと見つめてくる。その視線はひたむきに強い。目を閉じていて感じたのと同じ強さだ。顔を背けてしまいたいのを我慢して見つめ返すと、弟の褐色の瞳から、また涙がこぼれた。
いきなり、ごつっ、と重い音が響く。
「いってええぇっ」
ライナスが頭を抱えた。立ち上がったブレンダンが、拳でライナスの頭を小突いたのである。
「何すんだ、親父。馬鹿になったらどうしてくれる」
ライナスがわめく。
「大丈夫だ。てめェは、それ以上の馬鹿にはならねえ」
ロイドとブレンダンの声が被った。はっはっは、と親父がわれ鐘のような声で笑う。ロイドも口元に笑みを浮かべた。
「何だよう。二人して」
ライナスは情けない声を出したが、兄の笑みを見るとほっとした顔になった。
「稽古をつけてやってたんだが、こいつもこの頃じゃあ、いっぱしに使えるようになってきたなあ」
親父のでかい手でわしわしと頭を撫でられ、ライナスの褐色の短い頭髪が逆立つ。褒められたのが嬉しいらしく、尖りぎみの犬歯を見せてにぱっと笑う。
「そりゃ、親父にも兄貴にも仕込んでもらってるしよ。俺ももう十六なんだからさ、そろそろ仕事に連れて行ってくれよ」
「ふむ。そういやあ、兄ちゃんはお前っくらいの時には、もう一人前に仕事してたっけなあ。他の面子にくっついて行って、いつの間にかな」
ブレンダンが思い出すように言う。
「な、俺も兄貴の仕事についていっていいだろ。すぐにやり方覚えるからさ」
ライナスは床に座り、ロイドの寝台に頬杖をついて、兄の顔を見上げた。つい先ほどまで泣きべそをかいていた弟が、嬉しそうにおねだりをするのを見てロイドは苦笑した。
「まだ、早い」
「ええっ、何でだよ。俺、もう大人だぜ。背だってもう兄貴より高―――イテエッ」
ライナスは平手でひっぱたかれた額を押さえた。
「何で怒るんだよ。本当のこと言ってるんじゃ―――いたい、いたい、いたいから―――ごめんよう」
拳骨で頭頂部をぐりぐりと抉るようにすると、ライナスはされるがままに寝台に突っ伏す。
「ったく、親父も兄貴も乱暴なんだからよ。身がもたねえよ。俺が本物の馬鹿になったらどうすんだよ」
布団に突っ伏して、くぐもった声でもごもごと文句を言う。
「今でも十分に馬鹿だから安心しろ」
弟の短い頭髪に指を絡める。撫でると犬の毛皮みたいな手触りがした。ライナスはぶつぶつ言うのをやめて、動きを止める。
「そうだなあ、ぼちぼち良いんじゃねえのか。今度の仕事、一緒に連れて行ってやれよ、ロイド」
ブレンダンが腕組みをしてそう言った。
ライナスがばっと顔をあげる。満面の笑みを浮かべてつり気味の目をきらきらと輝かせていた。
「ほら兄貴、親父もこう言ってるんだからさ。俺、何でも手伝うぜ。なっ、なっ」
ライナスは寝台の上に身を乗り出して、尻尾を振り千切らんばかりである。
ロイドは溜息をついた。
「そんなに面白いもんじゃねえぞ」
面白い―――どころの話では無い。黒い牙の仕事といえば、戦であり、人殺しだ。相手が腐りきった貴族どもであったり、手段を問わずに小金をあつめる街のごろつきであったとしても、血塗れた刃を振り下ろすことに変わりはない。
「一人前になりてえんだよ。なあ」
弟は真剣な顔をして言う。
「わかった」
ロイドが短く答える。
止めろ―――と言う間もなく、ライナスが飛びついてきた。
「うっわ、馬鹿―――やめろ、俺を殺す気か」
太い腕で力まかせに抱きしめられ、文句を言う。
ライナスは、ごめんごめん、と言いながら僅かに力を緩める。
「でも嬉しいんだもん」
ぎゅうっと抱きついたまま、離れようとしない。
「兄弟仲が良いのはいいことだ。なんだかんだ言いながら、餓鬼のころから弟の面倒を良く見てくれるいい兄ちゃんだよなあ」
ブレンダンは、ロイドの頭をぐりぐりと撫で、はっはっは、と笑いながら部屋を出て行った。
「ライナス、放せ」
抱きついたまま離れようとしない弟の分厚い肩を押す。
「ん―――」
ロイドの肩に顔を埋めたまま、ライナスは返事のような鼻声を上げた。
「俺、兄貴にくっついてるの、好き」
「ライナス」
押しのけようにも、すでに弟のほうが上背も体重もロイドを越えている。本気で逆らえばどうにかなるだろうが、弟相手に大人気ないという気もする。
「兄貴さあ、何か俺に冷たくねえか。前はこうやってくっついても文句言わなかったじゃないか。最近一緒に寝てくれないしさあ」
ロイドが叱りつけないのをいいことに、ライナスはロイドを抱き込んだまま、そんなことを言う。
そんだけでっかくなって何を言いやがる。子犬のうちは抱き上げてやるし、頭を撫でて添い伏しもしてやるが―――
抱き癖つけたのがいけなかったのか、とロイドは眉をしかめる。
母親を亡くしたのは早かった。母が病に伏しがちになった頃から、弟の面倒を見るのが自分の役目のように思っていた。
小さい頃なら膝に抱き上げも、抱きしめもしてやったが―――
意識の無いふりをしていた間に感じたライナスの視線からは、奇妙な熱を感じた。今、抱きしめられて触れる肌からも、同質の熱っぽさが伝わってくる。弟はその熱を隠そうともしない。自分で気づいてもいないのか。
嫌だ、と思う。
俺にこんな馬鹿らしいことを考えさせるな。
「てめえ、でっかい図体で甘えるんじゃねえ。放せって言ってんだろうが」
ひやりとするような、突き放した声で言う。
とまどいがあるから、必要以上に冷たい声になる。
「ごめん―――」
ライナスがゆっくりと腕を解いた。
「ごめん。怒らないでくれよ。俺―――まだ兄貴に面倒かけるだけの餓鬼だけど、仕事こなせるようになって、兄貴の役に立つようになるからさ」
そしたら、いつでも兄貴の傍に置いてもらえるだろ。
弟はでかい図体を縮めるようにして、そんなことを言う。
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