「迷い犬」 (2)
がつ、がつ、と重い衝撃音が耳に響く。
みしみしと何かの軋む音がした。
それから派手な破壊音。
ライナスが、ロイドの部屋の扉を蹴りあけたのである。丈夫な造りの扉だが、この分だと蝶番ごと吹き飛んだかも知れない。抑制の効いていないときのライナスの馬鹿力には、暴走して角を突き上げる雄牛並みの破壊力がある。
ロイドは目を閉じたまま、僅かに顔をしかめた。
―――馬鹿野郎。
酒で半ば溶けかけた脳みそを、弟に抱き上げられ持ち運ばれた振動で、さらにぐるぐるとかき混ぜられた。ライナスが動きを止めても、今だ世界はぐらぐらと揺れ続けている。
どうにもこうにも、気分が悪い。身体のでかい弟に、猫の子でも扱うかのように簡単に抱き上げられ、見世物にされたのも気に入らない。ロイドは、半ばふてくされて、もうしばらく気絶したふりを続けることにした。
思いのほか、そっと、寝台の上に抱き降ろされる。
弟の気配が近くに降りてくる。大きな両手が、包み込むように頬に触れてきた。
「兄貴―――」
その手がするりと頬を撫でる。そのまま首のあたりまでをそろそろと撫でおろされた。ざわざわと肌を伝うくすぐったさに首を竦めたくなるのを、どうにか我慢する。
「息―――してるよな」
おどおどした声がして、指が確かめるように唇を辿ってきた。指先は少し荒れていて、唇にざらりとした刺激があった。その指に、わずかに息を吹きかけてやる。
「う…わぅ」
ライナスが小さく叫んだ。声音は太いが、驚いた犬が、きゃん、と吼えるような抑揚である。ロイドの顔に触れていた指が一旦は離れ、おそるおそる戻ってきた。頬骨から鼻筋をそっと辿り、再び唇に触れてくる。
「兄貴?」
呼びかけられるが、反応は返さない。弟の指は唇の上で動きを止めた。
―――何をやっていやがる、てめえ―――
悪戯にしては、性質が悪い。ただ心配しているにしては、気配がおかしい。軽い殺気に近いような、押さえ込んだ熱を持っている。
身体を辿ってくる視線を感じた。ひどく強い。ひどく―――熱い。
剣を交える相手の気配を読むのは、ロイドの得意とするところだ。目を閉じたままでも―――閉じていればいっそう、近くに居る人間の気配には、敏感になる。肌が泡立つような感覚が額から頬を辿り、唇へ、喉元へと下りてくる。目を閉じたまま感じとる熱っぽい視線は、直に肌を撫でられるよりもあからさまだった。
何だって―――そんな―――
動揺しにくい性質なのだが、ここにいたって、さすがに戸惑う。
そういう視線を受けることは、珍しいことでは無い。女からも、男からでも。ちりちりと、くすぶる埋火のような視線。酒場や、もっといかがわしい場所で、あからさまに身体を辿ってくることがある。そういう視線に対応するのは簡単だ。剣を抜いて切り捨てればいい。だが、今度ばかりは―――
馬鹿野郎―――仕舞いには、たたっ切るぞ。
気がついたふりをしようにも、きっかけが掴めず、ロイドは困惑する。
目を開ければいいのはわかっているのだが、どういうわけだか瞼が重い。迷ううちに、ぞくぞくと、寒気にちかい震えが背骨を上がってくる。
ロイドが意識の無いふりをしているのをいいことに、弟の視線にはためらいが無い。じりじりと、身体の奥に入り込んでくる形の無い熱を感じ、ロイドは大きく息を吐き出した。その息が、唇に触れたまま止まっていた指にかかる。
僅かに熱っぽい息に誘われるように、指の腹が唇の合わせ目を辿ってくる。ぐい、と力がこめられ、閉じている唇をこじ開けるように、指先が入り込んできた。歯列をなぞり、唇の裏の粘膜に触れてくる。
悪戯として切り捨てるには、ライナスの視線も指先も、真摯に過ぎる。
何でこんな―――と戸惑うが、何故ライナスが自分にこんなまねをしているのかを、知りたくは無いのだ。日ごろの弟の様子から、薄々は気づいてしまっているだけに、本当のところを確かめるのは嫌なのだ。
「兄貴―――兄貴がいなくなったら―――」
ぽたぽたと頬に水滴が落ちる。唇に、指ではない、もっと熱っぽい感触が触れてきた。驚いて思わず身体を硬くする。噛み砕かれそうに荒っぽい動きで、唇を舐られる。荒れた息が口元にかかってきた。
「俺も死ぬ。なあ、好きだよ。俺は兄貴が好きだよ」
阿呆か、てめえ。俺が、こんなもんで死ぬか。意識の無いのをいいことに何を―――馬鹿犬、馬鹿ライナス。いっぺんその頭かち割って、脳みそ引きずり出して、おがくずなり石ころなり詰め直してやる。
心の中で罵倒の限りを尽くしつつ、いかにもたった今気づいたかのように、低く呻いて目を開ける。
「あっ、兄貴。大丈夫か。頭打ったのか。俺が誰だかわかるか」
ピントが合わないほどの近さに、ライナスの顔があった。べそをかきながら、わんわんと吼えている。その顔は涙でくしゃくしゃになっており、鼻水まで垂れていた。
「う…っわ、この馬鹿野郎。人の顔に鼻水垂らしやがったら、ただじゃおかねえ―――」
「良かった。気がついたんだな、兄貴―――っ」
でかい図体がi勢い良く飛びついてきて、布団の上から、力任せに抱きしめられる。ついでにぐちょぐちょに濡れた頬を擦りつけられて、ロイドはあからさまに顔を顰めた。
「顔を拭け、顔―――。馬鹿、俺の布団で拭くな」
扉が開いて、大男が二人、どかどかと入ってきた。
ブレンダンが、寝台へと駆け寄ってくる。
「おお、坊主、良かった無事だったか」
親父の丸太のような腕で、力任せに抱かれ、ロイドは息を詰まらせた。続けて、頭上に拳が降ってくる。
「あっつ―――」
「この野郎、兄貴に何しやがんだよ」
ロイドに拳骨をくれたのは、もじゃもじゃ髪と髭に埋もれた、熊のような太った大男だ。名をベルガドという。黒い牙では医者まがいのことをしている、ブレンダンの古馴染みだ。
「紛らわしいまねして、親父と弟を心配させるんじゃねえぞ」
ロイドの狸寝入りは、ベルガドの熊にはお見通しであるらしかった。
手加減なしでどつかれた頭頂部を掌で押さえようとしたが、大男二人にぎっちりと抱きつかれているので、どうにも身動きが取れない。
「助けてくれ」
部屋から出て行こうとするベルガドを引きとめると、熊は肩を竦めた。
「自業自得だ。おい、ブレンダン、ライナス。ロイドの息の根を止めたくなければ、放してやれ。おまえらと違って、身体の造りは細っこいんだからよ、潰しちまうぜ」
ブレンダンが慌てて腕を緩め、ライナスが半ば乗り上げていた寝台から転がり落ちる。力任せの抱擁から開放され、ロイドはげほげほと咳き込んだ。
「見かけによらず、神経は太い餓鬼だがな。でっかい図体で泣いてんじゃねえよ、ライナス。てめえの兄貴はぴんぴんしてるぜ。狸寝入りをしていやがっただけさ」
熊はのっしのっしと部屋を出て行った。
「あ…あの、兄貴。もしかして、ずっと、起きて…た―――」
ロイドが思い切り眉を顰めて上目遣いに睨み付けると、ライナスは思い切り赤くなり、それから青くなった。
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