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「なれし故郷を放たれて」 (4)




竜は水に濡れた羽を大きく広げた。
水飛沫が驟雨のように、頭上から降り注ぎ、人間のほうもびしょ濡れになる。

「暴れるなよ。こら」

竜騎士の澄んだ声が、巨大な竜を優しげに諭す。子供をたしなめてでもいるようだ。ヒースが腕を差し伸べると、ハイペリオンは主人の手のひらの高さに頭を降ろしてきた。頭に水をかけ、藁を束ねたブラシで擦ってやる。ハイペリオンはくるくると喉声を出しながら瞬膜を閉じた。

「いたずらっ子め。笑ってやがるじゃねえか、こいつ」

ラガルトは手を伸ばし、短い角の生え際のあたりを掻いてやる。
竜が鼻面を押し付けてきたので、胸のあたりに温かい鼻息がかかった。

「ああ―――水浴びが好きだから、ご機嫌なんだよな」

そういうヒースのほうも、ずいぶんと楽しそうに笑っている。

「あんたの言うとおり、いたずらっ子なんだよ、ハイペリオンは。人の生の何倍かの時を生きているはずだが、竜としてはかなり若いんだ。人だとしたら、子供の域をようやく出たところかな。俺も竜騎士としては若輩者だが」

「まだ可愛い小竜ちゃんか。こんなにでっかくても甘ったれなわけだ」

ぽんぽん、と竜の鼻面を叩く。ハイペリオンはあくびでもするように、ごおっと息を吐き出し、息に混じって小さい火の玉がぽつぽつと飛んだ。その火がわき腹をかすめそうになって、ラガルトはあわてて飛びのいた。

「あぶねえな、おい」

「ハイペリオンは、からかわれるのが嫌いなんだ」

「竜と騎士とは一身同体か―――いい相棒がいて幸せだな。ハイペリオン」

竜はゆるゆると瞬膜を降ろしてラガルトを見る。それから翼をばさり、と動かした。湖面が大きく波打って、頭から思い切り水を被った。

「う…っわ」

波の勢いで、水の中に尻餅をつく。

「すまない、大丈夫か」

ヒースが生真面目に謝りながら近づいてくる。助け起こそうと手を伸ばしてきた。

「ありがとよ」

その手を握る。

「ヒース、おまえさん―――」

ラガルトは、握った手に力を込めた。それを合図ととって、ヒースはラガルトの身体を引き起こした。手を引かれた勢いのままに、ラガルトは間近にあったヒースの身体にするりと腕を回す。

「うわ……何す……」

腕の中で、ヒースの身体が硬直した。

「熱あるんじゃねえのか。思いっきり熱いぞ」

背中に腕を回して強く引き寄せると、濡れた肌と肌が吸い寄せ合う。相手の体温があからさまに自分よりも高いから、触れ合った場所から熱が流れこんでくる。

「えっ…ねつ……熱?あ、俺は別になんともない―――頼むから放してくれ」

完全に固まっていた身体がどうにか動きを取り戻し、ぎこちなくもがく。背中に回していた腕は解いたが、逃げようとする身体を二の腕を掴んで引き止める。

「なんともないって熱さじゃねえな。風邪っぴきか」

緑色の前髪をかきあげながら、額に触れる。ひときわ熱い気がしたが、間近に見る顔はのぼせたように赤いから、そのせいもあるかも知れない。
ヒースは身体を捻って、ラガルトの手を振り解こうとした。

「うわ」

バランスを崩して転びかかるのを、腕を掴み直して引きとめ、もう一度引き寄せる。

「んな、緊張しなさんな。何にも悪いこたァしねえよ」

ラガルトは苦笑した。
済んだ空色の目を覗きこむ。うろたえて揺れる瞳は、少し潤んで見える。

「服着て待ってな。やっこさんの水浴びは、俺が付き合うからよ」

「本当に―――別にどこも―――」

いいから、とヒースを湖岸へと追いたてようとしたとき、背中から、ウォン、と太い弦を鳴らしたような音が響いた。
驚いて振り向く。

竜が天空を見つめていた。
羽をいっぱいに広げ、今にも飛びたたんばかりの大きな影となり、その首を天へ向かって真っ直ぐに伸ばしている。
ハイペリオンは天に呼びかけるように鳴いた。その声は、空を打ち、地を震わせる。音というより、身体の芯を震わせる振動として伝わってくる。
翼が空を打つ。

「ハイペリオン。やめろ」

ヒースの声が、竜の鳴き声をさえぎるように響く。湖の中、竜のそばへ駆け寄って行くが、ハイペリオンは主の声に反応を見せず、空を見上げたままだ。
ラガルトは竜の目線を追って空を見上げる。澄んだ青の中、ぽつりと黒い天が見えた。ゆっくりと空を渡っていく。

「ハイペリオン」

ヒースは竜に呼びかけた。

「ただの鳥影だ。竜じゃない」

ハイペリオンは、小さな影の行方を見送るように、しばらくの間動きを止めた。それからゆっくりと頭を下ろし、ヒースの身体に鼻面を擦り付けた。くるる、と喉声で鳴く。

「驚いたな。竜ってのはあんな声で鳴くんだなァ」

響き渡る弦の音のような、人恋しい呼び声のような―――そんな声だった。ラガルトは落ち着いてもとの様子に戻ったハイペリオンの傍らにたたずむヒースに近づいた。

「長いことベルンの空を渡る竜を見てきたが、あんな鳴き声ははじめて聞いたぜ。どういう意味なんだい、ありゃあ」

ヒースは、湖の水に胸のあたりまで浸かり、うつむき加減にぼおっと立ったままでいる。

「おい」

ラガルトが肩に触れると、びくりと身体が震えた。こちらを向くヒースの顔が、一瞬泣き出しそうな表情になる。ラガルトはそれを見逃しはしなかったが、何も言わずヒースが口を開くのを待った。

「あ、すまない。ちょっと―――ぼおっとして……」

からかわれて赤らんでいた頬が、今は白い。

「何でもない。具合が悪いとかでもないから。大丈夫だ。俺も、ハイペリオンも」

ラガルトは様子を確かめようと、ヒースの顔を覗き込んだ。ヒースは目をそらすでもなく、返事のように微笑んだ。透明な水色―――空の青を映す目は澄んで、少し濡れている。

「陣に戻ろうぜ。風も冷たくなってきたからよ」

ラガルトはそう言って、口元に笑みを浮かべた。様子のおかしい竜騎士が心配ではあったが、これ以上の世話焼きは、詮索になりかねない。問い詰める気は無かった。
ラガルトの声に背を押されるように、ヒースは湖岸に向かって歩き出した。ハイペリオンも、主の後を追うように、のたのたと歩く。

身じまいをして、再び竜の翼に運ばれる客人となる。
ヒースの身体に回した腕から伝わってくる体温は、あからさまに普段より熱かった。日はそろそろ高い山の向こうに姿を消そうとしており、眼下には傾く日に照らされた一面に金色の世界が広がっている。
心を締め付けるような、美しい眺めだった。



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