「おあずけ」 (1)
おふくろが死んだのは、俺が六歳の時だ。その顔やら声やらは、思い出そうとしても薄ぼんやりとしか浮かんでこない。おふくろはその前から寝こみがちになっていたから、俺の面倒を見てくれていたのは、兄貴だった。
「あんたの兄貴はおふくろさんに似てるなァ」
アジトに顔を出して、飲んだくれている親父の古い馴染みが言う。くたびれたじいさんだが、昔は手だれの傭兵だったって話だ。時折、酒をねだりに来て、誰も聞いちゃいない昔話を一人でしゃべって、勝手に満足して帰って行く。
「そうだねえ、兄ちゃんのほうは、おっかさんに似てるねえ」
台所の女衆を仕切っているおばちゃんが、じいさんに酒をついでやりながら言う。
だったら、俺のおふくろはよっぽどの別嬪さんだったに違いねえ。
俺がそう言うと、横で聞いていたラガルトが鼻を鳴らしやがった。
「なんだてめえ、文句あんなら、はっきり言いやがれ」
「いやあ、あんたらの兄弟愛に感激して、涙が出そうになったのをこらえたら、おかしな声が出ちまったのさ。全く、別嬪さんだからなあ、ロイドは」
そういいながら、口の端を思い切り上げてニヤニヤ笑う。だから、テメエのその笑いがカンにさわるんだよ。目ぇむいてギロリとねめつけてやる。
「おおおお、こわ。俺ァ仲間だぜ。後ろから切りかかってくんのはナシよ」
「おう、正面から真っ二つに叩き切ってやらあ。縦がいいか横がいいか考えておきやがれ」
「じゃあ、ナナメ30度ぐらいで」
ああいえば、こう言う。度し難いとはこういう奴を言うのだろう。しゃべるたびにむかつくから、俺はこいつが嫌いだ。嫌いだと思ってるのに、気がつけばそばにいる。俺のそばにじゃねえ、兄貴のそばにだ。ああ、むかつく。
だったら、今すぐ三枚に下ろしてやるよ、と、ラガルトに向かってつっかかって行こうとしたら、勢いがついて、座っていた椅子をひっくりかえした。
「うるせえ」
よく通る声が、調子を変えるでもなくそう言った。
とたんに、ざわめいていた部屋の中が静まる。
仕事から帰って、食堂―――実質は酒場だ―――で羽を伸ばしていた連中が兄貴の声一つに反応して声を殺した。
「おまえだ、ライナス」
俺?俺だけなの?
「悪かったな、邪魔しちまって。気にせずに飲んでくれ」
兄貴は席を立って、自分の部屋のほうへ歩いていっちまった。
なんで俺だけ怒られんの?だってこいつがさあ―――
そう言おうと思ったのだが、実際は兄貴の後ろ姿にむかって口をぱくぱくさせただけで終わった。いや、だって。怖えんだよ、怒らせると。ほんとマジで。
「まァまァ、そうへこむなよ、でっかい図体してさあ。かわいそうになっちまうじゃねえか、なあ」
そんな俺を見て、ラガルトが妙におっさんくさい口調で語りかけてきた。なあ、じゃねえだろ、兄貴怒らせたのは、てめえのせいだろ。
「うるせぇ」
我ながらなさけない声が出る。
ラガルトは口を押さえてヘンな音を出していやがる。笑うんならはっきり、大口を開けて男らしく笑いやがれ。
「別嬪さんはご機嫌ななめだ。明日の仕事はちょっとばかりいわくつきなんだよ」
ラガルトが笑いをおさめて言う。
「だったら、俺もついて行く」
「ロイドが許さねえだろ。あんたにゃ向かねえ仕事さ」
「おまえは行くのか」
「そりゃ行くさ、俺の専門だからね。俺の腕じゃあヤバいかもしれないんで、ロイドも来てくれる」
ああ、そうか。俺はこの場に見当たらない顔を心のなかで探した。あの女が来てから、見慣れた面子はずいぶんと減ってしまった。今度は誰が粛清されるっていうんだろう。
「誰だ」
「言えねえ。どうしても聞きたけりゃ兄貴に聞くんだな」
「女か」
なんとなくそんな気がした。
「言えねえんだよ、な?」
ラガルトは、少しばかり困ったように言うと、俺の胸元を手の甲でポンと叩いて離れて行った。
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