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「白い霧に潜むもの」 (2)




セインは樹海沿いを単騎進んだ。霧の中に、時折深い木々の緑がちらちらと見えるが、数歩進めばそれも凝った白の中に溶けて消えていく。

「ケント」

探す者の名を呼ばわるが、その声までもが深い霧に吸い込まれていくようだった。

「なあミシル。どこに行っちまったのかな。おまえのご主人は」

セインはケントの愛馬の首を軽く叩いてやる。いつもは手入れの行き届いて滑らかな毛並みも、湿気を吸ってわずかにべとついていた。
ミシルは気性の穏やかな馬で、主以外の人間を乗せるのを嫌がらない。だが、今は時折、神経質そうに首を震わせていた。

―――嫌な気配だ―――

セインは眉をしかめた。先ほどから、首を竦めたくなるような冷気を感じている。
探し人の姿を求め、白い闇を見透かそうと目をこらすと、その向こうから誰とも知れないものが、こちらを覗き返してくるような気配を感じる。霧に取りまかれ、半ば五感を封じられていることによる本能的な恐怖が、そういう錯覚を感じさせているのか―――

―――いや、違う―――悪意だ、これは。誰かの。あるいは、何かの。

セインは馬を止め、目を閉じてみる。
白い霧に混じって触手を伸ばしてくる、肌をちりちりと泡立たせるような気味の悪い感覚。
この場所に居たくない。
逃げ帰りたい。
頭を押さえつけられるような、重い圧迫感がある。
セインは、僅かに微笑んだ。自分の進む道は間違っていないらしい。この悪意の主の居る場所を目指せば良いのだ。

「へそ曲がりなんだよなあ、俺」

軽く鐙で合図すると、馬は再びのろのろと進み始めた。

「来るなって言われると、行きたくなっちゃうんだな」

霧の向こうにいる誰かに話しかけるように、そう言う。
返事のように、背骨をびりびりと振動させるような、どうにも嫌な感覚。それが頭の中にまで伝わってきて、低い耳鳴りのような音になった。

「ケント、居るか」

それを降りはらうように、名前を呼ぶ。

「ケント」

名前の主以外の悪しき者を、呼び寄せる危険が無いわけではなかった。それでも、視界は奪われているから、声を使うしかない。
白い霧を分け、じわじわと骨まで染み入るような冷気に耐えながら、あえて危険を感じる方向へと進んでいく。意志を削り取ろうとする悪意に逆らって進むうちに、身体の感触も時間の過ぎる感覚も無くなってくる。

馬が足を止めた。
本隊と別れてから、どれほど進んだのかはわからない。霧と寒さに奪われつつある感覚を蘇らせようと、目を凝らし、耳を澄ませる。

水の音がした。
馬から下りてみると、足元は少し高い土手になっていて、すぐ先に水の流れが見えた。川面は霧に覆い隠され、どれほどの広さの川であるのかも分からなかった。まばらに草の生えた河岸を、馬の手綱を引いて歩く。目を凝らして向こう岸をうかがうたび、ぞくぞくする冷気を感じた。耳鳴りのような音が、川の響きを消してしまいそうに大きくなる。

「向こう岸か―――」

ぶるる、とミシルが鼻面を震わせた。

「大丈夫か、おまえ」

問いかけると、馬は顔をすり寄せてきた。

「よしよし。こんな目に合わされたんだから、あとでご主人さまから褒美もらえよ。俺は何をもらおうかなあ―――」

進む足は、一歩ごとに重くなってくる。それでも少しずつ進んで行くと、ねっとりとした霧が唐突に途切れ、木の橋桁が見えてきた。白い霧の中、簡単な造りの木の橋だけが浮かびあがって見える。
セインは橋を渡ろうと、ためらいなく踏み出した。
瞬間、頭の中で続いていた低い耳鳴りのような音が、空洞に響く叫び声のように一気に高まった。思わず膝が砕けそうになるのを、馬の背にすがり、どうにか踏みとどまる。目の前が霧のためではなく、白く変わった。

―――くるな―――

そう聞こえた。音はこだまとなって頭の中に散乱し、数十人が耳元で聞き取れぬ言葉を囁き合っているかのように、とりとめが無い。

「―――来るな―――」

今度は、はっきりとした言葉になって、頭を殴りつけるような強さで不協和音が響く。

来るな来るな来るな来る――――

「―――つっ」

セインは思わず耳を塞いだ。それでも、頭の中に直接響いてくる。奥歯を噛み締めて、頭を揺さぶられるような感覚をやり過ごす。声は少しずつ遠くなっていった。打ち鳴らされた銅鑼の音が韻々と後を引くように、低い振動がしつこく頭の奥に残っている。

セインは詰めていた息を吐き出した。
頬を流れる汗の感触があり、拭おうと手をやる。指先に触った皮膚は冷たく濡れていた。手や足にも、じわじわと痺れるような、奇妙な感覚がある。握っていた槍を持ち直し、強張った身体をほぐそうと、ぶらぶらと手を振る。

「無駄だよ」

囁くように言う。

「俺はそこに行く。なあ、うちの騎士隊長はそこにいるんだろ」

魔の島は、しんと静まっている。
セインは白い霧の中、探し求める者の姿を思い浮かべる。

赤みの強い髪。
生真面目そうな眉の形。
穏やかに澄んだ目。
きれいな鼻筋と、いつも引き結ばれている口元。

木馬の騎士の時分から、常に傍らにある姿だ。思うのはたやすい。その髪に指を通したときのさらさらした感触も、端正な外見の内側の、脆くて熱い部分も知っている。
その姿を思い、生真面目が過ぎて生きるのに不器用な心を思う。
ただ一心に愛しい者のことを思えば、冷えた身体の中心に熱が燈る。それは生の温みとなって緩やかに指先まで流れこんできた。

心の中にあるその姿を、抱きたいと思う。
抱きしめてやりたい。
彼は俺の傍らにある者。俺は彼の傍らにある者。
いつの間にかそう心を定め、だから自分のものにした。

「あいつは、俺のものだ。返してもらおう」

ミシルの首を撫でて励ましながら、セインは橋を渡った。



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