寒くて堪らない。
 言ったのはサンジだった。日頃から白い顔が更に血の気を失い、ガチガチと歯を鳴らす男の唇は紫色になっていた。
『なんで、てめぇは服着てねえんだ!そりゃあ立派な公害だぞ!』
 グランドラインの冬に突入しても、ゾロは半裸の皮膚から湯気を上げている。零下の気温であるというのに、ひとり真夏の日差しでも浴びているかのように全身に汗をかき、足元には常人には持ち上げられぬ非常識な重量の鉄輪を連ねた金属の棒がある。昼食の時間になっても姿を見せない剣士の背後から凶悪な一蹴を浴びせた料理人は、歯の根も合わせられもしないくせに、あくまでもゾロを罵倒する。
『鍛え方が足りねえんだろ。俺はテメェみたいに柔にゃできてねえ』
 無口なイメージが付きまとうゾロだったが、仲間達相手であれば普通に会話が成立する。相手が気に入らないコックだろうが、言葉には言葉で報酬する。先に手出しするのはいつも切れやすいサンジだ。
 このときも、プライドだけは無駄に高い料理人は、たったの一言に逆上してみせた。
『もういっぺん言ってみろっ!』
 言うより先に脚が出ている。サンジの蹴り技は、あのゼフ直伝だけあって破壊力はゾロの鉄を両断する力をも凌ぐ。無防備に受け止めるには、あまりにも危険すぎる凶器が繰り出された事実は、冷静を装う剣士を逆上させるには充分すぎた。
『俺ぁ、テメェみたいな鈍感筋肉マリモとは違うんだよ。繊細にできてんだ!』
『核を突かれたくらいで、脚使うんじゃねえ!!』
 すらりと白刃を抜くゾロの頭上に危うく突き刺さりかけた重い蹴りは、紙一重で交わされた。だが払ったと思えた瞬間には、体勢を立て直す暇も与えずに真下から摩擦音と同時に蹴り上げられた。反射的に身を反らすゾロの顎先に爪先が掠め、薙ぎ払った刀の切っ先をサンジが半身をよじって避ける。
 掠めたとはいえ、サンジの蹴りはカマイタチ現象でゾロの皮膚を裂き、ゾロの刃先はサンジのスーツを切り裂いた。それが合図となった二人の乱闘は、ナミの鉄槌が下るまで延々と続けられた。
 甲板のあちこちに穴や傷があり、修理は自分達でしろの捨て台詞に、二人はウソップから大工道具を拝借して、表面上は大人しく。だが近づけば下らないレベルの口争いを続けていた。
 いつでも喧嘩が再開できるようにしながらも、上着を着ても身体を震わせる料理人が大切にしている手を気遣うだけの配慮はあった。気に食わぬ相手であっても、心底から嫌悪を抱いているわけではない。ゾロの刀をサンジは決して粗末には扱わず、剣士もまた料理人が夢を掴むための手にだけは傷をつけようとはしなかった。ましてや、この寒さの中、かじかむ手指が役立つはずもなく。ゾロは黙々と板を打ちつける作業に勤しんだ。
 あれは、そんなに遠い過去じゃない。
 サンジは寒いとは二度と口にしなかったが、ゾロに釘を手渡した指はひどく冷たかった。
 いま、ゾロが見つめている片手と同じに、低い体温しかなかった。



―――戻ってきて、拾ってくれたらいい

   戯けた台詞を言って退けた料理人は、航海術に於いては天才的なナミの力をもってしも、ついに見つけられずじまいに終わった。サンジが片手を斬り離さなければ、ゾロもろともに荒れる海へ呑まれていた。他人の犠牲を何よりも忌み嫌ったサンジらしいと言えばらしいが、残された者たちの胸には深い悔恨という傷跡が強く残されたままだ。
 誰もが夜更けのキッチンに明かりがないことに慣れない。
 どこからか、サンジがひょっこり姿を現すのではないか。その思いが拭えなかった。
 どんな場所でも、船の上ではサンジがいつも吸うタバコの匂いがあり、いないと頭では理解していても、不意に漂う嗅ぎ慣れた紫煙の匂いがすれば反射的にその名が口を突いて出た。キッチンで料理をするたびに、いかにもプロらしく管理された調理器具や香辛料の並べ方に、胸が詰まる。停泊した島で否応なくしなければいけない買出しに、気持ちが淀んだ。
 サンジの存在がなくなり、食べるという行為が何よりも苦痛になった。例え外であろうが、出される料理のできばえが完全であるほどに、美味いとは感じられない。

 それでも、空腹を感じる。渇きがある。

 耐えられなかった。

 酒を勝手に持ち出して、倉庫の食料を荒らし。
 幾度もナミの蜜柑畑に侵入した。
 厳重にロックされている冷蔵庫をこじ開け。先も考えずに酒ばかりを喰らいして。
 何よりサンジが譲らなかった行動ばかりをしていれば、いまにも怒号と同時に鋭い蹴り足が飛んでくるのではないか。どうしようもない考えまで浮かんだ。
 食材に関しては、殊のほか凶暴になるコックが、ドアを蹴り破って飛んでくるような妄想に囚われてしまえば、バカらしいと後には思っても、その行動を止めようとは考えなかった。どんな可能性でもいいから、片手だけを残して逝ったなどとは認めたくない。
 握り締めた掌には、馴染んだ刀ではなく。冷たい片手があった。
 誰もゾロを止めようとはしなかった。止められるだけの余裕もなかった。サンジと深く係わり合いのあった者ほど、痛手は深い。それにもまして、自分自身の気持ちすらままならない状態では、意識のあちらではゾロがサンジの片手を常に身に付けていると知っても、ぼんやりとしか受け止めていなかった。
 それでも、毎日は慌しく過ぎていく。うかうかと沈み込んでばかりもいられなかった。どれほど消沈していようとも、海軍は執拗にルフィたちを追い回し、賞金稼ぎや海賊たちは小さな海賊団を叩き潰そうと連日のように襲い掛かってくる。大きな戦力の一翼を失った海賊団の話は、思いのほか流布されていた。欠員を補うように後方支援が主だった者たちが、前へと自ら出るようになった。それが、切欠だった。 

 サンジの代わりに闘いへと走り。
 サンジの代わりにキッチンに立ち。
 サンジの代わりに市場を回る。
 
 コックを失い、自分達で料理をして食べることに慣れ、無闇に食べることを制御することを覚え。港で新鮮な食材を安価で仕入れる術を身に着けて。闘いのポジションさえ、以前とは違う形に固定した。染み付いていたタバコの匂いが海風に払拭された頃には、サンジの私物は倉庫の奥に押し込まれた。
欠けた穴を埋めていく毎日に寂しさを覚えても、当初の頃のような重苦しい空気は希薄になった。それぞれが、事態を自分たちなりに処理していき、前を見るようになれたが、ゾロひとりだけが順応していく仲間達に出遅れた。
 その原因は分かっている。いまだ手元に残されているサンジの片手だ。
 ゾロの周囲では、仲間たちが徐々に夢へと向かっても、すべてが薄い皮膜のあちら側から眺めているような曖昧模糊とした感覚しかなかった。ゾロの感情の一部は、サンジが波間へ消えたときから完全に破壊されている。







 

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